第39話 虹色の伝説

プリンは深呼吸をして整えると、真っ直ぐに二人へ視線を向けた。


『オランジェット、クラフティ……よく聞いてね。さっき“家族になろう”と言ったけれど、世の中にはどうしても守らなきゃいけない決まりがあるの。家族になるには、必要な書類があってね』


二人は静かに頷く。

頷くのを確認したプリン、弁護士のクセである。


『三年前、あなたたちには“絶対にサインをしてはだめ”と言った。でも今回は違うの。今回だけは……サインをしてほしい』


その声音は、決意とわずかな震えを含んでいた。

母親になる決意、喜びからくる震え。


オランジェットはペンを握り、クラフティは真剣な眼差しで紙を見つめる。二人は互いに小さく息を合わせ、迷いなくサインをした。


その様子を見ていたリコリスが優しい目で言った。


『ほんと、よかったよ。あんたたち…ねぇ……でも、うちは家政婦を失って大打撃さね、どうしてくれんだいまったく』


プリンは深々と頭を下げた。


『理解してくれてありがとうございます、リコリスさん』


『いいさね。その代わり……

 この子たちを不幸にしたら海に沈めて鮫の餌にするよ』


『はい。わかりました、私って深海恐怖症じゃないですか』


『しらないさね、さ、見届けたから帰るさね、この奇跡の物語をタタンに伝えなきゃね』


リコリスはふっと笑い、プリンの肩を叩いて去って行った。


二人がペンを置いた瞬間、部屋の空気がゆっくり変わった気がした。


オランジェットは自分の名前の上に落ちる影を見つめ、胸の奥で何かが形を得たのを感じた。輪郭のなかった未来に、サラサラと線が引かれたようだった。

その線はまだ細いけれど、確かな強さを感じる線だ。


クラフティもまた、静かに息を吸い込んだ。言葉にできない温度が、胸の内側に灯る。それは長いあいだ探していた“寄り添える場所”の気配。


二人は顔を見合わせ、どちらともなく微笑んだ。プリンはその表情を見届けると、短く目を閉じて心を落ち着かせた。


ほんの数秒の間が流れる。


次にプリンが目を開いた時には、表情は柔らかさを残したまま、明確な責任感へ切り替わっていた。


彼女は部屋をぐるりと見渡す。壁にも、床にも、棚にも、ビスコッティ一家の荷物が雑然と散乱している。三年前から時が止まったように積み上がっていた痕跡だ。


『悪魔の痕跡……このままにしておくわけにはいかないわね』


プリンはポケットから携帯電話を取り出し、市長パルフェ・プラリネの番号を押した。


数回の呼び出し音のあと、気品のある声が応答した。


『もしもし、市長です。プリンさん、どうされました?』


『パルフェ市長。至急ご相談があります。ビスコッティ一家の件で進展がありました。現在、あの一家が残した荷物が私の家一帯に散乱しています。保管について、市として正式に扱っていただけないでしょうか』


『事情の確認をします。市として保管を引き受けましょう。同時に……ビスコッティ一家へ回収命令を出しておきます。これは行政指示として扱います』


『ありがとうございます。助かります』


『いえ、あなたが動いてくれてよかった。ジェノワーズ兄妹の件も含め、報告書を後ほどお送りください』


『はい、それでは後ほど』


プリンは静かに息を吐く。行政判断が下りたことで、部屋に散乱した古い荷物に、ついに“片がつく”道筋ができた。


その後ろで、オランジェットとクラフティは、まだぎこちないながらも、プリンの背中を頼もしげに見つめていた。


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【その日の夕方】


夕食の席に、柔らかな灯りが落ちていた。湯気の立つ器の向こうで、プリン、オランジェット、クラフティ、そしてやっちゃんがそろって椅子に腰掛けている。


やっと訪れた“団らん”は、どこか照れくさく、それでいて胸の奥を温めた。


クラフティはスープをひと口啜り、ほっと息を漏らす。

『おいしいね、お兄ちゃん』

オランジェットは緊張しながらも、嬉しそうに皿を抱えながら言った。

『うん、久しぶりに暖かい食事だもんね』

二人の様子を見守りながら、プリンはタイミングを計り、静かに口を開いた。


『さて……やっちゃん。いえ、スー。家政婦としての契約の件だけれど』


その呼び方に、やっちゃんは背筋を伸ばした。

礼には礼を、剣術経験者であるやっちゃんならではの姿勢だ。


プリンは兄妹を見やりながら続ける。


『この子たちがあなたに信頼を寄せているのは、もう見ていれば分かるわ。そこで、正式にこちらからあなたへ依頼したいと思うのだけれど……よろしいかしら』


やっちゃんは深く頭を下げた。


『ありがとうございます! この兄妹の行く末を見届けたいと、本気で思ったんです。だから……本当に嬉しいです。ただ、その……整理しなくちゃいけないことがたくさんあって。少しだけ時間をいただけませんか』


プリンは穏やかに微笑んだ。


『もちろんよ。あなた、どこから来たの?』


少しためらってから、やっちゃんは答える。


『ジパングの……ハコダテです。私、向こうでお店をやってまして……』


『お店?』


『ええ……一度、来てくださったじゃないですか。プリンさん……いえ……

ロリポップ・スフレさん』


その名がテーブルの上に置かれた途端、プリンの手が止まる。ほんの一瞬、表情に驚きと、記憶の底を探るような影が差した。


オランジェットとクラフティは、食器を持ったまま固まった。

やっちゃんは正面からプリンを見つめていた。


カッ…カッ…


静かに時計の音が鳴る。


プリンは、深く、静かに息をついた。


『……そう。あなたが、あの時のお店の……感じていた違和感はそれだったのね』


声は震えていなかった。ただ、長く閉ざしていた引き出しに手を伸ばしたような気配があった。


四人の団らんは一転、静かな意味を帯び始める。静まり返った食卓の上で、プリンはそっと視線を落とした。手元のカップに指を添え、少しだけ遠い場所を見つめる。思い出の扉に触れた者だけが持つ、あの静かで深い表情。


『……ハコダテで、私がロリポップとして旅をしていた頃。偶然立ち寄った小さな店があったの。夜明け前の港のそばで、薄明かりに浮かぶ看板……フィナンシェ…』


やっちゃんが静かに頷くと、続けるように話した。


『あの日は、風が強かったでしょう。あなた、濡れたコートのまま入ってきて。私が出したトマトスープをいい顔で飲んでくれた。ほとんど何も話さず……でも、帰り際に一言だけ…私はロリポップ・スフレって…』


プリンは記憶をなぞるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


『言ったわね、あれには意味があったの…』


オランジェットもクラフティも息を呑んだまま動けない。プリンはふっと笑みを浮かべる。


『あれが、あなたとの最初の出会いよ。私がまだ……ロリポップ・スフレとして旅を続けていた頃の話』


その名前が改めて口にされた瞬間、クラフティの目に大きな火が灯った。


『ちょ、ちょっと待って……ロリポップ・スフレって……あの? 伝説の冒険家の? 四神と呼ばれるエリア全てを突破したっていう……私の憧れの!?』


椅子から身を乗り出すクラフティ。隣でオランジェットも口を開けたまま硬直していた。


プリンは少し照れたように肩をすくめた。


『伝説だなんて大げさよ。ただ、少しだけ長く旅をしただけ』


『少し!?じゃないよ!北の玄武砂漠を単独で越え、南の朱雀海峡を渡り、東の青龍山脈を越え、西の白虎海峡の地図を作った、たった一人の冒険家!その人が、プリンさんだったなんて……!』


クラフティの声は震え、瞳は完全に輝いていた。


やっちゃんはその様子を見て苦笑しつつ、やんわりと補足する。


『あの頃から有名でしたよ。ロリポップ・スフレって名前は、旅人なら誰でも知ってました。私のお店に来た時なんて、本物かどうか疑ったくらいで』


『どうして教えてくれなかったの……プリンさん……!』


クラフティの純粋な叫びに、プリンは少しだけ表情をゆるめた。


『あなたたちには、“冒険家”の私じゃなくて……“家族になろうとする私”として向き合いたかったの。でも……そうね。そろそろ隠す理由もないわ』


オランジェットはゆっくりと口を閉じ、胸に手を当てた。


『……なんだか、急に、プリンさんが……もっと近く感じる』


『え? 普通逆じゃない? 伝説の人なんだよ?』

クラフティは慌てて兄を見る。


『ううん。隠す必要があるほど、ひとりで頑張ってきたんだって……なんとなく、そう思っただけ』


プリンはその言葉に、ほんの一瞬だけまつ毛を震わせた。


そしてやっちゃんが、静かに口を開いた。


『だからこそ、私はこの兄妹を任せたいと思ったんです。あなたに。ロリポップ・スフレさんに』


その名を正面から呼ばれ、プリンは胸の奥で何かを受け取るように、ゆっくりとうなずいた。

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