第38話 舞い降りる救いの光

プリンは、路地の奥から静かに現場を見つめていた。

凄まじい緊張と、重い因縁の匂い。

あの家で何年も働いてきた彼女には、この空気の理由が分かっていた。


両親が亡くなったあの日から、

ジェノワーズの家は歪み始めた。

オランジェットとクラフティを押しのけ、

クグロフ・ジェノワーズの弟のビスコッティは家を奪い取り、

私物化しようとして子供たちにサインを迫った、

断ると虐待という形で兄妹に力を振りかざした。

それを三年間も続けた。


「……守ってあげられなくてごめんね…」


幼い兄妹を世話した記憶が、胸に刺さる。

走り回るオランジェットを叱り、叩かれた膝に絆創膏を貼ったこともある。

一緒にお風呂に入り、食事もしたし買い物もした。


そして今日。

その歪みの果てで、家政婦として雇ってくれたタルト・タタンの妻、リコリスがビスコッティを真正面から叩き伏せている。


初撃、二撃、三撃。

どれも私情ではなく、あの兄妹が三年間の被害を清算するための正確な一撃だった。

リコリスも我慢した三年間だったに違いない。


プリンはきっぱりと決意すると、

影から歩み出た。


コートの裾が風に揺れた瞬間、

リコリスの肩がわずかに動き、ビスコッティは怯えたように振り返った。


『そこまでよ』


その声には、家政婦として彼ら兄妹を叱っていた頃と同じ響きがあった。

しかし今は、その上に弁護士としての確固たる権威が重なっている。


リコリスはすっと構えを解き、ビスコッティは地面に倒れたまま顔を歪める。


『ビスコッティ。ここを出なさい。家族と共に』


『……は? 何言ってやがる、ここは俺の……俺の家だろうが!』


プリンはゆっくりと近づき、ビスコッティの視線を正面から受け止めた。


『あなたの家じゃない。

両親が遺したこの家は、オランジェット様とクラフティ様が継ぐもの。

あなたは“乗っ取った”だけ。』


ビスコッティはゴクリと唾を呑む。

彼が最も触れられたくなかった核心だった。


『今日をもって、全て終わりよ。

私はもう家政婦ではない。あなたの前に立つのは、弁護士としての私』


ビスコッティは言葉を失い、ただ口をパクパクさせる。


プリンはその横を通り過ぎ、小柄な二人の影へと歩み寄った。

オランジェットとクラフティが、驚きで棒立ち。


『プリンさん……?』


三年という歳月が、二人の声に震えを混じらせる。


プリンは穏やかに微笑んだ。

家政婦時代の柔らかさと、弁護士としての覚悟が同居した、

自信に満ちた微笑みだった。


『長い事待たせたわね。

どうにか、この家に決着をつけられるだけの“力”を手にして戻ってきたわ!

資格と言うチカラをね!』


クラフティが眉を震わせ、思わず駆け寄る。


『本当に……来てくれたんだ……』


プリンは膝をつき、二人をしっかりと抱き寄せた。


『これからは、あなたたちの家を守るのは私。

今日まで二人で戦わせてしまったわね、よく頑張りました』


『プリンさん!』『プリンさん!』


『私ってほら、注射恐怖症じゃないですか』


『関係ないよ』『関係ない』


背後では、ビスコッティが震えた声で呟く。


『俺の……家……なんだよ……ここは……』


プリンは振り返らず、静かに言葉を背中に置いた。


『違うわ。今日からは、法の下で“本当の持ち主”の手に戻る』


その一言を合図に、ジェノワーズ家をめぐる三年間の闘いは、

ようやく次の展開を迎える事になる。


プリンが割って入った瞬間、場の空気が一変した。

リコリスの背後で震えながらも踏ん張っていたオランジェットとクラフティの肩が、わずかに持ち上がる。


ビスコッティは鼻息も荒く、まだ自分の「権利」を掲げようとしていた。


『こ…こいつらが認めてない限り…ただの手続きだ、まだ俺の家だ!そうだろガキども!またぶっ飛ばすぞ』


声には焦りが滲んでいた。

この屋敷は、生前クグロフ・ジェノワーズが築き上げた歴史そのもの。

弟であるビスコッティはオランジェットとクラフティの両親亡き後、その「名」を盾に屋敷へ乗り込み、弱い者への高圧的な振る舞いを繰り返してきた。

だからこそ、彼は今、必死だった。

彼に残された拠り所は「ジェノワーズ家の名」以外に何も無かった。


プリンはそんな彼に一切目を向けず、すぐるでもなく、軽蔑するでもなく、ただ静かにオランジェットとクラフティへ向き直る。


『ねえ、ふたり。私と家族にならない?』


その声は、静かな戦場に落ちた青天の霹靂。

家政婦として長年ジェノワーズ家に仕え、苦しい時代も見守ってきた者の、ひどく自然で、揺るぎない“家族の声”だった。


オランジェットが真っ先に叫ぶ。


『なる!』


続けてクラフティも、涙をこぼしながら首を縦に振る。


『なる!』


ビスコッティの顔色が変わった。

完全に変わった。

その言葉ひとつひとつが、彼にとっては決定打だった。

取り返しのつかない「喪失」の音が、胸の奥で静かに割れるように響いた。


プリンは軽く頷き、踵を返すとギャラリーの方へ向き直る。

周囲には、リコリスの初撃から一部始終を黙って見ていた市井しせいの人々が集まっている。

小さな商店街の人間も、近所の老人も、旅の者も、皆固唾かたずを呑んでいた。


『皆さんが証人です! 今の聞きましたね?』


その宣言は、まるで小さな裁判所の開廷を告げる鐘だった。

一拍の静寂。


次の瞬間、群衆は一気に沸き上がった。


『聞いたぞ!』

『ちゃんと答えてた!』

『良かったなあ、子どもたち!』

『プリンさんなら安心だよ!』

『ジェノワーズ家の新しい家族だ!』


拍手が波のように広がり、二人を包み込む。

クラフティはそのまま泣き崩れ、オランジェットは涙を拭きながら笑い、プリンの裾をギュっと掴んだ。


リコリスは腕組みし、鼻で笑う。


『これが一番効いたろ、ビスコッティ』


ビスコッティはもう言葉を出せなかった。

声を出せば、自分の無力さが滲み出てしまうと本能で悟ったのだ。


プリンはビスコッティに向かって書類をかざし、最後に告げる。


『あなたはもうこの家、並びにこの子たちに近づく事はできなくなります。接近禁止命令が下るからです。今日をもって、この家は、そしてこの家族は、正式に私が守ります!』


その声は、長年の家政婦としての誇りと、新たに母となる者の強さをあわせ持っていた。ビスコッティは顔を歪め、視線を逸らすしかなかった。

少し離れて見ていた妻のブロンディは奥歯を噛みしめると、ビスコッティを置いて、ヒールが砕ける程に音を鳴らしてその場を立ち去った。

その後を泣きながらついて行くハーシー。


そして、群衆の拍手が鳴り止まない中、新しい家族の形が生まれた。



リコリスが戦いを収め、プリンが法的にも道義的にも場を整えたあと、ようやく騒ぎが落ち着き始めた。

群衆のざわめきがゆっくりと引いていく。やっちゃんはしばらく黙って立ち尽くしていた。


胸の奥が締めつけられるようだった。

あの三年間の痛み、孤独、怯え。それを背負ってきた兄妹の姿を見て、やっちゃんの中でも何かが静かに軋んでいた。


人々が散り始めると同時に、やっちゃんは歩き出す。

周囲の騒々しさが遠のき、三人の周りだけ時間がゆっくり流れているかのようだった。


プリンに寄り添うオランジェットとクラフティの前で足を止めると、やっちゃんは一度深呼吸し、穏やかな声で言った。


『……よく頑張ったね、二人とも。もう、大丈夫だね。』


オランジェットはその言葉を聞いた瞬間、堪えていたものが決壊した。

涙がぽたぽたと落ちる。

クラフティも、隣で同じように声を押し殺して嗚咽する。


やっちゃんは頭を軽く撫でるように二人の肩に手を置く。


『怖かったね。痛かったね。でももう、その全部は終わったんだよ。

今日からは、守ってくれる人も、帰る場所も、ちゃんとできたんだから。』


その声は、どこか姉のような響きだった。

リコリスも、プリンも、そしてギャラリーに残っていた何人かも、自然と静まり返る。


オランジェットは涙声で答える。


『……うん……うん……』


クラフティは鼻をすすりながら小さく言う。


『ほんとに……終わったんだね……』


やっちゃんは穏やかに笑った。


『うん。これからは、あなたたちが幸せになる番よ。』


プリンはその言葉に静かに頷き、二人の背中をそっと抱き寄せる。


風がひとつ吹き抜け、埃っぽかった空気に新しい匂いが混ざった。

解放の匂い。始まりの匂い。


やっちゃんはそれを感じながら、胸の奥で小さく思う。

この兄妹のこれからを、絶対に見届けよう、と。


その決意は、誰かに言葉で伝える必要もないほど強く、澄んでいた。


『ねぇプリンさん、家政婦として私を雇ってくれないかしら』


『あなたの事は知らないけれど、この子たちを見ればわかるわ、中で話しましょう。』


新しい家族と、やっちゃん、そしてリコリスが家の中へと入ってゆく姿を見届けたビスコッティは、足を引きずりながら立ち去って行った。


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