閑話休題 国史編纂の歴史
ここで、「古事記」「日本書紀」にいたる国史編纂の経過を概説しておく。
厩戸王が編纂したと思われる「
「本記」は戸籍の原型にあたるものだったと考えられているが、律令制が整っていないこの時期の倭国で全ての国民を網羅した戸籍を編纂することは不可能である。
推古天皇の治世の間には、「天皇記」「国記」そして「本記」のすべてが未完成のままだったであろう。
これら三つの倭国の記録は、隋からの要請があって編纂が開始されたと考えられている。
その国の歴史と人民の戸籍を記すことは、律令制が成立していた大陸の王朝では必須の事業だった。
例えば、邪馬台国との通交が記録されている魏志倭人伝は、三国時代の魏が編纂した自国の国史「魏志」の一部分である。
独立した国家として隋に認められるためには、大陸の王朝同様に倭国の成り立ちを記した国史が必要だったのである。
大化の改新後に孝徳天皇が唐に遣唐使を派遣した際、倭国の歴史を唐の皇帝に伝えた、という記述がある。自国の国史を有することが、大陸の王朝と関係を結ぶために必要なものだったことが、この事例からも分かるだろう。
ただ、孝徳天皇が唐に渡した倭国の国史は、「天皇記」でも「国記」でもなかった。
「天皇記」は厩戸王の子である山背大兄王を蘇我入鹿が滅ぼしたときに失われ、「国記」は乙巳の変で中大兄皇子が蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼしたときに焼失した。孝徳天皇の遣唐使が唐に伝えた国史の内容は未詳で、孝徳天皇の在位期間にそれ以上具体的な国史編纂の記録はない。
次に国史編纂の形跡がみられるのが白村江の戦いの後の天智天皇の時代である。天智天皇が近江大津京で中臣鎌足に国史の編纂を命じた、とされるが、日本書紀にその記録はなく、伝承の域を出ない。
天皇の詔として国史編纂の命令が出されたのは天武天皇の時代である。681年に天武天皇から出された国史編纂の詔によって、「
「帝紀」は大王の系譜を記したもので、「旧辞」は神話や説話をまとめたものである。この二つの国史に加え、713年には各地方の歴史や伝説を記録した「風土記」の編纂が命じられた。
これらの記録の検討を経て、まず712年、元明天皇(天智天皇の皇女)の時代に「古事記」が献上された。ついで720年、元正天皇(元明天皇の皇女)の時代に「日本書紀」が献上され、日本の国史が成立した。
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