第37話 燃え盛る烈火の制裁

ビスコッティは肩を上下させ、怒りに任せて荒い呼吸を繰り返す。頬の筋肉がピクピクと痙攣し、今にも地面を踏み砕きそうな勢いで前傾になる。

対するリコリスは、そんな熱量を正面から受けても微動だにしない。腕を組んだまま片足を軽くずらし、いつでも踏み出せる間合いを測るように腰を落とした。


『いいね、その顔。私がクソ嫌いなタイプの目だ。弱いくせに吠える目さね』


鼻で笑った瞬間、ビスコッティが歯を剥き出しにして吠える。

リコリスはゆっくり顎を引き、視線を静かに鋭く細めた。力の入り過ぎた相手を見た時の、熟練の戦士のあの目だ。


『もう隠れる必要はないね。あの子たちが三年間飲み込んだ痛み、悔しさ、恐怖……全部まとめて返してあげるさね!』


コツ、と足元の砂利を蹴っただけで、空気が震えた。

リコリスの纏う圧が、獣の威嚇とは異なる、真の戦場の匂いへと変わる。


『毛細血管まで食いしばりな。泣く暇、呼吸する暇なんて残さないよ』


その一言が落ちた瞬間、地面を滑るようにリコリスの影が前方へ跳んだ。


ドン!


地面を叩き割るような踏み込み音が響いた。

リコリスの体は風より速く、しかし無駄のない落ち着いた軌道で一直線にビスコッティへ滑り込む。


初撃は鳩尾みぞおちへの拳。


戦いを知らぬ者ほど力任せに殴る。

戦場を渡り歩いてきた者ほど、急所を迷いなく正確に叩く。

ビスコッティは怒りに任せて突っ込んだ状態のまま、その突きをまともに受けた。


ドンッ、と低く重い音があたりに広がる。

衝撃は皮膚を破らず、骨も折らない。それなのに内臓だけがぐらりと揺さぶられ、視界に閃光が走った。

ビスコッティは一瞬で膝が折れ、呼吸すら忘れたようにその場で咳き込みながら前のめりに崩れ落ちる。


目撃していた周囲の空気が変わる。

誰かが息を呑む音さえ、やけに大きく響いた。


『……今の、見えた?』

『いや……何か、動いたのは分かったけど……』

『ビスコッティが……あの巨体が一発で押し込まれた?まさか……』


声は震えていた。

街の喧嘩にお祭り騒ぎ気分で集まったギャラリーが恐怖に支配された。

怒鳴り散らすだけで威張り散らしていた男が、触れられたかどうかも分からない一撃で崩れ落ちた事実に、皆の脳が追いつかない。


リコリスは地面に膝をついたビスコッティの肩を軽く押して、上体を無理やり起こさせた。

その表情は笑っているようで、どこか静かに怒っていた。


『あの子たちは三年間、これより痛い思いをして来たんだよ』


ビスコッティの眉が微かに震える。

リコリスの視線は、一切ブレなかった。まるで処刑台のような確信を宿したまま、淡々と続ける。


『殴るたび、蹴るたび、お前はあの子たちを笑ったんだろう。逃げ場がない状況であの子たちはどれだけ悲しくて、悔しい思いをして過ごしたかわかるのか!』


周囲が静まり返る。誰も軽口を挟めない。


『昨日今日の喧嘩じゃない。あんたが遊び半分でやってきた三年分の蓄積っていうのは、あんたが思ってるよりずっと重いんだよ!』


その叫びに、ジェノワーズ家の悲しい過去を思い出し、ビスコッティがして来たことを見て見ぬふりして来たことをギャラリーに人々が恥じた。


『オランジェット!クラフティ!すまなかった!』

『俺たち知って居ながら何もできなかった!』

『ごめんね』


『リコリスさん!あの子たちの痛みをそいつに!』


皆の思いが一つになり、リコリスに託す。


リコリスはゆっくりと歩を引き、再び正対する。

次の攻撃がいつ飛ぶか分からない緊張が場を支配し、空気がチリチリと焦げるような圧を帯びた。


『立ちな。まだ一発しか返してないんだ』


倒れ込んだビスコッティの喉から、くぐもった呻き声が漏れた。

怒りも虚勢も剥がれ落ち、代わりにようやく芽生えた本物の恐怖が彼の顔を支配していた。


ビスコッティは鳩尾みぞおちを押さえたまま、呼吸を取り戻せずにいた。

視界は滲み、脳の奥で警鐘けいしょうが鳴る。

動け、と命じても四肢ししが硬直し、ただ震えるばかりだった。


リコリスの足音が、砂利を踏むたびに一定のリズムで響く。

その音が迫ってくるだけで、ビスコッティの心臓は暴れ馬のように跳ねた。

「こ…殺される…」


『二発目はね……』


リコリスは腰を落とし、わずかに重心をずらすと、

ビスコッティの視界の端から一瞬で消えた。


次の瞬間、

パン、という乾いた音が空気を裂く。

リコリスの足が、ビスコッティの右太腿の外側を正確になぎいだ。


蹴りではない。

膝を壊さないギリギリの角度と位置を狙い、筋肉の束を一点で弾く“制圧の一撃”。


直後、ビスコッティの右足が完全に沈黙した。


『っ……!!?』


膝が落ち、身体が片側に傾く。

支えようと腕を伸ばすが、全身がしびれるように力を入れられない。


周囲がざわめいた。


『今の……足、抜かれた?』

『なんだあれ……関節じゃなくて、筋肉を殴った……?』

『ビスコッティ、立てないぞ……!』


リコリスは淡々と言葉を重ねる。


『逃げたくても運命に足を捕まれて倒された子たちがいた。

逃げたくても現実に取り押さえられ、何度も地面に叩きつけられた子たちがいた。

足が震えて歩けなくなるほど、怖がってた子たちがいたんだよ…三年間もね!』


ビスコッティの目が大きく見開かれた。

自分が笑いながら踏みつけてきた日々が、今になってそのまま返ってくる。


因果応報


リコリスは片足をビスコッティの前に出し、冷えた声で告げた。


『だから、二発目は“逃げられない痛み”さね。あんたが与えてきた痛みの、ほんの一部だよ』


ビスコッティが地面に両手をついた瞬間、リコリスはさらに近づき、

その背へと影を落とした。


『まだ終わりじゃないよ。あの子たちの三年は、こんなものじゃ終わらない』


ドゥルセ名物の強めの風が、処刑前のような静寂を撫でた。


ビスコッティの右足が動かない。

鳩尾はまだ焼き印を押されたように痛む。

地面に突いた拳も震え続けている。


ビスコッティはようやく、現実を理解し始めていた。

これは喧嘩ではない。

自分の土俵ではない。

相手は戦士だ。

しかも、自分が三年間好き勝手に傷つけてきた者たちの痛みを、正確に測った上で「返されている」。


リコリスは第三撃のために、ゆっくりとビスコッティの正面に回る。

その足取りは静かで、淡々としていた。怒気はもう無い。

そこにあるのは、まるで裁判官が宣告を下す時のような、冷たく揺らぎのない視線。


『三発目はね』


声は低く、しかしどこまでもよく通る。


『“お前は弱い”って事実を、骨の髄まで理解させる一撃だよ』


ビスコッティが顔を上げた瞬間、

リコリスの指先が、彼の額にそっと触れた。


殴らない。

蹴らない。

ただ、軽く押すだけ。


それだけでビスコッティは、後ろへひっくり返るように倒れ込んだ。

足も、腰も、肩も、力が抜けきっていた。

人前でひっくり返るみっともなさに、怒りすら湧かない。


代わりに、

胸の奥で何かがパキッと折れる音だけが響いた。


『……俺は……弱い……のか…』


かすれた呟きは、誰に向けたものでもなく、自分の中で初めて形になった現実だった。


周囲にいた者たちは誰も笑わなかった。

空気には生々しい緊張と、何かの終わりの匂いだけが漂っていた。


そこに、

震える声が割り込んだ。


『……やっと……言わせた……』


ビスコッティとリコリスの向こう側で、

三年間虐待に遭ってきた子どもたちが立っていた。


彼らは泣いていなかった。

涙を流す段階は、とっくに過ぎ去っていた。


オランジェットが顔を上げて、ビスコッティを真正面から見た。


『ずっと……ボクたちが言いたかった言葉だよ。

“弱いのはお前だ”って』


クラフティが震える声のまま続ける。


『お兄ちゃんが殴られて、蹴られて、家に帰っても怖くて……

ごはんもなくて…でも……ずっと……何も言えなくて負けてた……』


『ボクたち、誰にも助けを求められなかった……でも助けてくれる人もいたから生きていけた。こうして皆の声も聴けた…ボクたちは一人じゃなかったって知れた。お前にはこんな人たち居ないだろう!』


泣き声ではない。

叫びでもない。

ただ、感情の奥に押し込めていたものが外へ出ていく音だった。


『オランジェット!ごめん!クラフティ!ごめん!』

『もう大丈夫だ!俺たちもお前たちの為に手を貸すよ!』

『今までごめんね!これからは頼ってね』


たくさんの声が街を覆い尽くした。

リコリスはその言葉を背で受け止めながら、ビスコッティへと静かに告げる。


『三年分、ようやく返した。これはあの子たちの一撃さね』


ビスコッティは答えなかった。

答えられなかった。

折れた心の中で、何かの終わりと、何かの始まりだけが静かに揺れていた。

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