第20話 俊豪の字

 そこには不揃いで迫力のある文字が並んでいた。

 騒ぎに気付いた他の面首たちも、その書を目にしてクスクス笑い始める。俊豪チンハオは頬を染め、目を剥き、悔しそうに唇を噛んでいる。本当なら、自慢の腕っぷしで殴りつけるところだろうが、私が目の前にいるからできないようだ。


「このような教養の欠片もない男が蓮花様の側に侍るなんて、思い上がりも甚だしい」

 秀英シゥインがせせら笑うと、仲間らしき面首も深く頷く。

「初日に図々しく宮に押しかけるほど、礼儀も常識もない奴だからなぁ」

 ここぞとばかりに俊豪をこき下ろす彼らを見て、私はかつての自分たちの立場を思い出した。あぁ、こうして他の后妃たちと足を引っ張り合ったものだと。そして私も先帝の前で恥をかかされ、布団をかぶって泣いた日もあったと。

(なるほど)

 まったく洗練されていない文字を見て、私は理解した。散歩に誘われたあの日、俊豪はそれまで猟師だったと言っていた。

「俊豪」

「……はい」

「文字を習い始めたのはいつじゃ」

「ここへ来てからにございます」

(やはりのぅ)

 私は俊豪の書を高く掲げている面首に、こちらへ渡すよう手を差し出す。手渡されたそれへ、私はざっと目を通した。字こそ下手くそだが、それなりに説明文になっている。

「ここでの勉強は三月みつきほどであったの」

「はい」

「それでここまで書けたのであれば、大したものじゃ」


 私の言葉に、はやし声がスッと収まった。俊豪も驚いたように目をしばたかせている。

「秀英」

「はっ、はい!」

「そちは何歳から文字を学んだ」

「六歳にてございます」

 先程までの勢いはすっかり消え失せ、秀英は肩をすぼめて下を向いている。お仲間も同様だ。

(別に叱るつもりはないのじゃが)

 おかしみを感じつつ書を持ち主へ返し、秀英へと向き直った。

「十年以上学んだのであれば、さぞかし教養溢れる見事な記録をしてくれようのぅ。他人を揶揄からかっている暇があるなら、文字で妾の心を惹きつけてみよ」

「はっ、はい!」

 秀英と取り巻きは、慌てて自分の席へと戻る。


 振り返れば俊豪は、失敗を叱られた子どものような表情をしていた。

「どうした。前に院子なかにわで迫ってきた時の勢いはどうした」

「いえ、その……」

 俊豪は気恥ずかし気に私から目を逸らす。

「ありがとうございます。その節は、失礼いたしました」

(ふふ)

 こうして見てみれば、可愛いものだと思う。図体は大きくとも、まだまだ子どもじゃ。

「そちの字、悪くないぞ。たった三月でここまで出来たのであれば、他の者に追いつくのもあっという間であろうよ」

 立ち去ろうとした私の背を、俊豪の声が追いかけてくる。

「蓮花様、文字はこのように拙い俺ですが」

「うん?」

「房中術に関しては、蓮花様に不快な思いをさせぬよう、しっかり身につけておきますので!」

 この期に及んで言い出すことがこれかと、俊豪に少し呆れる。しかし彼の瞳は真剣そのものだった。

「期待しておこう」

 そんな日は来ないのだが。


 また別の片隅に、一人黙々と書き続けている小柄な人影を見つけた。

小龍シャオロンか)

 掃除の手伝いをすると言って、まんまと宮へ潜り込んだ男だ。無邪気を装っているが、油断ならぬ男と私は見ている。

 そっと背後に回り手元を覗き込む。

「ほぅ」

 こちらは細やかな字で丁寧に書きつけられていた。私に気付いた小龍は、嬉しそうに振り返る。

「いかがでしょうか?」

 彼は、織物についての記述をしていた。内容に目を通せば、肌触りや染料等について、実に詳しく記されている。

「これはすごいな。我ら後宮の女が気にする点を見事に押さえてある」

「ありがとうございます!」

 彼は、少年のような屈託のない笑顔を浮かべた。

「使用人同様にこき使われていたことが、ここに来て生きました」

「と言うと?」

「帳簿など記録をつけるのは僕の仕事でしたので、字は書き慣れております。それに兄や、その家族の衣服を用意するのも僕でした。気に入らなければ棒で打たれるので、良いものを見抜く目は鍛えられたようです」

(なんと……)

 まだ子どもらしさを残した華奢な体を、棒で打つ人間がいるのが信じられない。私は思わず小龍のあごに手を掛け、こちらを向かせた。

「蓮花様?」

 戸惑った様子の小龍に構わず、私は顔をいろんな角度から観察し、髪をかき上げて肌を確認する。

「あの、蓮花様……」

「傷痕は残っておらぬようだな、良かった」

 私がほっと息をつくと、小龍は悪戯っぽく笑った。

「まだ、服の下がございます」

(ぬっ)

「傷痕が残ってないか、今宵改められませんか?」

 無邪気な微笑みに艶を滲ませた小龍の額を、私は絹扇で軽く小突く。

「馬鹿者。そなたの体など既に見ておるわ」

「そうでした」

 悪びれることなく、小龍は愛らしく笑う。

(まったく)

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