第2話 回春を願う
とはいえ先帝の崩御から三十年も経った現在、ここで寝起きする后妃は私一人を残すのみであった。
(はぁ……)
朝陽の射しこむ寝室で
(衰えた……)
既に七十を超えた。かつては先帝の寵を思うがままにむさぼった花の
(男と身を交わし陽の気をいただけば、それが女の衰えた陰の気を補い若返りが叶う。太監からはそう聞いたのだが……)
まだ傍らで寝息を立てている
「……
気配に気づいたのか、傑倫がうっすらと目を開いた。
「既にお目覚めでございましたか。失礼いたしました」
微かに呻きながら、忠臣は身を起こす。こしの強い黒髪に癖がつき、四方八方へ向けてはねている。一国の
だがその体は鍛え上げられ、剥き出しの胸板は厚く、腕や腹には筋肉の陰影がくっきりと入っている。確か三十の半ばは超えているはずだが、今の立場となっても鍛錬を怠っていないようだ。故に、その体は実に瑞々しく張りがあり艶めかしい。
(それに比べて私は……)
頬に手を添え思わず漏らしたため息を、傑倫は耳ざとくとらえる。
「蓮花様は、今日もお美しゅうございます」
「世辞はよい」
「世辞ではなく」
「よいと言うておる。
皮肉めいて笑う私に、傑倫は何か言わんと口を開きかける。だがすぐに姿勢を正すと、敷布に両手をつきこちらへ深々と頭を下げた。
「力及ばず、大変申し訳ございません。我が身を不甲斐なく存じます」
別に傑倫のせいではない。それに私とて男の陽の気を云々を、本気で信じていたわけではない。ただ、可能性の一つに賭けてみたいと思っただけだ。おまじない程度に。
「よい、傑倫。顔を上げよ。素裸でそのようにされても目のやり場に困る」
未だ申し訳なさそうな顔つきの傑倫を、いじらしく思う。思えばこの男は、老境に達した私を、褥ではまるで恋人のように甘く優しく扱ってくれる。そんな忠臣に感謝しこそすれ、不平を抱いては罰が当たるだろう。
「太后陛下」
身なりを整え終えた私の元へ駆けつけてきたのは、太監の
「おはようございます、太后陛下。おぉ、今朝もまたなんと艶めかしい」
ニコニコと満足げに笑いながら、両手を胸の前で重ねて一礼する。
「やはり陽の気が効いておられるのか、いつにも増してお若く見えまする。そうですな、三十そこそこと言った辺りでしょうか。ひょっとすれば
(見え透いた嘘を)
私は馬へ冷ややかな一瞥を与える。
「孫の姉に見える祖母がいてたまるか。世辞も過ぎれば無礼になると知れ」
「世辞などと。わたくしは本心のみ口にしております。太后陛下は間違いなく、日ごとにまばゆいほどに若返っておいでです。ですが……」
馬はにんまりと目を細める。
「太后陛下が今のお姿に納得いかぬのであれば、より一層男を褥へ召すがよろしいでしょう。
「わかっておる」
私は南の方向へ顔を向ける。
(そのために、『あれ』を造ったのじゃからの)
「ところで馬よ、朝からそのように心にもないおべんちゃらを言うためだけにここへ参ったのか」
「あぁ、そうでした。皇帝陛下が」
「私の息子がどうした」
「本日も体調がすぐれぬとおっしゃって、床に伏せっておいでです」
「痴れ者!」
私は椅子を蹴って立ち上がる。
「それを早く言わぬか!」
「申し訳ございません」
「具合はどうじゃ、
黄麒宮の皇帝の寝所を訪れると、息子は辛そうに呻きながら身を起こした。
「母上、申し訳ございません」
私は息子――
「
「何を言う、まだ五十にもなっておらぬであろうが。それに齢と言うなら、母親である妾の方が、衰えるのは先のはずじゃ」
力なく笑う息子にそう返したものの、天佑は子どもの頃から病弱なところがある。むしろよくこの年齢まで生きてくれたものだ。
しかし最近はこうして寝込むことも多くなった。日々の政務を、私が代わりに片づけることもたびたびある。
「食べたいものはないか? 用意してやろうぞ」
「今は特に。ですが、
「そうか」
私は江淑妃に目くばせする。江淑妃は一つ頷き「料理人に伝えてまいります」と部屋から出て行った。
(そろそろ危ないかもしれんな……)
天佑の目は落ちくぼみ濃い隈が出来ている。顔色の悪い中、頬だけが不自然に赤い。熱を出しているのは一目でわかった。
(先帝が亡くなられたのは五十五の頃であった)
特に病気がちではなかった先帝ですら、だ。腹を痛めて産んだ息子の死など考えたくもないが、物事は常に最悪の事態を考えて動かねばならない。
「悠宗、今日の避けられぬ政務はなんじゃ」
「北の遊牧民の代表と謁見の予定となっております」
「あぁ、あの者らなら幾度か話をしたことがある。妾が出迎えよう」
「母上、いつも申し訳ございません。お任せいたします」
その時、軽やかな足音が近づいてきた
「おばあ様!」
時あどけない声と共に、一人の男児が姿を現わす。
「おぉ、
孫の暁明は、ニコニコと笑いながら駆け寄ってくる
「おばあ様、今日も綺麗!」
「ふふ、ありがとう暁明」
孫のまだ細く柔らかい髪をそっと撫でる。
(天佑にもしものことがあれば、次の皇帝はこの暁明となろう)
だが暁明はまだ六歳、帝位を継ぐには幼過ぎる。万が一、天佑と私が先立つようなことになれば、良からぬ者から傀儡として利用されるに違いない。母親の江淑妃が私のように気丈であればよいが、あれは大人しい女だ。自身が皇帝に代わって政務の指揮を取るなど、考えもしないだろう。それに男が群れなして強く迫ればきっと押し切られ、不利な条件も受け入れてしまいそうだ。
そうなればいずれ暁明は廃位され、下手をすれば罪人として処刑されることになるやもしれぬ。
(この愛し子をそんな目に遭わせるものか)
私は孫の細い肩をそっと抱き寄せる。
「おばあ様?」
「お前のことは、おばあ様が必ず守ってあげようぞ」
「うん!」
無邪気な笑顔が、胸にしみるほど愛しく切ない。
(この子のためにも、私は老いさらばえるわけにはいかぬ)
それには例え周囲から酔狂だと思われようとも、私は男と褥を共にし、陽の気をいただき、健康を保たねばならぬのだ。
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