6-1 まひる
○
小学校に通っていい、とお医者様に言われた朝、わたしは生まれて初めての幸せを胸いっぱいにかき集めて、古い
言葉にならなかった。大粒の涙がぼろぼろと溢れた。病室の窓からずっと眺めていた、あの空の青さを、身体中で感じられる予感がした。もう、点滴にも、白い壁にも、消毒液の臭いにも、縛られない。
お母さんは言ってくれた。ここまで元気になってくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。「あなたの銀色は宝物だよ」って、友達ごとわたしを抱き締め、頭を撫でて、泣いてくれた。
お母さんの目が大好きだ。柔らかな星空のような瞳。そのお母さんが好きでいてくれる、自分の髪の毛が、生きた身体が、大好きだった。
友達は、わたしが二週間も眠っていた間、ずっと枕元にいてくれた——と、お母さんが教えてくれた。わたしが生きて“普通”の世界に帰る、その証人だ。
△
憧れの小学校。真新しい衣服の袖をくすぐる秋風が、登校初日の肌に心地よかった。
挨拶は練習通りにできた。担任の先生に誘導されて、席に通してもらった。これからの生活に想いを馳せると、やっぱり幸せが胸いっぱいに満ちて、まるで風船のように浮かんでいきそうだった。
「朝の会を始めます」と先生が言った。「はい、出席番号順です。アオキさん」と呼ぶと、端の席の子が立って「はいテンキです」と言った。
クラス全員が繰り返す。「ゲンキです」とか「デンキです」とか。不思議な儀式。何の意味なのかわからない。事前に説明はなかった。
「
わたしは戸惑って、固まってしまった。
「……白鐘まひるさん?」
さっきまで、あんなに親切だった先生の声に、苛立ちが混じった。氷のように冷たい目で、こちらを見た。
黒板にチョークで書かれた、わたしの名前の白さが反射した。クラス全員の視線が鋭くなった。
「……はい、……きょうの、てんきは、はれ、です」
かろうじて、喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
教室中に、くすくす、と、粘りつくような笑い声が広がった。
先生の大きなため息。そして、不思議な儀式が続く。
白い病室の次に、白いはずだった世界は、蛍光灯の下でざらついた。発されない言葉が、まるで目に見えない針のように、わたしを刺し続けた。
△△
給食の時間。牛乳瓶の固い栓が、どうしても開けられなかった。
「……あ、あのっ! 初めまして。その……」
勇気を出して、隣の男の子に話しかけた。
「は? 話し掛けてくんじゃねえよ。キモいな」
胸にぐっときた。
どうして。まだ、あなたには、これが最初の声がけだったのに。どうしよう。でも、先生に言われた。給食は残さず食べなさいって。
「……あの! すみません、牛乳の蓋、とってくれませんか……っ」
正面の女子に頼むと。
「甘えないで?」
彼女はそう言って、周囲と一緒に、にやにやと笑った。
班机の五人、みんなが、汚いものでも見るような目をわたしに向けた。
望みをかけて、教壇で食べている先生を見た。一瞬、目が合った。面倒くさそうに目を反らし、箸を動かし続けた。
わたし、そんなに悪いこと、しちゃったのかな。反省しよう。次の日はもっとうまくやろう。みんなと打ち解けられるように頑張らなくちゃと思った。牛乳くらい、自分で開けられなくちゃ。家に帰ったら練習しよう。
もっと楽しい学校生活にするんだ。命がけで掴んだ、青い空の下の自由なのだから。
次の日からわたしのトレーは、みんなが食べ終わった後、最後に配られるようになった。
温いはずのスープは冷めて、表面には薄い油の膜が張った。冷たいはずの牛乳瓶は生温く、外側に嫌な汗をかいていた。ひとりで食べるのは、惨めだった。昼休み中に完食できず、授業中も食べていた。
でもそれ以上に、班机から外れて、わたしひとり、ぽつんと待つのが辛かった。お腹も減ったし、会話もできなかった。もう牛乳はひとりで開けられるようになったのに。
それが数日続いた。
給食の時間になると、胃が鉛を飲み込んだように、どうしても気分が悪くなった。その日は一口も食べずに、保健室へ行った。
授業の時間の前に、教室に戻った。
わたしの机の上からトレーがなくなっていて、丸い字のメモが置かれていた。
“食べない人に与える給食はありません。反省しなさい。さもなくば、ずっと給食はなしです”
△△△
わたしは友達を連れていくようになった。
憧れた学校には、やっぱり通いたい。けれど、ひとりは怖い。
「ねえ、なんで白鐘さんだけ、人形なんて持ち歩いてんの?」
「キモい」
「まだ赤ちゃんなんじゃないの?」
違う。この子は友達。死にかけていた時も、ずっとわたしを守ってくれた。——喉まで出た言葉は、音にならない。
大切にしていた宝物は、この教室では異常に分類される。先生から何度も注意された。それでも通常授業の間はそばにいてくれた。友達の温もりで、頑張れた。
問題は、離れ離れになる時間。
体育の授業は、地獄そのものだった。
その日の授業は縄跳びだった。体力がなくて、すぐに息が切れてしまった。みんなが三十回、軽々と跳んでいく残像の中で、わたしは三回も跳べずに、何度も、何度も、縄に足を引っかけてしまった。もう立っていられず、へたりと座り込んだ。
「白鐘さん、もう少し、頑張りましょうね」
先生は何の感情も含まない声でそう言った。
その日の連絡帳には、あのメモと同じ、丸い字でこう書かれていた。
“白鐘まひるさん 努力が必要です”
助けて。心の奥で上げた悲鳴は、この学校の誰の耳にも、届くことはなかった。
×
終わりのチャイムは、解放の合図のはずだった。
日直の仕事を終え、ほっとした。これで、針のような言葉が飛び交う空間から、逃げられる。
そう思った、瞬間だった。
「ちょっと来て」
数人の女子生徒がわたしに詰め寄る。黒板を消すわたしを遠巻きに見て、ひそひそと笑っていた子たち。
囲まれた。そして一人がわたしの腕を掴んだ。抵抗する間もなかった。
引きずられるようにして、女子トイレへ押し込められる。そこには見知らぬ上級生も混じっていた。名札がわたしたちとは違う、えんじ色だったから。
クラスの女子たちが、上級生の彼女の背後へ回る。カビと下水が混じった臭い。粘りつくような視線と、嘲笑が満ちていく。
「あんたのその髪、なんか、やっぱり気持ち悪いね」
「わかるー。幽霊みたい。一緒にいると、呪われそう」
「ねぇ、あんたの病気って移るんじゃないの? 心臓がどーとか。迷惑だわ。何で学校来てんの?」
言葉が壁に反響して、心を何度も何度も刺した。
見知らぬ上級生が、水の入った足元のバケツを蹴った。
「ねぇ、みんな。こいつ可哀想だよ? きっと、悪魔に取り憑かれてるんだよ!」
「うんうん、そうだよね、結衣ちゃん」
「だから私らが清めてあげなきゃ」
そのバケツが持ち上がった。
いや。
やめて。
声にならない叫びが、喉の奥で凍りついた。
「幽霊祓いだよ。感謝、しなよね?」
汚泥のような冷たさが、頭蓋を直撃した。
お母さんが“あなたの銀色は宝物だよ”と言ってくれた髪は。
鉛のように重く、視界を塞いだ。
学校生活のために整えた衣服が、毎日入念に洗った肌が、不潔な冷たさに、完全に支配された。
肩や腕を、トイレの床に強く押さえつけられた。そして頭を掴まれた。髪が数本抜ける感覚があった。
「びしょびしょじゃん。床、あんたの髪で掃除しなきゃ」
ゴリゴリ擦られる感触と、甲高い笑い声が、いつまでも響き渡った。
——痛いより、悔しいより、恥ずかしいより、ただ、悲しかった。
ひどく単純な、どうしようもない悲しさだけが、身体の中心に、まるで石のように沈んでいった。
やがて、彼女たちは飽きたように、去っていった。
一人残された、薄暗いトイレ。残ったのは痛みと、水の感触と、わたしの呼吸だけ。
このまま倒れて死にたかったけど、起き上がった。
ぽた、ぽたと、髪の先から、汚れた水滴が床に落ちた。
床にできた水たまりに映った、自分の姿を、波紋越しに見た。
濡れそぼり、
この色は、祝福なんかじゃない。
わたしの色は清められるべき不潔な存在。
悪魔? どうして? 文化を知らないから? 完治しない心疾患だから? それは許されない罪なの?
どうして——わたしは、みんなと違うの?
同い年の子たちと一緒に過ごす場所は、楽しいって、心から期待していた。
勉強も遊びもたくさんするって決めていた。
転校前日、お母さんが言ってくれた。病室の窓から見た、空の青さみたいなわくわくが、学校には抱えきれないほど待っているって。
信じていた。
——お母さん。
奥歯が砕けるほど、強く食いしばった。
「嘘つき」
その日を境に、自分の髪を、そして、自分自身を、心の底から呪うようになった。
××
お母さんが“宝物”だと言ってくれた銀色の髪を、わたしは、きつく、きつく、帽子の中に押し込めた。
いつも帽子を外さないようにした。友達も、どこにでも連れた。誰に何を言われても。自分の身は自分で守るものだと、ようやく理解し始めた頃だった。
体育の授業を終えるチャイムは、地獄を避けるための競争のスタート合図だった。
誰よりも早く女子用の更衣室に駆け込んだ。みだりに走っちゃダメだって言われていたけど走った。心臓が破れそうになっても、足を動かすのをやめなかった。誰にも見られずに、素早く着替えた。それが生き延びるための、毎日の義務だった。
その日、わたしは失敗した。
震える指が、ブラウスの小さなボタンを弾いてしまった。焦りが冷たい汗に変わり、背骨の溝を滑り落ちた。
がちゃ、と無情な音が響き、認めたくなくても、扉が開いた。
「うわ、いた」
「お前ずっと体育終わるといなくなってたよな。ここかー」
「え? 何、ずっとこうして着替えてたの? てか帽子外せよ?」
「お前手術したんだって?」
「死にかけたって、マジ?」
汗と、埃の臭いが、濃密に混じり合って、最悪の予感がした。
好奇心に濁った瞳が近づき、腕を掴まれ、床へ押しつけられる。
「ちょっと、見てみようぜ」
「さんせーい。解剖ごっこだ!」
耳障りな笑いが弾けた。
いや、やめて。声にならない叫び。一人が、わたしの衣服を躊躇なく、胸の上まで捲り上げた。
死にたくなるほど温い空気が、素肌にまとわりつく。隠し続けてきた全てが、下卑た視線に晒された。色素の薄い肌。その下を走る、醜い手術の痕。
「うわ、キモー……」
「ほんとだ、ミミズみたい」
一人が面白がって、その傷跡を、砂埃でざらついた指先で、つ、となぞった。
痛みはなかった。けれど、わたしの魂に直接、汚れた爪が立てられるような、おぞましい感触だった。必死の思いで生き延びた、その命の証を弄ばれる、耐えがたい屈辱。
やがて、彼らは飽きたように、立ち上がった。
「つまんね」
そう言い捨てて去った。
「結衣ちゃんみたいに、できるようになってきたね!」
「でもあんな幽霊シめても手ごたえないんだよなぁ」
声はだんだん小さくなった。
薄暗い更衣室に、西日が差し込み、舞い上がる埃を黄金色に照らし出した。その光景だけが、この世のものとは思えないほど美しかった。
わたしは床に倒れたまま動けなかった。
病室では、身体は治療されるべきもので、そこには救おうとする手があった。
ここにはなかった。
ここでのわたしは、ただの見世物だ。
わたしは、自分が人間ではなく、ただ、汚されて捨てられるモノとして、ここにいるのだと、悟った。
その瞬間、心の中で何かがぷつりと切れた。
もう、行かなくていい。
もう青空を感じなくていい。
楽しさなんて、ない。
こんな地獄に、無理して、通いたくない。
その日、友達だけ連れて、ランドセルも何も置いたまま、上履きで、学校を出た。
命からがら、家にたどり着いた。
お母さんにすべてを打ち明けた。
お母さんは泣いて、わたしを抱き締めてくれた。
×→○
それからも学校に毎日通った。ただし保健室へ。もう教室には行かなかった。ここでなら、給食は食べられた。
引っ越しをする。地区を変える。そうすれば転校できる。
あと少し、耐えれば終わる。もう行かなくていいとも言ってくれたけど、次の学校でうまくやるためにも、通う習慣はなくしたくなかった。
「ごめんね」と言って泣いたお母さんの言葉を、もう一度だけ、信じることにした。
放課後の風は、冬の寒さを含んでいた。
曲がり角。家へ向かう道路。輪が待っていた。どれだけ早足でも間に合わない。つばを指でつまんで、唱えた。
——これは甲冑。怖くない、怖くない。
避けるために、公園へ入った。輪の連中が追い掛けてきた。砂場へ追い詰められた。足が取られて、進めなかった。
輪からひとりが前に出た。見覚えのある、名札のえんじ色。
「それ、見せて」
抱き締めていた友達の腕を掴まれ、ひゅっと抜き取られた。綿の軽さが手から消え、胸の真ん中が素っ裸にされたみたいに冷たくなった。
「なにコレ?」
「白鐘さんの騎士様、でしょ?」
「へえ。だったら——」
彼女はカバンから縄跳びを取り出して、友達の首に紐をくくりつけた。
走って遠ざかり、公園の木の太い枝に向かって投げた。
ぶら下がった友達が、風に揺れて、小さく首を振った。
「ほら、処刑台」
膝から力が抜ける。
「やめて。……返して」
声はちゃんと出たのに、誰も聞かない。
カチ、カチ、と金属の音がした。
「うわ、結衣ちゃん、ライターつけられんの? すご……」
「ふふん。ママの見てるから」
火がつく。小さな舌のような炎が、友達の靴先で踊って、ぱち、と乾いた音。
「うわ、見て——ちょっと焦げてる」
「煙だけだから。すぐ消えるって」
友達の、縫い直したばかりの糸が裂けた。
お母さんと一緒に、久々に笑いながら、何度もやり直した箇所。
「きゃはーワクワクするね! 燃えるってどんなだろ!?」
「お前の騎士様、処刑——!」
「……私、帰る。はいライター。あとはやっといて」
「え? ゆ、結衣ちゃん!? ……うわっ、ついた!」
わたしは。
胸がぎゅう、と縮んで、息がつかえるばかりだった。帽子のつばの向こうで、光が滲んだ。友達の手が、助けを求めるように見えた——わたしは、前に、出られない。
もう死んでしまおうか。友達の後を追って。
その時だった。
「やめろ! 何やってんだお前ら!!」
あなたが入ってきた。
たったひとりで。彼女たちと肩がぶつかっても怯まず、駆けた。
木の幹に足をかけて、上体を伸ばした。縄ごと友達をとって、自らのマフラーを焦げた部分に被せた。背の低い水飲み場まで小走りに行って、水で少し濡らした。
「……おい!! こんなひどいこと、きみたちがやったのか!?」
「ヤッバ、逃げよ……!!」
奴らは散っていく。あなたは追わない。それから、まるで罪人を解放するように、首にかかった縄を丁寧に、優しく解いた。
「……うん。火は、もう大丈夫。濡らしてごめんね」
わたしに近寄った。
騎士の人形。鎧の縁が黒くなっていた。背中の縫い目から白い綿がひとすじ顔を出して——それでも、戻ってきた。
「きみは、大丈夫?」
わたしのことを見た。人形じゃなくて、わたしの目を。
差し伸べてくれた手を、受け取った。
あなたの指も、震えていた。
「返すよ。大切なものでしょ」
友達を胸に抱いた。
あなたの、名札のえんじ色が目に残った。
“藤野 護”。
「……もう大丈夫だから。きみが大切にしているものを、誰も馬鹿にする権利なんてない」
帽子——わたしの甲冑に、優しい指が、触れた気がした。
うなずけなかった。涙と空気で喉がいっぱいだった。知らなかった、冬の優しい匂いが、胸に刺さった。
「おーい、
遠くから聞こえた声にぞっとした。
彼は一度そちらへ歩きかけたが、すぐに足を止め、もう一度わたしを振り返った。
「……きみ、どうしたの?」
「……」
人に頼ることは、いけないことなんだ。
それは転校初日の牛乳瓶で、思い知った、のに。
彼のシャツの裾を、きゅっとつまんで。
ふるふる、と、首を振った。
「……提案なんだけど」
再び、砂場に崩れ落ちたわたしに、彼はしゃがんで、目線を合わせた。
「明日から、一緒に学校に行かない? 帰りもさ」
息を呑んだ。
「あ、ごめん。自己紹介がまだだった。ぼくは藤野。きみは?」
声にならない声で、「……しらかね」とだけ唇が動いた。
彼はそれで十分だというように、優しく笑った。
「白鐘さん。じゃあ、また明日。……朝、この公園にいるから」
◎
家の玄関を開けて、「ただいま!」と言った。
廊下の向こうで、何かを落とした音が響いた。
靴を脱ぎ終わった頃。お母さんが台所から走って来た。飛び込む勢いで、わたしと人形を、力いっぱい抱き締めた。
焦げ跡を見て、顔をしかめて——それから、ゆっくり笑った。
「あなたが笑って帰ってきたの、はじめてだね」
胸の奥で、何かが、やっと息をした。
——わたしの現実に、騎士が現れた日だった。
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