6-2 まひる


 思えばお姉ちゃんは、ずっと、ずるかった。


 朝いちばんに駆けだせる脚。夕暮れになって帰ってくる。

 夏の日は、プールの塩素の匂いをさせて、病室のわたしの隣で「ただいま」って笑う。ゴーグルの跡を目の周りにうっすら残して、「水の中って、息を止めると、お魚みたいに静かだよ」って、わたしには一生わからない世界のことを、当たり前みたいに話す。

 同じ顔。でも髪の色は違って、向こうは漆黒。太陽の光をたくさん浴びて、茶色くなった肌。

 たった数分だけ先に生まれた、片割れ。


 でも、昨日。

 公園で、わたしの人形ともだちが燃やされそうになった、昨日だけは。

 わたしのほうが、ほんの少しだけ、いいかもしれないって、思った。


 だって、騎士あなたに出会えたから。

 それは、何でも通じ合えるはずの、お姉ちゃんですら知らない、わたしだけの宝物。





 翌朝、わたしは雨音で目を覚ました。

 窓の外は、世界を灰色に塗りつぶすような土砂降りだった。

 約束なんて、この雨が全部洗い流してしまったのだと、すぐに悟った。

 優しさは気まぐれで、奇跡は一度きり。それでこそ現実だ。


 鉛のように重い心を引きずって、それでも公園へ向かった。

 馬鹿な期待を抱いた自分を、ちゃんと見届けて、終わらせるために。

 公園は、誰もいなかった。

 ……そう、思った、瞬間。

 東屋の屋根の下に、ぽつんと立つ、一つの影を見つけた。

 大きな黒い傘を下ろして、退屈そうに空を見上げていた。

 あなただった。

 わたしに気づくと、「おはよう」と微笑んで、軽く片手を上げた。

 その笑顔は、晴れの日と何も変わらなかった。





 その日から、わたしの登下校には、騎士あなたが隣を歩くようになった。

 胸に抱いた友達も、満足そうだ。

 名札のえんじ色は小学六年生。わたしより一つ上。世界は、きっと、もっと広く見えているはずだ。

 会話はほとんどなかった。わたしの喉はまだ、うまく言葉を紡げなかった。二つ並んだ影が、コンクリートの上を滑っていくのを毎日見ていた。もう輪に囲まれることはなかった。それだけで十分すぎた。




◎◎


 下校のときも、あなたは保健室まで来てくれた。

 迷惑でしょう? と聞いたことがあった。あなたは、はにかんで「そんなことないよ」と言ってくれた。

 いつものように、別れ道になる公園に着いた。けれどその日、あなたはブランコを指差した。


「少し、話さない?」


 夕暮れの公園。

 オレンジ色の光が、長い影を二つ並べた。錆びたブランコの鎖が、きい、と小さく鳴いた。

 吹き抜けた風が、帽子のつばを持ち上げた。心臓が冷たく締まった。咄嗟に頭を押さえた。絶対に見られるわけにはいかなかった。

 あなたは、帽子に目をとめた。


「それ、苦しくない?」


 そう言って、こめかみをそっと指した。

 わたしは首を振れなかった。肯定も否定もできず、言葉もなく俯いた。この甲冑を剥がされたら、もう、あなたの前にもいられなくなると、学習していた。


「……ぼくもさ、昔、くせ毛がすごく嫌で。いつも帽子被ってた時期、あったんだ」

「……え?」

「だから、なんとなく。その帽子、きみにとって大事なんだろうけど。同時に、ちょっとだけ窮屈なのかなって。……違ったら、ごめんね」


 違わない。首をぶんぶん振った。


「見せてくれたら、嬉しい」


 あなたの声は、夕暮れみたいに穏やかだった。


「約束する。笑わない。これからは、誰にも笑わせない」


 視線が合った。吸い込まれそうな、まっすぐな瞳。

 わたしは、こくりと、小さくうなずいた。

 あなたの指先が、枷を、ゆっくりと解いた。帽子が外され、夕方の空気が、光が、わたしの“生まれつき”に、直接届いた。


 わたしは髪の毛を刈り上げていた。

 あのトイレの日以来、自分の色が嫌いになった。宝物だなんて嘘だ。これは呪いだ。お母さんに「全部なくしたい」と泣いて頼んだ。けど、お母さんはそれ以上に泣いたから、できなかった。

 だから、せめてもの抵抗に、自分の手で、できるところまで切り落とした。

 それでも生えてくる銀の短い毛が、憎くてたまらなかった。


 沈黙が怖かった。軽蔑される気配を待つ時間が、いちばん怖かった。

 ぎゅっと目を閉じた。

 でも、聞こえてきたのは、想像していたどんな音とも違った。


「――きれいだね」


 世界が、ほんの一音だけ、明るくなった気がした。

 おそるおそる目を開けると、あなたは、驚いた顔でも、憐れむ顔でもなく、ただ、少しだけ、微笑んでいた。


「きみの色、好きだな」


 その言葉に、息が止まった。

 お母さんの瞳みたいだ、と思った。

 あなたはわたしの頭に、優しく触れた。


「……よく頑張った」


 何かが、堰を切って溢れ出した。

 醜いと信じていたわたしのすべてを、この人は、たった一言で、宝物にしてくれた。


「……ぅぅううう~~っっ」


 声にならない嗚咽が漏れた。

 そんなわたしを、あなたは、急かさず、黙って隣で見守ってくれた。

 夕日が落ちて、一番星が灯るまで、ずっと。 




◎◎◎


 わたしは小さく、歌うようになった。

 手術で閉じたはずの胸が、鈍く痛むとき。

 時々、不意に脈打ってわたしを不安にさせる心臓の音から、耳を逸らしたいとき。

 階段を上っただけで、浅くなる呼吸を、誰にも気づかれたくないとき。

 そんなとき泣き出す代わりに、胸の奥で揺れる旋律を、頭で再生していたことは今までもあった。

 それを声にして確かめたくなったのは、あなたがそばにいると、安心できたから。


 いつものように、あなたと帰る放課後。

 校舎の階段の踊り場で、わたしは少し後ろを歩いていた。西日が差し込む窓辺で、あなたにゆっくり追いつきながら、その旋律を口ずさんでいた。

 ふと、あなたの足音が消えていることに気づいた。目の前からもいなくなっていた。

 振り返ると、あなたは数段下の踊り場で立ち止まり、じっと、耳を澄ませていた。

 顔からさっと血の気が引いた。


「……今の、きみの歌?」


 ――うそ。


「ち、違うんです。これは……!!」


 慌てて取り繕う声が、上擦った。

 一方であなたの声は、真剣だった。


「すごく、澄んだ声だね」


 その瞬間、胸の、いちばん柔らかいところが、ぽろり、と音になってほどけた気がした。


「……ねえ、すごく変なこと言っていい?」

「……はい。何でも」

「今後、もしぼくが落ち込んだらさ。歌ってくれないかな?」


 自分を元気づけるためだった旋律の意味が、変わった。


「きみの歌を聴いたら、元気が出そうだ。……あはは。変だね、ぼく?」


 わたしの答えは、決まっていた。


「約束、します。この歌は、あなたのための歌にします。だから、他の誰にも、聴かせません」


 あなたが「きれいだ」と言ってくれた、わたしの銀色の髪。

 あなたが「澄んだ声」と言ってくれた、わたしの声。

 呪いだと思っていたわたしの存在を、あなたは、祝福された宝物に変えてくれた。


 きっといつか必要とされるときに向けて、この旋律を、歌に仕上げると誓った。

 あなたとわたしだけの、約束の歌だ。

 誰にも、秘密だ。





 生きてみようと思った。

 この声で、この体で、もう一度、世界へ触れてみようと思った。

 ずっと、お医者様から提案されていた選択肢があった。

 海外での難しい手術。

 成功すれば、わたしはもっと自由になる。ずっと怖いだけだった未来。でも、もし。この声を守っている心臓が、もっと強くなれたなら。

 今のわたしには、一曲歌い上げることすら難しいから。

 怖い。

 でも、前に進むための強さが、今は、欲しかった。


 そう決意した矢先のことだった。

 冬休みを目前に控えた放課後。あなたの教室の前で、あなたが下校するのを待っていられるくらい、もう学校は怖くなくなっていた。

 心臓が、期待に温かく跳ねた。今日はどんなお話ができるかな。いや、楽しいばかりではダメだ。今日こそ、手術のことを、あなたに話そう。しばらくいなくなるけれど、待っていてほしい。

 そんなことを思っていた。




 けれど、教室の中に見えたあなたのそばに、あの女がいた。


「ねえ、ないと?」


 女はあなたの名前を、わたしが今まで聞いたこともない甘い響きで、呼んだ。


「……最近、なんで一緒に帰んないの? 浮気してんの?」

「そ、そんなわけないだろ」

「あのお人形持ってる銀髪の子……、白鐘さん? なんであんなのと、いっつも一緒にいるわけ?」

「……ぼくが決めたことだ」

「女でしょ。そいつ」


 わたしは、咄嗟に柱の影に隠れた。

 最初は、ただのクラスメイトなのだと思っていた。そう信じていた。


「ねえ、何!? まさかとは思うけど、あんなのが好きなの!?」

「ち、違う! 絶対に違う! ただ、放っておけないっていうか……」

「ふーん。じゃあ、私のこと、本当に好きなら、できるよね?」


 そして、当たり前のように、あなたの手に、自分の手を絡ませた。


「あの子とは縁を切って。ないと♡」


 よりによって。

 わたしが、わたし自身を呪うきっかけになった、あの女。

 ユイ。


 世界から、音が消えた。

 頭の奥で、何かが硝子のように砕け散る音がした。

 視界がぐにゃりと歪んだ。立っているはずなのに、足元の床が崩れ落ちていった。

 理解、できなかった。

 わたしを救った、あなたの優しい手。

 わたしを地獄の底に突き落とした、彼女の汚れた手。

 その二つが、当たり前のように、恋人同士のように、絡み合っている。


 脳が、その矛盾した情報の処理を拒絶した。

 胸が、心臓が、痛くて、たまらない。

 あの日の夕日が、色褪せていった。わたしの刈り上げた頭を見て「きみの色が好きだ」と言ってくれたあなたの言葉に、ノイズが混じった。あなたの優しさのすべてが、信じたくはないけれど、彼女・・に向けられたものの、延長だったのだとしたら。わたしの救済は、彼女の恋人が気まぐれに施した、ただの慈善活動だった?


 違う。違う違う違う。

 思考がショートした。熱い鉄の棒で、脳の中心をかき混ぜられるような、激痛。

 わたしの騎士は。

 わたしを殺した魔女を、愛している。






 ――お姉ちゃん。


 世界の終わりみたいな日を、思い出した。

 お父さんとお母さんが、もう一緒にはいられないのだと、わたしたちに告げた日だ。

 病室から一時退院を許されて、人生で初めて我が家の温かさに触れた、その幸福が一瞬で消え失せた日。


 わたしよりずっと大きな声で、お姉ちゃんは泣いていた。わたしは、ただ、その隣で震えているだけだった。


「毎日、お手紙っ、書ぐがら゛っ゛!」


 お父さんに連れていかれる直前、お姉ちゃんは、わたしの小指を固く握って、そう約束した。


「まっ、……ま゛びる゛が退院、じ、だら。すぐに……っ!」


 しゃくりあげながら、途切れ途切れに紡がれる言葉。


「あ、会い、会い゛に゛っ! だが、……泣゛か゛な゛い゛て゛……っっ」


 わたしを安心させるように。わたしを守るように。

 いつだって、そうだった。わたしが持てないものすべてを持っていたお姉ちゃんは、いつだって、わたしの盾だった。

 陽の下をどこまでも走っていける、強い心臓。

 わたしが病室の窓から見ていた青空を、お姉ちゃんは毎日、全身で吸い込んでいた。わたしもそうなりたいと願った。あの空の青さを、身体中で感じられれば、お姉ちゃんに近づけるんじゃないかって、本気で思っていた。


 けど約束は、すぐに破られた。

 わたしが書いた何通もの手紙の返事は、一度も、来なかった。

 宛先不明の赤い判子が、帰ってきた。

 お姉ちゃんは、わたしを置いて、どこか遠い世界へ行ってしまった。

 あなたも、あの女の手を取って、わたしの知らない世界へ行ってしまう。


 みんな、わたしを置いていく。


 ねえ、お姉ちゃん。

 こんなとき、どうしたらよかった?

 わたしを守ってくれたお姉ちゃんだったら、こんなとき、どうやって戦った?


 ……わかっている。

 盾になってくれたお姉ちゃんは、もういない。

 新しい光だと思ったあなたには、守るべき魔女がいる。

 だから、わたしにできることは、たったひとつだけ。


 祈るように囁いた。声に出さずに、唇だけで。


「――お幸せに。わたしの、騎士様ないと





 ふたり並んで歩く背中は、わたしより背が高く、季節を物語っていた。

 追い越せなかった。

 心臓の痛みは、不思議と治まっていた。自然に、一歩下がり、影の位置を選んだ。つばを掴んで、深く被った。甲冑の内側で、お姉ちゃんが、わたしに問いかけた。


 ――ほんとうにそれでいいの?


 ――うん、これでいい。わたしが選んだ。


 だって、そうでなければ、わたしの世界は、完全に壊れてしまっていたから。

 彼がいてくれたから、わたしは歌う覚悟を持てた。

 わたしは騎士に救われた民でいい。

 遠くから、あなたの幸せだけを祈る聖歌隊でいい。

 あなたは光。わたしは影。それで、いい。


 いつも見ている。

 あなたの歩幅を、あなたの呼吸を、あなたの声が、彼女に向ける優しさの響きを、いつでも。

 この胸が張り裂けそうでも、ずっと。


 そして、冬休みになった。

 わたしは予定通り、転校した。









⚪︎


 死は、ヒールを鳴らして部屋に入ってくる。

 モニターの数字が波打って、靴音が速くなり、酸素の匂いが強くなった。

 ほんとうに、ここで終わると悟った。

 喉が、海みたいに冷えて、声が遠のいた。

 点滴の雫が落ちるたび、時間は薄くなるのに、あなたへの想いだけが濃くなっていった。


 カーテンの向こう。お母さんが祈る声。

 眠るように、と言われてあてがわれた、薬のにぶい味。

 わたしは、歌を選んだ。


 ――聴こえる?

 あなたに、届く?

 声にならない声で、胸の奥の旋律をほどく。

 だって、ここは白い世界。息は切れず、声はまっすぐ伸びる。

 たとえ、わたしがいなくなっても、あなたまで、ほんの少しでも届くように願い、歌う。


 約束を守れずごめんなさい。

 たとえ、二度と会えないと思えるほど、遠くへ行ってしまっても。

 たとえ、わたしが焼かれて、粉のように散って、形を失ってしまっても。

 あなたを好きになったことは――死してなお、変わらない。

 だからわたしは、あなたに届くと信じて、何度でも歌える。

 息を、あなたの生きる世界へ放つ。


 ――終わらない歌。

 あなたは陽光を放つ聖火。私はその光を抱いた、満ちる月の聖歌隊。

 ほかの皆さんも、あなたのそばにいる。前や、後ろや、隣に。両親や、先輩後輩に、たくさんの友達。将来の伴侶だって。

 あなたの人生は幸せで満ちたものになる。

 拍の合図は鼓動だけ。

 ただ、ずっと歌い続ける。何小節目だろうと、何年先だろうと、終わりは来ない。

 もしも、あなたの人生に、苦難が訪れたら。

 わたしが騎士の盾になる。この歌で、あなたを護る。

 聴こえる限りずっと励まし続ける騎士への賛歌。


 だから、どうか忘れないで。

 笑うときも、泣くときも、迷うときも。

 あなたが音を探すその瞬間ごとに、わたしは隣にいる。

 たとえもう言葉を交わせなくても、音として、存在として、確かに触れている。

 あなたの息の熱と、指先のぬくもりの、すぐ隣に。


 あなたは光。わたしは影。あなたの幸せだけを祈る。

 わたしも、幸せだったよ。

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