4-5 これが、罰なんだ


 電車の揺れに合わせて、耳の奥で、甲高い金属音が鳴り続けている。

 もう何時間も前に終わったはずの、あの場所の熱気が、まだ鼓膜にこびりついていた。頭上で明滅する蛍光灯。鼻腔にまとわりつく異臭。安物の香水と、消毒液と、それから、たくさんの男たちの汁が混じり合った不快な臭い。

 今日着ていたブラウスに染み付いたそれは、洗濯しても決して消えることはない。

 私の身体の一部になってしまった、業務臭。


(――結衣ちゃん、笑顔、笑顔!)


 フラッシュバックする。無数のスマートフォンのレンズ。無機質なシャッター音。そして背中に突き刺さる、マネージャーの囁き声。


(――はい、もっと見えるように開いて)


 流れ作業のように差し出される。何十、何百という他人の体温。私が上書きされていく。本来は気持ち悪いはず。でももう何も感じない。ただマニュアル通りに口角を上げて、「あんあん」と繰り返すだけ。

 今日は終わった。明日はごく久々にオフ。明後日からは、また現場。この身が存在する限り地獄は続く。逃げたくても逃げられない。だって本名だから。


(――ああ、そうか)


 帰り道の電車の中。

 止まない耳鳴りと、服に染み付いたゲスな臭いに包まれながら、私は、ぼんやりと悟った。





 夜の闇へ溶けた身体は、三日もすれば悲鳴を上げた。

 パジャマのまま飛び出した私には、金も、身分証も、帰る場所以外の全てが無かった。最初の夜は、アドレナリンで乗り切れた。二日目は、公園の水道水で空腹を誤魔化した。三日目の朝、猛烈な空腹と、身体の芯から這い上がってくる寒気で、私は高架下のコンクリートの上で目を覚ました。

 汚い。臭い。惨めだった。

 数日前まで、クラスという王国の女王だった私が、誰にも見向きもされない、ただのゴミと化した。





 その場しのぎのパパ活。稼いだ金銭で転がり込む、無許可運営のネットカフェ。薄暗いフラットのブース。

 それが、私の城だった。寝返りだけは自由な城。

 ヒビの入ったスマホの画面で、私は、死んだはずの自分のSNSを眺めていた。楽しそうにカフェに行く元クラスメイト。新しい彼氏ができたと報告する美奈。私のいない世界は、驚くほど普通に、そして幸せそうに回っていた。


「……なんで、私が」


 例えばコンビニで、惨めに頭を下げて働く? あんな低賃金で? 人手不足で拘束時間もエグい。

 冗談じゃない。私は、そんな風に作られていない。

 私には価値がある。この顔と、身体には。

 そうだ。私にはまだ、武器が残ってる。

 ママがやってたように。私が、あの幼馴染を支配してたように。男なんて、この身体一つでどうとでもなる。

 そう思ってた。

 震える指で、《高収入》《即日》《寮完備》と検索する。出てきたのは、きらびやかなネオンの光と、胡散臭い笑顔の女たちの写真。


「……やりたくない……」


 パパ。どうして連絡つかないの。助けてよ。そう呟いた。

 ほかの客が私のブースを、いやらしい目で覗き込んできた。

 うつ伏せに、テーブルに額をぶつけた。





 コンビニのアルバイトに応募した。履歴書不要という言葉に惹かれて。しかし、震える声で「身分証は、家に……」と告げた瞬間、店長の目が、私を汚物でも見るように細められた。

 いつしかパパ候補が私を避けるようになった。とうとうネットカフェに泊まる金もなくなった。頼れる友達もいない。親もない。親族は、……元ママ側の力は、二度と借りない。連絡先を長押しして消した。ついでに幼馴染の連絡先も。

 雨に濡れ、空腹で倒れそうになりながら、ショーウィンドウに映る自分の姿を見た。痩せこけ、生気の失せた瞳をした、知らない女がそこにいた。

 その時だった。


「――あの、大丈夫ですか?」


 傘を差し出してくれたのは、人の良さそうな笑顔を浮かべた、小綺麗なスーツの男だった。


「すごく、綺麗な顔をしているのに。もったいない。何か、事情があるんでしょう? 良かったら、温かいものでも飲みながら、お話聞かせてもらえませんか?」





 男は、芸能事務所のスカウトだと名乗った。

 警戒心よりも、温かいコーヒーと、ベーコンレタスサンドの引力の方が、遥かに強かった。

 男の言葉は、魔法のように私の乾いた心に染み込んだ。


「君は悪くない。全部、周りが悪いんだ」「君は特別な子だ。こんな場所にいちゃいけない」「君なら、すぐに大金を稼いで、全部見返してやれる」


 差し出された契約書。月給三十万円。

 その是非について、疲弊しきった私の脳には、もう届かなかった。


「君みたいな子、埋もれちゃダメだよ。君なら、主役になれる」


 甘い囁きだけが、現実だった。

 本人確認や年齢確認の説明はされなかった。好都合。

 私は、震える手で、ペンを握った。

 当然それは、自分の魂を売り渡すための、最初のサインだった。





 アイドル養成事務所。

 養成費、月五十万円。

 月給三十万って何だったの? いや、正式には、給与明細はもらえた。けど天引き欄にその数字が加わって、何もしなければ結局、マイナス。

 口座をもたない当時の私は現金手渡しだけ。住み込みで暮らしていた、ここでしか生きられなかった私に選択肢はなかった。


 給与マイナスを防ぐために稼ぐには、おぞましい作業をこなさないとならない。

 例えばそれは“特別オーディション”と呼ばれていた。

 都心にあるホテルのスイートルーム。そこに集められたのは、私と同じように事務所に飼われている十数人の少女たち。そして、ソファにふんぞり返って私たちを値踏みするのは、脂ぎった中年男たちだった。


「はい、じゃあ一列に並んで。水着の紐、ちゃんと結んでる? 前後左右から見られるんだから、だらしない身体してんじゃないわよ」


 女性マネージャーのヒステリックな声が飛ぶ。

 渡されたのはアイドルの衣装ではない。布面積の少ない、安物の水着。番号が書かれた札を首から下げさせられ、私たちは家畜のように品評される。


「8番、前出て。……そう、そこでターン。うん、脚は綺麗だね。でも、胸はなしか」

「11番は、顔はいいけど、腹の肉が弛んでないか? 昨日何食った?」

「12番、その肌の傷は何だ?」


 男たちの下卑た視線が、肌を舐めるように這い回る。

 屈辱に奥歯を噛み締める。だが周りの子たちは違った。必死に笑顔を作り、媚を売り、少しでも男たちの目に留まろうとしている。

 このオーディションで指名されれば、そのスポンサーの“推し”として、事務所内での序列が上がるのだと言われた。それは、マイナス続きの給料明細に、プラスの数字が載る可能性を意味した。


「じゃあ、最後のアピールタイム。そこの箱からお題を引いて、全力でやってね」


 私が引いた紙には、こう書かれていた。


『犬のモノマネをしながら、スポンサー様にご挨拶。マーキングで加点』


 頭が、真っ白になる。

 隣の少女は『妹になって甘える』という札を引いたのだろう、初対面と思われる男の膝に乗り、涙声で「お兄ちゃん」と囁いていた。男は満足げに、その子の尻を撫でている。


 これが、この世界のルール。

 プライドなんて、何の価値もない。ここでは、いかに恥を捨て、獣になれるかが全て。

 いいよ。やってやる。

 私の居場所はここしかない。惨めな労働者になるくらいなら、私は、この地獄で誰よりも完璧な雌犬になってやる。

 四つん這いになる。作りうる限りの最も愛らしい笑顔を浮かべ、一番金を持っていそうな男の足元に、すり寄っていった。





 数日後、私は紹介されたプロダクションの事務所にいた。

 面接官を名乗る、特別オーディションに参加してた中年男は、私の顔と、ネットにデジタルタトゥーとして刻まれたあの動画を、値踏みするように見比べていた。


「――いいね。君、根性ありそうだ」


 男は、下卑た笑みを浮かべた。


「君さ、これ、興味ない? 普通の夜職じゃ、君の価値はもったいない。君のその顔と、その度胸があれば、トップになれる。世の中の男、全員を、君の虜にしてやろうよ」


 一瞬、身体がこわばる。

 だが、男の言葉が、私の心の最も深い場所にある、歪んだ承認欲求を的確に刺激した。

 トップに、なれる。

 私を捨てた、見下した、全ての奴らを見返せる。


「契約書だ。よく読めよ」


 差し出された紙の束。違約金、ノルマ。そんなものは、もうどうでもよかった。

 名義。隠せないなら、掲げる。名前で勝つ。それを私から言った。

 これは転落じゃない。

 新しいステージの始まりなんだ。

 私は、笑って、その契約書にサインをした。





 割れんばかりの拍手。

 個室を無理に撮影場所に仕立てた、眩しいライトの下で、私は作り笑顔を顔に貼り付けていた。


「結衣ちゃん、最高! 神でした!」

「応援してます! これからも頑張ってください!」


 全ての撮影が完了した。

 差し出される無数の手。その一つ一つを、感情を殺して握り返す。身体は汚れたまま。

 これが私の仕事。

 高校を中退し、家を飛び出し、全てを失った私が、生きるために選んだ道。

 よりによって本名で。でもだから話題にもなったんだろう。甘い言葉で騙された元アイドル候補生が、移籍金付きでAVプロダクションに紹介された。そんな末路。

 所属プロダクションは支払った移籍金より遥かに稼ぐべく、私を馬車馬のごとく酷使する。


 ファンたちは、私を女神だと言う。私の人格ではなく、画面の向こうで喘ぐ“商品”としての私に、熱狂的な賛辞を送る。実物に会っても見ているのはデジタルの情報。

 それでも、かつて、私が欲しくてたまらなかった承認が、今、私に降り注いでいた。

 快楽に、病みつき。

 先がないなんてわかってる。死力を尽くしても、もってあと一年。





 ――そして、揺れに合わせて耳鳴りが戻る。

 手を見つめる。握る。爪を立てた掌が痛い。現実。

 フラッシュバックする光景。

 私の身体を貫く過去。

 終わったら、一から再生される。壊れたテープを何度も見る。


(――ああ、そうか)


 帰り道の電車の中。

 ずっと、どこで転げ落ちたのか、探していた。


 親族の連絡先を消してしまったとき。

 踏み込んではいけない領域でトップになると誓ったとき。

 ここでしか生きられないと勘違いして、実名を使う決断をしたとき。


 放浪生活で限界を迎えて、ショーウィンドウに映った、知らない自分を見つめてた。

 人の良さそうな顔をしたスカウトの男に出会ってしまった、あのとき。


『君みたいな子、埋もれちゃダメだよ。君なら、主役になれる』


 その言葉が、当時は唯一の救いに思えた。

 希望の光で目が眩んでた私には、差し出された契約書の意味が見えてなかった。

 だから泣いたって仕方がない。今までずっとそう思っていた。

 けどそこじゃなかったんだ。

 止まない耳鳴りと、服に染み付いたゲスな臭いに包まれながら、私は、ぼんやりと悟った。


(――これが、罰なんだ)


 あの雨の日。私が、一人の男の子の純粋な好意を踏みにじった、あの瞬間に。私の物語は、もう、こうなることが決まってたんだ。

 私が手にしてた安寧は、学校一と謳われた泥棒すら、欲したものだ。

 価値の大きさが、沁みた。


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 許してください。

 今更、何を言っても届かない。










 アパートのドアを開ける。ワンルームの部屋は、昨日と何も変わらない静寂で、私を迎えた。

 コンビニで買った弁当を、味もしないまま胃に流し込む。空っぽの腹を何かで満たすための作業。あの仕事と何も変わらない。

 シャワーを浴びて、今日着ていた服を洗濯機に放り込む。どうせこの臭いは取れないのに。

 引っ越しの準備をしなきゃ。ああでも面倒くさい。ベッドに倒れ込む。

 ヒビの入ったスマホを開いてエゴサ。

 匿名掲示板に《【悲報】あの白石結衣さん、AV堕ちから1年》というスレッドが立てられていた。

 リンク先には私の出演作のタイトルと、高校時代に流出した、あの裏アカの動画。

《この子さ、昔から性格悪かったんだよな》みたいなレスポンスがわんさか。いつも通りの地獄。廃棄が許されないサンドバッグ。

 過去と現在が一本の線で繋がり、もう二度と逃れられない、デジタルの刑務所に収監された。


 それでも。

 ふと、イベントでファンに「神対応!」と褒められた瞬間の、脳が痺れるような快感を思い出す。

 そうだ。まだ、やれる。

 まだ、私は、誰かに求められてる。

 もう性の快楽じゃない。ただ、その承認のドーパミンだけを求めて。私は、明日もまた、空っぽの笑顔を顔に貼り付けるのだ。





 翌日のオフ。

 引っ越しに向けて、荷物整理をしていた。

 随分前の、家出したときのパジャマ。そして学生カバン。

 中に入っていた、図書カード。


“犯罪者さんへ。/視覚を返して”


「……返します。返しますから、私もっ、返して……!!!」


 こんなことは絶対にありえないけど。

 もし、彼への支配の取りやめと引き換えに。

 何か一つ、願いが叶うなら。


「藤野 ないとに、会わせて、ください……っ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る