第23話 決戦は月光の下で
――冷たい霧が、肌を刺した。
『……うっ……』
思わず息が漏れる。胸の奥に、凍りついたような痛みが走った。
『シャルロットの子供を知らないから……想いだけで……来られたのかな――』
霧の向こうで、どこか遠くに光が揺れている。
その光を見つめるうちに、やっちゃんの心に、あの日の記憶が静かに蘇った。
――裏世界。
この湿った空気、この無音のざわめき。
間違いない。ここは、あの時と同じ場所。
三代目呪術師だった母は、ソウルランプを作らなかった。
代々受け継がれてきた呪術の
その意志を継いだのは――やっちゃんだった。
四代目。
誰に認められたわけでもない。ただ、知りたかった。
なぜ母はランプを作らなかったのか。
その昔、勉強家だった彼女は、呪術師の歴史を貪るように読み漁った。
そんな中、伝説の冒険家ロリポップに出会う。
彼女が持っていたソウルランプを受け継いだとき、二代目の海難事故と繋がった、やっちゃんは“ランプの正体”を知った。
ソウルランプは、魂を灯す器。
その先には亡くした母と、そして双子の娘の記憶――
その“本”を手にする為、やっちゃんは裏世界へ向かった。
……そして、帰還した。
だが、三冊の記憶の本は――置いてきた。
自分の手で。
読む勇気が自分には無かった。
なのに――シャルロットに譲ってしまった。
逃げるように。
『私のせいだ……助けなきゃ……』
膝をつく。霧の冷たさが骨に染みる。
胸の奥から、
現世に残るソウルランプは三つ。
クラフティが灯した二代目のもの。
初代――母の骨で作られたとされるもの(所在不明)。
そして、やっちゃんが突貫工事で作った三つ目。
唇を噛みしめる。
『あんなものがあるから悪いんだ。せめて……帰ったら、二つは処分しなきゃ……』
『こんな思いは……こんなことがあってはいけない……』
シャルロットの子供は、きっと記憶の本を求めて裏世界へ行ったのだ。
両親を失って、心の穴を埋めたくて。
あの険しい帰還の道――あの冷たく、優しい地獄を、やっちゃんは知っている。
『早く行かなきゃ……』
立ち上がる。
霧の奥に、微かに光るランプの残り火が見えた。
――助ける。
霧を抜けた瞬間、冷気がふっとやわらいだ。
灰色の
――「如月書店」。
どこか懐かしい、紙とインクの匂い。
ひと息つく間もなく、やっちゃんの足は勝手に店の前で止まっていた。
棚の隙間に古書が所狭しと積まれている。
奥から大きな影が、ゆっくりと現れ、右手で指を差してポーズを取った。
『……あなた……前に……』
その声に、やっちゃんの胸が強く跳ねた。
声の主――店主の如月。
鴉の濡羽色の長い髪の奧からやっちゃんを見つめる瞳。
クルリと回って腕組みをし、右手の指をパチンと鳴らしてポーズを取る。
『覚えてる……やっぱり……あなた、前にここへ来たわね』
『……まさか、また来ることになるなんて』
やっちゃんの声は、かすれていた。
店内を包む空気が、少しだけ震えた。
霧の
如月は静かに息を吸い込み、低くつぶやいてポーズを変える。
『――何か…思いがあるのね』
やっちゃんは黙ってうなずいた。
その目に宿る決意は、霧の向こうから戻ってきた者だけが持つ、硬く澄んだ光だった。
『あの子を救いに来た――猫を! 猫を出して!』
やっちゃんの声が、書店の静寂を裂いた。
空気がびりつき、天井から吊るされたランプがわずかに揺れる。
如月はしばしの間動かなかった、やがて、ふっと口角を上げる。
『あの子? あぁ……あの兄妹ね』
『兄妹……? 兄妹で来たって言うの? どれくらい前なの!?』
やっちゃんが身を乗り出す。ランプの灯が揺れて、棚の影が波のように広がった。
『そうね……一日は経過してるわね』
その言葉に、やっちゃんの顔から血の気が引いた。
『……現世だと、あと4分ってところかしら』
時間のずれ――裏世界と現世の致命的な歪み。
書店のランプの灯が、不安げに瞬く。
『間に合うのかしら?』
『行くしかないでしょ。あの子たちが選んだ道だけど――
元はと言えば私のせい、助けるのが筋ってものでしょう!』
如月は軽やかに、そして力強く、緩急つけてポージングしながら話した。
『筋?――あの兄弟も覚悟を持って来たはずよ、どんな結果であれ、それがあの子たちの運命なら受け入れるのが筋なのでは?』
『わかってる!わかってる!わかってる!――
ちがうの…私のせいなの…だから――』
『そう、ならそうなさい、ただし、あなた記憶の本を置いて帰ったわね?』
『あ、あの、あれは…』
『黙れ小僧!お前が置いて行った本のお陰で、この世界に少しばかり影響が出ていると言っておる!前に来た世界だと思うな!』
『……』
『何が書かれているかわからない恐れ、知らなくてよかった事も知るだろう、お前が本を置いて行った気持ちはわかる、だが置いて行かれた記憶は意思を持ち、この世界で生きる事になるのだ、もちろんお前らの知っている姿ではないがな。』
『じゃぁ娘たちも…母も……』
『否!お前の記憶の姿ではない、お前はその見たくもない姿を見る事になるやもしれぬ、それでも行くか』
『当然です!我、鬼となり全てを跳ねのける!』
『よくぞ言った、ガレット、ボンボローニとカヴァルッチを呼んでやれ!――
あとお面もな。』
ビシッ!と決めポーズをする如月だった。
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【藍の森】
日が落ちかけ、葉は月光を飲み込むように黒々と波打っていた。獣の咆哮が遠くで裂け、森の骨格が震える。
オランジェットは立ち止まり、しばらく息を整えた。クラフティは震える手で兄の袖を握る。
『クラフティ…足は大丈夫か?』
『うん――あのね…このままじゃ……だめだよ、お兄ちゃん』
クラフティの声は小さく、それでも強さを求めるように震えていた。
——そうだニッキー!
『クラフティ!ニッキーに何か書いてない?』
『そんな場合じゃないよ、月夜族の皆が戦ってるのに…』
『そんな事言ったら僕が月夜族に戦わせて置きながら逃げる、卑怯な兄貴みたいじゃないか!ちがうよ!藍喰らいの獣の退け方載ってないかってことだよ!』
『あ、そっか、さすがお兄ちゃん!』
『へへーん』
クラフティの瞳に小さな希望が灯る。
ページを音を立てずにめくると――…
――な…なにも書いてない…
オランジェットは瞳孔が開きっぱなしになった。
ニッキーを閉じ、クラフティを見下ろす。
胸の震えが止まらない。
『どどどどどどどどど』
『しっかりしてよお兄ちゃん』
『まままままままままず…戻ろう!』
『うん』
クラフティは小さくうなずいた。恐怖と希望が交差する顔。だが、二人の手は固く結ばれていた。
『やっちゃんだっけ?獣からは上手く逃げたんだねきっと』
『うん、そうだね、だから書いてないんだね』
遠くで獣が再び咆哮する。空気が鋭く裂ける音。だが、今はもう逃げるだけの二人ではない。彼らは再び長老のもとへと走った。
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『長老さん!』
『なんじゃ!どうして戻った!2人とも!』
『わかりません!』『お兄ちゃん!』
『わからないって…お前たち…』
その時だった。
森の奥――月光を呑み込むように
大地が“うねった”。
空気が急に重くなり、瘴気の風が止む。
次の瞬間、藍の闇が爆ぜるように弾けた。
ズゥン……!
地鳴りが響き、塔の笠がびりびりと震える。
巨大なキノコの間から現れたのは、藍喰らいの獣。
月夜族第一師団との戦いをもろともせず、巨体は、なお恐ろしく、
身を
胸の奥で脈打つような、低い唸り。
口からこぼれた吐息が、青黒い霧となって地面を這う。
藍喰らい―
月の光を浴びて藍く輝く月夜族を食すことで瘴気を纏う。
その瘴気は蓄積され、今宵、身を守る盾となった。
白金に輝く体毛を碧く染める。
そしてその光は月夜族の槍をことごとく跳ねのける。
『ダメだ!弓も槍も弾かれる!今夜の藍喰らいは違うぞ!』
けたたましく叫びながら逃げ惑う月夜族の声がする。
『……来た……!』
オランジェットが息を呑む。
塔の影に身を隠しながら、クラフティの手を掴んだ。
獣の眼孔がぎらりと光を放つ。
まるで二人の匂いを探るように、鼻先を震わせている。
『兄ちゃん……あれ!』
月の光が塔に掲げた月夜族の金属の紋章に反射したその先。
胸の左下――
碧く輝く「それ」は一定のリズムで脈打つ。
『長老!あそこが弱点だ!』
『貴様っ!長老を呼び捨てに!』
『下がれ馬鹿者!戦える者たちに伝えろ!恐らく蓄積された藍色の液が身を守る盾となったのじゃ!瘴気を吸い取るヤミコケを集めて矢じりに付けて撃ち込めと!オランジェットとクラフティも手伝ってくれるか!塔にこびり付いている蛇のように絡みついた紫のコケがそれじゃ!』
『はい!クラフティ、あれを!できるだけ多く剥がして!』
『う、うん!』
『長老!信じるのですか!?』
『騙すより騙される方が面白かろう。お前も懸けてみんか、この子らに。』
『はい、わかりました!のるかそるかですね!では伝達します!』
長老の側近の兵士が笠を振動させ、伝達する。
それを受けた仲間達も笠を震わせる。
本当の戦いが始まろうとしていた。
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