第30話 死んじゃえベイベー



『はじめての魔術書』の106ページ、上から11行目には、黒塗りにされた呪文がある。



「燈!」

後ろから飛びつかれて、わたしはマグカップをもつ手を揺らしてしまった。

もう冷めたココアが教科書にこぼれる。


「もう、涼ってば。急に背中に乗ってこないでって、何回言えば――」

「あ、教科書汚れてるじゃん。大事に使いなよ~」


誰のせいで、と反論しようとしたときには、涼はもうベッドに寝転がっていた。もちろん、わたしのベッドだ。



涼・ハマー=チグリスはわたしの幼馴染みで、この学園寮の同室に暮らす。


小さいころから、彼女はまったくといっていいほど変わらない。

その舌がなにかを望めば、わたしはどんなことであれ叶える。

その手が差しだされるのなら、どこへでもついて行く。


純で無垢で邪気っ気たっぷりな瞳で見つめては、わたしの心を占領し、惑わせる。まるでセイレーンだ。



「ね、その黒塗り、なんだろうね」

涼は仰向けになって脚を組んだまま尋ねてきた。わたしの枕を抱いている。


「1回目の授業、きいてなかったの?」

「きいてない。どうせあとで燈が教えてくれるから」


そう、涼はそんなやつだ。

もはや非難する気にもなれす、わたしは例の黒塗りを指さした。


「これは、もとは有名な童話にも登場する、初歩的な呪文だった。詠唱だってカンタンよ。ほら見て、たったの4単語」


涼がベッドサイドぎりぎりまで近づいてきて、塗られた箇所と周りの文章と見比べる。

「ほんとだ」


今気がついたということは、授業が始まってもう半年になるのに、教科書さえろくに見ていないということだ。

思わずため息をつきかけて、あわてて引っ込めた。咳払いして説明を続ける。


「だけどちょうど1年くらい前、この呪文の魔術式が書き換えられてしまったの。

対象を一時的に硬直させるだけだった魔法が、ヒトの命を容易に、大量に奪える手段となった」

「誰が書き換えたの?」

「まだ突き止められてはいないけど、有力な説はフィウメ家の人間よ。魔法生成に長けた家系だから」


へえ、と淡泊な返事をして、涼は再び脚を組んだ。

自分から訊いておいてその反応はいかがなものかと思うけど、文句は言わないでおく。


涼は黙ってわたしの顔をまじまじと見ていたかと思うと、ふいに口を開けた。

「で、なんでそんなに黒塗りを解読しようとしてるの、燈・オーシ=ユーフラテス?」


とっさに声が出なくなった。

「……なんのこと?」

「うわあ、ベタなごまかし方だね。むしろヘタと言うべきかな」


ああ、そうだ。涼はそんなやつだ。

わたしにどれだけ迷惑をかけようが気にしないのに、観察眼だけは鋭い。

その目で見つめられると、メデューサの術にかかったかのように身体がしびれて動けなくなってしまう。



わたしが下を向いてしまうと、涼は「ま、どうでもいいけど」とベッドをおりた。

「燈がそんなものに興味をもつなんて、意外だったってだけだよ」


「……そんなんじゃないわ」

わたしのつぶやきは、彼女が部屋を出て行く音にかき消された。


そう、「大量に人を殺す魔法」になんて興味はない。

わたしが殺したいのはあなただけ、涼・ハマー=チグリス。大事な大事な幼馴染み。


それにね、すでに呪文の解読は終わっているのよ。


親友が出て行った扉に向かって、わたしはそれを唱えた。

Voglio la tua morte死んじゃえ、愛しのチグリス」

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