第12話 冠位十二階と憲法十七条の制定

 古代の天皇は、即位の際に自分の次の大王となるべき者を皇太子と定めることが慣例となっていた。

 推古天皇も慣例通りに皇太子を指名したが、自分の子である竹田皇子たけだのみこではなく、用明天皇の皇子であった厩戸王うまやどおうを皇太子に指名した。竹田皇子は推古天皇即位の直前に死亡していたと思われる。


 政治体制の最初の変化は、政権からの大連おおむらじの排除である。

 それまでの倭王権は、おみかばねから大臣おおおみを、むらじの姓から大連をそれぞれ一人ずつ定め、二人の合議で政治の方針を決定していた。だが、推古天皇は大連を定めず、大臣に蘇我馬子のみを置いた。


 元来、臣の姓を与えられていたのは、大和周辺、近畿地方に拠点を持つ有力な豪族である。また連は、職能を以て王権に仕えていた豪族に与えられた姓だった。大きく二つに分かれていた臣下の区別を、制度上は撤廃しようとしたのだろう。

 これまでの慣習による臣下の区別の撤廃は、大王(皇帝や天皇)が与える冠位によって臣下の役目が定められる律令制への準備だった。


 だがその反面、大連の撤廃は、王族以外の権力を大臣である蘇我馬子に一極集中させる結果となった。


 推古天皇は即位後、ほぼ政治に携わることなく、皇太子である厩戸王に全てを委ねた。

 厩戸王は後世に聖徳太子という名で呼ばれ、倭国の仏教を興隆させた聖人として庶民にまで広く信仰を集めた。実際のところ、厩戸王が仏教の布教を推し進めた対象は、連や臣などの倭王権内で政治力を持っていた豪族たちである。


 豪族たちが仏教を受容することは、律令制度への改革のために必要なことだった。

 先に述べたように、大陸由来の律令制は信仰の教義を基盤として成り立っている。

厩戸王が制定した憲法十七条は、仏教の教えを基盤にして豪族が官僚として王権に仕える心構えが定められていた。

 豪族が仏教を受容し、その教義をある程度まで理解することは、律令体制を成り立たせるために欠かすことのできない改革の第一歩だったのである。


 一方、厩戸王と蘇我馬子による倭国の外交方針は、百済に親しく、新羅に対してやや敵対的なものとなった。これは倭国最初の冠位制である冠位十二階に百済の制度が反映されていることからも伺い知ることができる。


 厩戸王は崇峻天皇が半島を警戒するために筑紫に派遣していた軍を早々に引き上げさせた。

 百済との親交を表明したことで、百済の領地となっていた任那に関する何らかの権利を倭国が得たものと思われる。しかし任那に関して倭国と敵対することになった新羅は度々任那を攻め、倭国は新羅を討つための軍を派遣している。


 政治体制を確立することで、倭国は半島諸国との権力均衡を保つ重要性が高まりつつあった。

 百済にも新羅にも組せずに半島での勢力を維持したい厩戸王は、大陸に新たに生まれた隋の皇帝との接触を求めて遣隋使の派遣を決めた。

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