第14話 厩戸王の死
遣隋使を送ることで大陸の王朝である隋と接触した倭国は、半島諸国に比べて遅れている律令制の整備と確立に向けて動き出した。
新羅や百済、任那だけでなく高句麗とも使者による外交が活発化し、半島からは仏教にまつわる技術や造園やその他の建設技術、仮面をつけて舞う技楽などの文化が倭国に流れ込んできた。同時に半島の国々から倭国に帰化する人々も増加した。
有力な豪族は自分の領地に競って寺院を建設し、また新たな技術を得るために半島からの帰化人を抱え、養った。この傾向は、推古天皇の王宮
一方、遣隋使と共に大陸に渡った学僧や学生は、隋の滅亡に立ち会うことになった。
618年、
新たな王朝である唐に、速やかに遣唐使を送ることは倭国内で検討されていたであろう。
しかしそのその4年後の622年に厩戸王が48歳で亡くなると、王権は再び動揺し始める。このとき68歳になっていた推古天皇だが、厩戸王の代わりの皇太子を指名することができなかった。
推古天皇自身の皇子や異母弟は既に死亡し、厩戸王の子である
かろうじて敏達天皇とその最初の皇后であった広媛との間に生まれた
さらに厩戸王の死から五年後には蘇我馬子が亡くなった。
王権の運営を支えていた厩戸王と蘇我馬子を相次いで失い、新たな皇太子の選出には決定打を欠く。律令制への制度改革が失速していくなか、推古天皇もまた628年に病のために亡くなった。78歳という高齢だったためか病の悪化が早く、推古天皇は存命のうちに王位継承者を指名することができなかった。
新たな大王は田村皇子か、それとも山背大兄王か。
推古天皇の死の直後からふたたび、王位継承をめぐる争いが勃発する。
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