第21話 知性の佩芳

 私は室内を歩き、皆の手元を見て回る。字体はそれぞれであるが、皆、資料を紐解きながら真剣にそれぞれの作業に取り組んでいた。

(さすが、選ばれし者どもよの)

 俊豪チンハオのように、慣れぬ手付きながらも懸命に仕事に取り組んでいる者もいる。学はなかったとしても、たった三月で説明文が書けるようになるのだから、地頭は間違いなく良いのだ。


 だが、その中にひときわ目を引く面首がいた。

(これはすごい)

 驚くべき速さで作業を進めている。しかも完成されている字体だ。資料は確認程度にちらりと目を走らせるだけで、自らの知識で説明文を書いているようだ。

「そち」

 私が声を掛けると、彼は手をぴたりと止めて振り返った。

(ほぅ)

 怜悧という言葉が相応しい顔立ち。眼鏡の奥の眼差しは、柳の葉のように鋭い。細身ではあるが肩幅が広く、背も高いようだ。きちっと結い上げた髪は、一筋の乱れもなかった。

「名は何と申す」

コアン佩芳ベイファンと申します、蓮花リェンファ様」

 声も落ち着いていて涼やかだ。

「見事な筆跡じゃ。知力の高さが見て取れる。そち、科挙には挑んでおらぬのか」

「は、いえ。幾度か挑んでおりますが、挙人きょじん止まりでして。お恥ずかしい限りでございます」

(なんと、挙人であったか!)


 挙人とは科挙の中でも郷試と呼ばれるものの合格者につけられる名である。挙人になれば、中央官吏の採用試験である会試を受ける資格を得られる上、地方官吏であればすぐにもなれる立場だ。

(まだ若い)

 何度か挑んでいると言ったが、五十歳を過ぎた合格ですら早いと言われる科挙だ。しかし彼は、三十にも達していないだろう。

「……それだけ挑戦をしてきたのであれば、この任に不満を感じたりはしなかったのか?」

「いいえ」

 知的な面に、控えめな笑みが浮かぶ。眼鏡の奥の目が、きれいな形に細められた。

「中央の官吏に抜擢していただいた上、使える主が蓮花様なのですから。不満のありようがありません」

(おぅ……)

 良い。実に良い。相当な知性を持った人間にかしずかれる快感。正直、少し胸が高鳴ってしまった。


 ――蓮花様、気が迷わば九歳の子どもでございますぞ。


(わかっておるわ!)

 頭の中の傑倫ジェルンが苦言を呈する。そのおかげか、気持ちが落ち着いた。

(しかし勿体ないのぅ、ここは数日後には閉鎖の予定じゃ。科挙を諦めてまで任を引き受けてくれたのだから、知れば落胆するであろうな。どうにかこの逸材だけでも宮中で働かせてやれぬものか。……いや、それでは科挙の意味がなくなるか)


 ふわりと良い香りが漂って来た。佩芳が乳鉢を手にしている。

「なんじゃ、それは」

「香を調合されていた后妃様がいらっしゃったようですね。練り香も沢山見つかりました」

「あぁ……」

 その后妃であれば心当たりがある。常にいろいろな香を扱っていたため、匂いが強すぎて先帝が好まれなかった娘だ。だが彼女が作った香はとてもかぐわしく、好んでいた后妃は多かった。私もその一人だ。

「ふむ、これには『蓮花』と書いてあります」

「あっ」

 佩芳の手にある小さな紙の箱の中には、練り香が入っていた。箱にはか細い文字で『蓮花』と記されている。

「妾のために作ってくれた香じゃ。懐かしいのぅ」

「蓮花様のために?」

「そうじゃ」

 かつての後宮を思い出す。

「この者は、后妃それぞれの印象イメージの香を作るのが好きでの。妾も作ってもらった」

「ふむ」

「今は、彼女の作った香に似せて作らせたものを使っておるがの」

 私は香に鼻を近づけ、スンとうごめかす。

「やはり本物は違うのぅ」

「なるほど」

 佩芳は私の首元へそっと鼻を寄せる。温かい息がかかり、そわっと肌が粟立った。

「これ、何をする!」

「失敬」

 続けて佩芳は、『蓮花』の練り香に鼻を近づける。

「……確かによく似ております。が、何が違うのでしょうか。気になりますね」

(まったく……)

 自分が艶めいた行動をしたことに、この男は気付いておらぬのだろうか。佩芳はただ香に鼻を近づけ、興味深げに頷いている。

「しかし、后妃様ごとに合わせて調合した香とは興味深い。蓮花様、蓬莱宮の后妃様方が使っておられた部屋を拝見したいのですが、許可をいただけますでしょうか」

「うむ、それは構わぬぞ」

「ありがとうございます。それで、もし可能ならばでございますが、それぞれの后妃様にまつわる思い出話を語っていただけますでしょうか。香の匂いと合わせて面白い記録になるかと存じます」

「なるほど、確かにそれは面白い試みじゃ」

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