6-2 まひる
●
思えばお姉ちゃんは、ずっと、ずるかった。
朝いちばんに駆けだせる脚。夕暮れになって帰ってくる。
夏の日は、プールの塩素の匂いをさせて、病室のわたしの隣で「ただいま」って笑う。ゴーグルの跡を目の周りにうっすら残して、「水の中って、息を止めると、お魚みたいに静かだよ」って、わたしには一生わからない世界のことを、当たり前みたいに話す。
同じ顔。でも髪の色は違って、向こうは漆黒。太陽の光をたくさん浴びて、茶色くなった肌。
たった数分だけ先に生まれた、片割れ。
でも、昨日。
公園で、わたしの
わたしのほうが、ほんの少しだけ、いいかもしれないって、思った。
だって、
それは、何でも通じ合えるはずの、お姉ちゃんですら知らない、わたしだけの宝物。
●
翌朝、わたしは雨音で目を覚ました。
窓の外は、世界を灰色に塗りつぶすような土砂降りだった。
約束なんて、この雨が全部洗い流してしまったのだと、すぐに悟った。
優しさは気まぐれで、奇跡は一度きり。それでこそ現実だ。
鉛のように重い心を引きずって、それでも公園へ向かった。
馬鹿な期待を抱いた自分を、ちゃんと見届けて、終わらせるために。
公園は、誰もいなかった。
……そう、思った、瞬間。
東屋の屋根の下に、ぽつんと立つ、一つの影を見つけた。
大きな黒い傘を下ろして、退屈そうに空を見上げていた。
あなただった。
わたしに気づくと、「おはよう」と微笑んで、軽く片手を上げた。
その笑顔は、晴れの日と何も変わらなかった。
◎
その日から、わたしの登下校には、
胸に抱いた友達も、満足そうだ。
名札のえんじ色は小学六年生。わたしより一つ上。世界は、きっと、もっと広く見えているはずだ。
会話はほとんどなかった。わたしの喉はまだ、うまく言葉を紡げなかった。二つ並んだ影が、コンクリートの上を滑っていくのを毎日見ていた。もう輪に囲まれることはなかった。それだけで十分すぎた。
◎◎
下校のときも、あなたは保健室まで来てくれた。
迷惑でしょう? と聞いたことがあった。あなたは、はにかんで「そんなことないよ」と言ってくれた。
いつものように、別れ道になる公園に着いた。けれどその日、あなたはブランコを指差した。
「少し、話さない?」
夕暮れの公園。
オレンジ色の光が、長い影を二つ並べた。錆びたブランコの鎖が、きい、と小さく鳴いた。
吹き抜けた風が、帽子のつばを持ち上げた。心臓が冷たく締まった。咄嗟に頭を押さえた。絶対に見られるわけにはいかなかった。
あなたは、帽子に目をとめた。
「それ、苦しくない?」
そう言って、こめかみをそっと指した。
わたしは首を振れなかった。肯定も否定もできず、言葉もなく俯いた。この甲冑を剥がされたら、もう、あなたの前にもいられなくなると、学習していた。
「……ぼくもさ、昔、くせ毛がすごく嫌で。いつも帽子被ってた時期、あったんだ」
「……え?」
「だから、なんとなく。その帽子、きみにとって大事なんだろうけど。同時に、ちょっとだけ窮屈なのかなって。……違ったら、ごめんね」
違わない。首をぶんぶん振った。
「見せてくれたら、嬉しい」
あなたの声は、夕暮れみたいに穏やかだった。
「約束する。笑わない。これからは、誰にも笑わせない」
視線が合った。吸い込まれそうな、まっすぐな瞳。
わたしは、こくりと、小さくうなずいた。
あなたの指先が、枷を、ゆっくりと解いた。帽子が外され、夕方の空気が、光が、わたしの“生まれつき”に、直接届いた。
わたしは髪の毛を刈り上げていた。
あのトイレの日以来、自分の色が嫌いになった。宝物だなんて嘘だ。これは呪いだ。お母さんに「全部なくしたい」と泣いて頼んだ。けど、お母さんはそれ以上に泣いたから、できなかった。
だから、せめてもの抵抗に、自分の手で、できるところまで切り落とした。
それでも生えてくる銀の短い毛が、憎くてたまらなかった。
沈黙が怖かった。軽蔑される気配を待つ時間が、いちばん怖かった。
ぎゅっと目を閉じた。
でも、聞こえてきたのは、想像していたどんな音とも違った。
「――きれいだね」
世界が、ほんの一音だけ、明るくなった気がした。
おそるおそる目を開けると、あなたは、驚いた顔でも、憐れむ顔でもなく、ただ、少しだけ、微笑んでいた。
「きみの色、好きだな」
その言葉に、息が止まった。
お母さんの瞳みたいだ、と思った。
あなたはわたしの頭に、優しく触れた。
「……よく頑張った」
何かが、堰を切って溢れ出した。
醜いと信じていたわたしのすべてを、この人は、たった一言で、宝物にしてくれた。
「……ぅぅううう~~っっ」
声にならない嗚咽が漏れた。
そんなわたしを、あなたは、急かさず、黙って隣で見守ってくれた。
夕日が落ちて、一番星が灯るまで、ずっと。
◎◎◎
わたしは小さく、歌うようになった。
手術で閉じたはずの胸が、鈍く痛むとき。
時々、不意に脈打ってわたしを不安にさせる心臓の音から、耳を逸らしたいとき。
階段を上っただけで、浅くなる呼吸を、誰にも気づかれたくないとき。
そんなとき泣き出す代わりに、胸の奥で揺れる旋律を、頭で再生していたことは今までもあった。
それを声にして確かめたくなったのは、あなたがそばにいると、安心できたから。
いつものように、あなたと帰る放課後。
校舎の階段の踊り場で、わたしは少し後ろを歩いていた。西日が差し込む窓辺で、あなたにゆっくり追いつきながら、その旋律を口ずさんでいた。
ふと、あなたの足音が消えていることに気づいた。目の前からもいなくなっていた。
振り返ると、あなたは数段下の踊り場で立ち止まり、じっと、耳を澄ませていた。
顔からさっと血の気が引いた。
「……今の、きみの歌?」
――うそ。
「ち、違うんです。これは……!!」
慌てて取り繕う声が、上擦った。
一方であなたの声は、真剣だった。
「すごく、澄んだ声だね」
その瞬間、胸の、いちばん柔らかいところが、ぽろり、と音になってほどけた気がした。
「……ねえ、すごく変なこと言っていい?」
「……はい。何でも」
「今後、もしぼくが落ち込んだらさ。歌ってくれないかな?」
自分を元気づけるためだった旋律の意味が、変わった。
「きみの歌を聴いたら、元気が出そうだ。……あはは。変だね、ぼく?」
わたしの答えは、決まっていた。
「約束、します。この歌は、あなたのための歌にします。だから、他の誰にも、聴かせません」
あなたが「きれいだ」と言ってくれた、わたしの銀色の髪。
あなたが「澄んだ声」と言ってくれた、わたしの声。
呪いだと思っていたわたしの存在を、あなたは、祝福された宝物に変えてくれた。
きっといつか必要とされるときに向けて、この旋律を、歌に仕上げると誓った。
あなたとわたしだけの、約束の歌だ。
誰にも、秘密だ。
●
生きてみようと思った。
この声で、この体で、もう一度、世界へ触れてみようと思った。
ずっと、お医者様から提案されていた選択肢があった。
海外での難しい手術。
成功すれば、わたしはもっと自由になる。ずっと怖いだけだった未来。でも、もし。この声を守っている心臓が、もっと強くなれたなら。
今のわたしには、一曲歌い上げることすら難しいから。
怖い。
でも、前に進むための強さが、今は、欲しかった。
そう決意した矢先のことだった。
冬休みを目前に控えた放課後。あなたの教室の前で、あなたが下校するのを待っていられるくらい、もう学校は怖くなくなっていた。
心臓が、期待に温かく跳ねた。今日はどんなお話ができるかな。いや、楽しいばかりではダメだ。今日こそ、手術のことを、あなたに話そう。しばらくいなくなるけれど、待っていてほしい。
そんなことを思っていた。
けれど、教室の中に見えたあなたのそばに、あの女がいた。
「ねえ、
女はあなたの名前を、わたしが今まで聞いたこともない甘い響きで、呼んだ。
「……最近、なんで一緒に帰んないの? 浮気してんの?」
「そ、そんなわけないだろ」
「あのお人形持ってる銀髪の子……、白鐘さん? なんであんなのと、いっつも一緒にいるわけ?」
「……ぼくが決めたことだ」
「女でしょ。そいつ」
わたしは、咄嗟に柱の影に隠れた。
最初は、ただのクラスメイトなのだと思っていた。そう信じていた。
「ねえ、何!? まさかとは思うけど、あんなのが好きなの!?」
「ち、違う! 絶対に違う! ただ、放っておけないっていうか……」
「ふーん。じゃあ、私のこと、本当に好きなら、できるよね?」
そして、当たり前のように、あなたの手に、自分の手を絡ませた。
「あの子とは縁を切って。
よりによって。
わたしが、わたし自身を呪うきっかけになった、あの女。
ユイ。
世界から、音が消えた。
頭の奥で、何かが硝子のように砕け散る音がした。
視界がぐにゃりと歪んだ。立っているはずなのに、足元の床が崩れ落ちていった。
理解、できなかった。
わたしを救った、あなたの優しい手。
わたしを地獄の底に突き落とした、彼女の汚れた手。
その二つが、当たり前のように、恋人同士のように、絡み合っている。
脳が、その矛盾した情報の処理を拒絶した。
胸が、心臓が、痛くて、たまらない。
あの日の夕日が、色褪せていった。わたしの刈り上げた頭を見て「きみの色が好きだ」と言ってくれたあなたの言葉に、ノイズが混じった。あなたの優しさのすべてが、信じたくはないけれど、
違う。違う違う違う。
思考がショートした。熱い鉄の棒で、脳の中心をかき混ぜられるような、激痛。
わたしの騎士は。
わたしを殺した魔女を、愛している。
――お姉ちゃん。
世界の終わりみたいな日を、思い出した。
お父さんとお母さんが、もう一緒にはいられないのだと、わたしたちに告げた日だ。
病室から一時退院を許されて、人生で初めて我が家の温かさに触れた、その幸福が一瞬で消え失せた日。
わたしよりずっと大きな声で、お姉ちゃんは泣いていた。わたしは、ただ、その隣で震えているだけだった。
「毎日、お手紙っ、書ぐがら゛っ゛!」
お父さんに連れていかれる直前、お姉ちゃんは、わたしの小指を固く握って、そう約束した。
「まっ、……ま゛びる゛が退院、じ、だら。すぐに……っ!」
しゃくりあげながら、途切れ途切れに紡がれる言葉。
「あ、会い、会い゛に゛っ! だが、……泣゛か゛な゛い゛て゛……っっ」
わたしを安心させるように。わたしを守るように。
いつだって、そうだった。わたしが持てないものすべてを持っていたお姉ちゃんは、いつだって、わたしの盾だった。
陽の下をどこまでも走っていける、強い心臓。
わたしが病室の窓から見ていた青空を、お姉ちゃんは毎日、全身で吸い込んでいた。わたしもそうなりたいと願った。あの空の青さを、身体中で感じられれば、お姉ちゃんに近づけるんじゃないかって、本気で思っていた。
けど約束は、すぐに破られた。
わたしが書いた何通もの手紙の返事は、一度も、来なかった。
宛先不明の赤い判子が、帰ってきた。
お姉ちゃんは、わたしを置いて、どこか遠い世界へ行ってしまった。
あなたも、あの女の手を取って、わたしの知らない世界へ行ってしまう。
みんな、わたしを置いていく。
ねえ、お姉ちゃん。
こんなとき、どうしたらよかった?
わたしを守ってくれたお姉ちゃんだったら、こんなとき、どうやって戦った?
……わかっている。
盾になってくれたお姉ちゃんは、もういない。
新しい光だと思ったあなたには、守るべき魔女がいる。
だから、わたしにできることは、たったひとつだけ。
祈るように囁いた。声に出さずに、唇だけで。
「――お幸せに。わたしの、
ふたり並んで歩く背中は、わたしより背が高く、季節を物語っていた。
追い越せなかった。
心臓の痛みは、不思議と治まっていた。自然に、一歩下がり、影の位置を選んだ。つばを掴んで、深く被った。甲冑の内側で、お姉ちゃんが、わたしに問いかけた。
――ほんとうにそれでいいの?
――うん、これでいい。わたしが選んだ。
だって、そうでなければ、わたしの世界は、完全に壊れてしまっていたから。
彼がいてくれたから、わたしは歌う覚悟を持てた。
わたしは騎士に救われた民でいい。
遠くから、あなたの幸せだけを祈る聖歌隊でいい。
あなたは光。わたしは影。それで、いい。
いつも見ている。
あなたの歩幅を、あなたの呼吸を、あなたの声が、彼女に向ける優しさの響きを、いつでも。
この胸が張り裂けそうでも、ずっと。
そして、冬休みになった。
わたしは予定通り、転校した。
⚪︎
死は、ヒールを鳴らして部屋に入ってくる。
モニターの数字が波打って、靴音が速くなり、酸素の匂いが強くなった。
ほんとうに、ここで終わると悟った。
喉が、海みたいに冷えて、声が遠のいた。
点滴の雫が落ちるたび、時間は薄くなるのに、あなたへの想いだけが濃くなっていった。
カーテンの向こう。お母さんが祈る声。
眠るように、と言われてあてがわれた、薬のにぶい味。
わたしは、歌を選んだ。
――聴こえる?
あなたに、届く?
声にならない声で、胸の奥の旋律をほどく。
だって、ここは白い世界。息は切れず、声はまっすぐ伸びる。
たとえ、わたしがいなくなっても、あなたまで、ほんの少しでも届くように願い、歌う。
約束を守れずごめんなさい。
たとえ、二度と会えないと思えるほど、遠くへ行ってしまっても。
たとえ、わたしが焼かれて、粉のように散って、形を失ってしまっても。
あなたを好きになったことは――死してなお、変わらない。
だからわたしは、あなたに届くと信じて、何度でも歌える。
息を、あなたの生きる世界へ放つ。
――終わらない歌。
あなたは陽光を放つ聖火。私はその光を抱いた、満ちる月の聖歌隊。
ほかの皆さんも、あなたのそばにいる。前や、後ろや、隣に。両親や、先輩後輩に、たくさんの友達。将来の伴侶だって。
あなたの人生は幸せで満ちたものになる。
拍の合図は鼓動だけ。
ただ、ずっと歌い続ける。何小節目だろうと、何年先だろうと、終わりは来ない。
もしも、あなたの人生に、苦難が訪れたら。
わたしが騎士の盾になる。この歌で、あなたを護る。
聴こえる限りずっと励まし続ける騎士への賛歌。
だから、どうか忘れないで。
笑うときも、泣くときも、迷うときも。
あなたが音を探すその瞬間ごとに、わたしは隣にいる。
たとえもう言葉を交わせなくても、音として、存在として、確かに触れている。
あなたの息の熱と、指先のぬくもりの、すぐ隣に。
あなたは光。わたしは影。あなたの幸せだけを祈る。
わたしも、幸せだったよ。
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