第13話 国史編纂のはじまり
隋は589年に南北朝を統一して生まれた王朝である。
倭国ではその前後に物部氏の滅亡や崇峻天皇の殺害など、不安定な状態が続いていた。
しかし、冠位十二階ならびに憲法十七条を制定し、推古天皇の王権が暫定的にせよ安定すると直ちに隋へと使者を送ったのは、隋の国を治める制度が倭国の新たな王権制度の指標となることが強く期待されたからだろう。当然そのような情報は百済経由で倭国にもたらされたと考えられる。
隋への倭国の使者、すなわち遣隋使として初めて派遣されたのは小野妹子であり、その時のエピソードはよく知られている。
――日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや
このように記されていた倭国の国書は、隋の二代目皇帝煬帝の不興を買った。この記録が残るのは隋書倭国伝であり、日本書紀には隋の反応は記されていない。日本書紀には、帰国した妹子が「百済の者に隋の返書を盗まれたため持ち帰ることができなかった」と報告したと記録されている。
妹子の歯切れの悪い言動は、隋の皇帝を怒らせたことを倭王権に隠そうとしたためではないか、と解釈されている。
妹子は隋からの使者である
のちに難波に王宮を置いた孝徳天皇の時代、半島や大陸からの使者をもてなすための
裴世清の隋での所属は
裴世清は一ヶ月ほど倭国に滞在して隋からの親書を推古天皇に奉じ、饗応を受けて帰国した。この時、裴世清とともに倭国から数人の僧侶と学生が隋へと渡った。その中には大化の改新の中心人物となる
初めての遣隋使の結果は、自らが未成熟な国家であるという自省を倭国に促した。現行制度はともかく、国の形を整えるために必要とされたのが倭国の歴史、すなわち国史の編纂である。
厩戸王は蘇我馬子とともに歴代天皇の記録である「天皇記」と倭国成立の歴史を記す「国記」の編纂に着手した。
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