7-1 結衣


 冷たい蛍光灯の光。流れ続けるベルトコンベア。消毒液と、安価な油が混じり合った、独特の臭い。

 深夜の食品工場。

 右から流れてくるプラスチックの容器に、決められた量のポテトサラダを、決められた場所に乗せる。一日八時間、週に五日。ただ、それだけを繰り返す。

 口を利くことはない。ここでは誰も私の名前を知らない。私も隣で働く人の名前を知らない。名もなき労働力。それでよかった。何も考えなくて済む。

 感情を殺し、心を無にしていれば、一日は終わる。

 白石結衣だった頃の、面倒な人間関係も、プライドも、ここにはない。

 安息の地。…‥けど、心は無性に乾く。





 終業のブザーが全身に響き、つま先から頭まで突き抜ける。

 タイムカードを切り、重い鉄の扉を押し開ける。深夜明けの冷たい空気が、汗ばんだ首筋にまとわりついた。

 表口からは帰らない。

 工場の裏手。生ゴミの酸っぱさと、機械油の臭いが混じり合う、コンクリートだけの空間。

 壁に寄りかかって、待つ。


 少しして、段ボールを捨てに来た従業員がやってくる。

 シフト上がりの私を奇異の目で見る。

 私はただ立っているだけ。

 気に食わないなら、見なければいいのに。作業着の性奴隷は、持ち場に戻らない。

 背くふりして、釘付けだ。


 私の服装は、どこにでも売ってる、色の褪せたベージュのポロシャツに、紺色のジーンズ。

 工場の熱気で滲んだ汗を吸って、じっとりと肌に張り付けば、でっかいブラジャーの輪郭と、脇の下の段差が浮かび上がる。

 シャツの裾から覗く、弛んだ腹の肉のたるみ。屈んでもいないのに、タイトジーンズのウエストラインに、恥も外聞もなく乗っかる柔らかさ。

 太ももも、現役の頃より、でっぷりと育った。生地がビタビタに膨れて、尻を突き出したら破裂しそう。


 作業着の股間があられもなく膨らむのが見えた。

 目を見て、舌なめずりしてやると、誘導蛾のようにこちらへ来る。

 やがて影が、二つ、三つと、闇の中から現れた。段ボールを捨てに来る、という名目で集まってくる、すでに手懐けた獣たち。

 作業着姿の三人。

 私と同じ、この工場で、心を殺して働く男たち。


 一つ、大きなため息をついた。

 そして、両手を後ろ頭で組む。挑発するように、がに股になった。

 ズボンの上で弛んだ腹の贅肉を、ぷるん、と揺らして見せた。




 男三人が、自らの熱を必死に慰める。

 何本もの節くれだった指が、まるで私の身体をまさぐりたいと願うように。浅ましくも、優越的な光景。

 私はゆっくりと、腰を回す。

 ざらついた普段着が肌を擦る。お腹まわりの過剰に張った感触。ゴミと、汗と、油と、そして、抑えきれない雄の欲望が混じり合った、むせ返るような悪臭がこの空間を支配していく。


 鏡で見るたびに発狂しそうになる、贅肉まみれの致命的な身体。

 世間でいうムチムチを遥かに超えてしまった。全身の弛んだ贅肉が、腰の動きに合わせて、情けなく、いやらしく揺れる。

 少し動くだけで発汗する有り様は、元ママの、顔だけはモデル並に細いのに、ほかは豚のようだった身体を彷彿させる。

 もう元の細さに戻れそうにない。この工場のクソみたいな給料じゃ、体型を維持する金も、気力もない。


 それでも、元ママ譲りで、腰のくびれだけは、くっきりと浮き上がる。どうしようもなく、雌としての機能に特化した身体。

 そして、実体験で知っている。

 男っていうのは、こういうだらしなくて、生活に疲れた肉のほうを、かえって好むんでしょ?




 摩擦で焼けそうだなって思えるくらい、夢中になって肉を擦る中の、一人。

 一番若く、一番我慢できなさそうな顔をしている一号を、踊りながら指差した。

 ゆっくりと、唇の形を作る。


「ワ・タ・シ・ノ・マ・エ・デ」


 発音が合っているのかは知らない。聞こえない。


「イ・ケ」


 男は、ビクン、と身体を震わせた。

 女王の視線で射抜きながら、あとは数回腰を揺らしただけで、奴隷一号はあっけなく汚れた欲望をコンクリートの上にぶちまけた。

 ああ、これ、これ。私、生きてる。

 学校にいたとき、男子どもをこうやって支配下に置いとけばよかった。


 哀れな姿を一瞥する。若い男は、やはりそれがいいらしく、ぶるんぶるんとわざとらしく震えて倒れ込んだ。

 今度は二人目の男の前へと、ゆっくりと歩み寄る。

 二号はわかっている。恍惚に、ぱかっと、口を開けて、私を待っていた。

 だらしなく開いた口の中にめがけて。濃くした唾液を、くちゅくちゅ舌で揉んでから、とろぉり、と。

 糸を引くように、流し込む。

 そして、その耳元で、囁いた。


「ゴ・ホ・ウ・ビ」


 男は、それを最後の晩餐のように、天を仰いだまま、飲み込んだ。

 その喉の上下が終わった瞬間、男の身体もまた大きく痙攣し、二度目の熱い飛沫がゴミの臭いに混ざって放たれた。


 三人目には、いかない。

 一瞥するだけ。今にも泣き出しそうな最後の新規。お前は役割がわかってない。お前まで果てると、観客がいなくなる。二人が復活するまでお預けだ。

 わざと背中を向ける。腰を振って、尻を突き出し、生地を痛いほど肉に食い込ませて、踊り続ける。

 ジーンズの縫い目に全体重をかける。締め上げられる腹の肉。みしみし、と、布が、金属が、悲鳴を上げるのが、振動で伝わってくる。


 ――ぱつん、と。


 発射するような開放感のあと、腹回りが急に、楽になった。

 肉の圧力に耐えきれなくなった金属ボタンが、弾け飛んだ。

 そして連鎖するように、ジッパーが、その口をだらしなく全開にした。


 まるで堰を切ったように、締め付けていたデニムが下りる。

 ぐじゅぐじゅに滴るほど蜜を吸い、下着としての意味をなさなくなった、黒いレース生地。その上。

 白く、柔らかく、恥知らずな腹の肉が、どろりと溢れ出した。

 当然、その背後も。


 仕草でわかる。

 最後の男が果てた。おい。まだ許可してない。


 ジーンズが足首まで下りた状態のまま。

 かつてオーディションでやったように、四つん這いになる。熟れきった尻を、最後の男の目の前で左右に振って見せた。

 最初はゆっくりと。ほどなくして、だぷだぷと、猛烈に激しく。腹も尻も汗が飛び散る。尻肉で男をビンタしてやった。最後の一人だけでなく、一度は果てたはずの二人までもが、再び熱を取り戻す。くっさい雌臭に引き寄せられて、食い入るように近付いて、醜く場所取り争いをする。

 三人分の、岩のように硬くなった欲望が、一つの方向へと、向けられる。

 あまりにも滑稽で、浅ましく、恍惚な光景に、今日初めて、声を出して笑った。

 音のない笑い。ただ、唇の形を良くする。気分がいい。

 三つの肉体が、同時に、醜く痙攣し、最後の、熱い飛沫を、私の身体と、足元のコンクリートに、ぶちまけた。




 ――ああ、そうだ。

 これのせいで、わたしは、ここにいる。

 満たされるはずのない、底なしの性欲。何せ満たされたそばから空っぽになる。

 白日の下に晒される、生活に疲れた三十路前の女の身体。

 汚い。気持ち悪い。惨めだ。

 こんなことをして、もし誰かに通報されたら、私たちは、揃って逮捕されてしまう。

 それでも、そう思っても、風が綿を運ぶくらいの刺激。

 もう本当の地獄を知ってしまった、火遊びを卒業したわたしには、ちょうどいい。

 ここが底なんだから。

 これ以上、私から生きる意味を奪わないで。



 ……後続を確認する。

 来ない。

 もう、おしまい?

 たった、これだけで?

 もっと、もっと、惨めに、乱れてみせろよ。

 少しでも根性見せれば、お前らの部屋にでも押しかけて一晩中好き放題されることも、考えなくはないのに。


 後に残されたのは、立った私と、鼻をつく栗の花の臭いだけ。

 腿の裏を拭って、べろり、と舐めてみせた。

 味も臭いも最悪。そのくせ、薄い。


「タ・リ・ナ・イ」


 当人たちにとっては人生で最も濃いのが出たんだろうけど。

 まだ動けないでいる、三つの肉塊を見下ろした。

 まあ終わってみれば、まったく、何の足しにもならないわけじゃ、ないかな。

 明日も、来るよね? 奴隷くん。

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