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 腕に残った傷跡は、もうかさぶたにもならず、ただ細い横線になって皮膚に沈んでる。

 あの夜、カッターを握りしめた指は、結局、浅い溝を数本引くことしかできなかった。死ぬ勇気さえ私にはなかった。

 あ、でも、なんかムラムラしてきた。引き出しから、いつものカッターを取り出す。白い太ももの内側に、そっと刃先を当てる。息を止め、一気に引いた。

 すぱ、と皮膚が裂ける清潔な音。


「……んぅ……っ」


 じわりと滲む血の玉。走る痛みが、痺れるような快感になって、腹の底へと落ちていく。

 痛い。痛みが、私がまだここにいるって、教えてくれる。この疼きだけが、今の私を、女にしてくれる。


 あれから数週間。

 学校には行っていない。狭い部屋の天井を見つめるか、自分を傷つけて慰めるだけの毎日。

 ミサンガなんて何十回と引き裂いた。まったく満たされない。所詮は物。

 こういうときこそパパがいれば。パパだけが私を生きていいって肯定してくれる。その太い腕で、たくさんのテクニックで、身体の奥まで、脳まで。

 なのに一切連絡がつかない。今までは連絡したら秒で既読がついた。向こうからも、今夜はどこでするか、指定してくれたのに。

 海外出張? 家族同居バレ? 法的トラブル? 

 いつまでも待てるよ、事情がわかれば。

 だから、昨日。

 パパの住むタワマンに乗り込んだ。コンシェルジュに、汚物でも見るような目で見られ、追い出された。諦めきれずにエントランスで粘ったら、不審者として通報。補導されたあげく、ママに連絡がつかず、退学済みの学校にまで連絡がいった。結局、朝になって呆れ顔の警官に釈放された。


 その帰り道、スマホが鳴った。

 金髪の彼氏からだった。近頃は全然気にしてなかった。自分の指のほうが何億倍マシだったから。的確に気持ちいいところを抉れるし、思うまま連続でできた。

 暇すぎて九時間耐久にも挑戦した。難なくこなせた。でもパパが気づかせてくれた、脳が焼き切れるぐらいに切ないムラムラだけは、解消できなかった。刃のスパスパは、それを少しだけ満たしてくれる。

 それでも、久しぶりの着信音に、胸の奥で何かが期待に震えた。


《別れようぜ。お前手首の傷、アップすんなよ。俺のせいにされて被害くんの。マジでふざけんなよ。つーか、セックス重すぎ》


 その一文だけ。

 返信しようと指を滑らせる。けど、赤い感嘆符が虚しく灯るだけ。彼のページに飛ぶと、そこには《このユーザーをフォローすることはできません》という無機質な文字。

 ブロック。

 SNSで繋がり、身体だけで消費し合った、軽薄な関係の終わり。

 別のアカウントで覗きにいく。彼の最新のストーリーには、仲間たちとバカ笑いする動画。《重いの整理したわw》という一文が、私の心を的確に撃ち抜いた。

 雨の日に、笑って駆け寄った、あの日の三歩が。

 今は背中に突き立てられた三本の氷の杭となって、私の体温を、尊厳を、根こそぎ奪っていく。





 ずっと家にいたから、小さな異変にも敏感だった。

 がちゃ、と音がした。たぶん玄関の鍵。こんな深夜に?

 しんと静まり返った廊下。靴を脱ぎ捨て、鍵を靴箱の上に放る乱暴な音。ママの気配だ。……何で? 

 いつもの深夜のパートに出てろよ、誰の顔も見たくない。


 ――ママの、甘えるような声に混じる、低い男の唸り声。

 パパほどじゃないけど、知ってる声。湿って、粘りつくような、不規則な音。


「……結衣、いんじゃねえの……」

「んんっ。あの子、今補導されてるから……大丈夫」


 次第に軋むスプリング。激しい息。吸い上げる下品な水音。

 ママ?


 息を殺し、抜き足差し足で階段を降りる。リビングに近づく。途端、汗と安香水の臭いが混じり合った、むせ返るような熱気。

 玄関からリビングにかけて、焦れた獣が皮を脱ぎ捨てたように、散らばった男女の衣服。

 ドアの隙間から漏れる光が、中で起きている惨劇をいやらしく暴く。

 くちゅり、じゅるりと絡み合い、互いの唾液を貪る。キスの呼吸に合わせて軋むソファ。見慣れた金色の髪。私を何度も抱いた、あの男の背中。

 そして、密着しているのは。

 だらしなく弛緩し、汗でぬらぬらと光る、中年女の裸体。


 ――男が、ママの腹の肉を鷲掴みにする。

 指の間に、たるんだ脂肪が食い込むのが見えた。


「おばさんのこのだるだるの肉が、……たまんねえんだよ……ッ!!」


 吐き出すような声。肉を掴みたがる癖。紛れもなく、元彼氏。ママは、恥じるどころか、キスの恍惚に顔を歪ませる。


「ガキとは、全然違う……ッ。アイツ、身体がガキなんだよ。全然蕩けねえ。アンタみてえな、一度全部緩んで、男を知り尽くした身体の……この柔らけえ贅肉と、握っただけでビクビク震える腰が、最高なんだよ、晶子さん……ッ!」

「んんぅ……っ、それ嫌、呼び捨てて……っ」

「……晶子……ッ!」


 その名を舌の上で転がした瞬間、獣たちは、どちらともなく唇に喰らいついた。歯がぶつかるのも構わず、力任せに唇をこじ開け、熱い舌を喉の奥までねじ込む。

 しばらく互いを貪り合った後、ふっと動きが止まる。汗で光る額を寄せ合って、ぜぇぜぇと、くぐもった呼吸だけが響く。

 そして、再び深く、貪るように唇を合わせた。

 ぷは、と名残惜しそうに離れたママが、まだ唾液で濡れた唇のほんの数ミリ先で、吐息に媚薬を混ぜて囁きかける。


「もっと言って……っ。ワタシと、あの子、どっちが気持ちイイか……ちゃんと、耳元で……」

「……晶子。晶子、晶子……ッッ!!」


 私の知っているママの声とは似ても似つかない、完全に雌に成り下がった、甲高い嬌声を上げた。


「……あの子とは、別れられた……?」

「……晶子の命令通り、捨ててやったさ。あんなガキもう用済みだ。俺たちは、もう自由なんだよ」


 蛇のようにねっとりと絡みつく声で、彼の耳元に囁いた。


「……じゃあ、ワタシに本気になってくれる? あんな出来損ないの娘じゃなくて、ワタシだけ見て……ワタシだけで、めちゃくちゃになってくれる……?」

「本気? 当たり前だろ。……なあ晶子、教えてやるよ。あいつはな、ただの練習台だったんだよ。アンタを最高に気持ちよくするための。アンタが、俺の本番なんだよ」

「高校、今すぐ辞めて、働いてくれる……?」


 それは懇願でありながら、娘も、元彼氏も、完全に踏み潰すもの。

 いつもの無茶なおねだり。何度破壊しても学ばない。

 しばしの無言の後。


「……毎朝毎晩、俺の好きにしゃぶらせてくれるなら」


 そして、また下劣なキスに戻る。もはや眼球まで舐めまわそうとしてるんじゃないかってぐらい。

 彼はママの首筋に強く歯を立てた。快楽に浸された叫び声。肉に食い込む歯の感触を確かめるように、舌でじっとりと血の味を舐めとる。


「……いいわ……っ。毎朝、毎晩、たっぷり愛し合いましょう……! お昼だって休憩時間に戻ってきて、時間一杯まで愛して……っ。休みはどこにも出かけず、一日中一緒、いいでしょ……!?」

「……それだと、昼飯はいつ食べればいいんだよ……ッ」

「食事なんて、愛し合いながらとればいいじゃない……!!」


 ママの下の名前で、彼に、まるで呪いをかけるかのよう。

 遊びじゃない。これは、ただの浮気じゃない。こうやるのか。人を手玉にとる方法。憎悪と快楽と、そして優越感を養分にして咲き誇る、底なしの沼みたいな、本物の情欲で。

 媚びて、支配して、依存させて、自分のためだけに動く駒に仕立て上げる。私が、あの幼馴染にしてきたことの答え合わせ。私は失敗した。ママの方が、ずっと上手だ。

 哀れな元彼氏が、いよいよママを捕食しかねないくらい、顔じゅうを、首筋を、そして胸の谷間まで舐め回しだした。ソファが絶叫し、ママの身体がもはや原型を留めないほど、ぐちゃぐちゃに揺れた。


「ああ、ダメェ……ッ、リップだけで、クるッ、クるクるクるクるクるぅぅぅ……ッッ!」

「うるせえ、まだだろ……! 俺が許すまで、イくんじゃねえよ……ッ!」


 彼はママの髪を鷲掴みにして、無理やり自分の方を向かせると、宣告するように、耳元で咆えた。


「目ぇ開けろよ、晶子!!」




 思い切り扉を蹴ってやった。そして蹴破る。

 向こうの時が止まる。汗と体液にまみれて一つになった、醜い二つの肉塊が、驚愕に目を見開いて、こちらを振り返る。


「……っ!? 結衣!?」


 元、ママだったモノの声。

 その光景を、私は、燃え尽きた灰のような心で、ただ、見ていた。

 裏切り。絶望。憎悪。

 ああ、でも、もう、何も感じない。ぐちゃぐちゃになった感情は、この醜悪な現実を直視して、一周回って、すうっと凪いでいた。娘より自分の生活保障を優先する、腐れビッチに用はない。


「死ね」


 私の元彼氏。私の元ママ。

 私の世界で、私だけが、知らなかった。

 私の居場所なんて、初めから、どこにもなかったんだ。


 パジャマのまま踵を返す。玄関のドアを開けた。

 そして、二度とこの家には戻らないと心に決めて、冷たい夜の闇の中へ、身を溶かした。

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