3-1


 夜。自分の部屋。

 信じられない、と思いながら、ベッドに仰向けになる。

 手に持った小箱と、一通の手紙を見つめながら、今日のことを思い返す。



 第二校舎の廊下。明暗が連続する薄暗がりの中。

 告白を受けて――。

 喉まで出かかった言葉を、彼女の指が止めた。


「いいんです、先輩。今、無理に答えなくて」


 人差し指が唇に触れたまま、彼女は半歩だけ位置を変えた。

 体の角度で、長い廊下を遮った。ローファーが床を鳴らした気配――それでも焦点は、彼女だけに合ったまま。

 夜を湛えた、真っ直ぐな瞳から、目が離せなかった。


「わたしが惚れたのは、約束を曲げない先輩ですから」


 喉の奥に引っかかっていた言い訳が、ゆっくり溶けた。

 痛む場所に手を当てられたみたいに、呼吸が整っていったのを、覚えている。


「だから――もし奇跡が起きて、いつか、先輩がわたしを選んでくれたら」


 その“いつか”の形を、まるで彼女の声がやさしく縁取るようだった。

 逃げ場でも、脅しでもない、未来の場所が、そっと差し出された。


「その日、わたしは世界でいちばん幸せなお嫁さんになります」




 ――人差し指が、羽のように降りた。


「……なんて」


 言ってから、瞳がかすかに伏せられた。


「重い、ですね。ごめんなさい。先輩の前だと、うまく抑えられなくて」

「いいんだ。……ぼくも、それを望む」


 はっと見上げた彼女。

 その直後、蕾が開くみたいに、満面の笑みが咲いた。

 ぼくの心音が、跳ねた。

 でも、笑みは長くは続かず、いつもの大人びた真顔に戻った。


「……返事は、あとでください」


 彼女の手が頬をさらう。

 そして、唇に触れた温度が、答えをそっと保留にする。

 お互いの唇に、静かな封印を押した。


「そのときまで、待っています」


 離れて、少ししてから。

 彼女は、耐えきれないようにぼくへ駆けて、胸に埋まった。

 押し殺した熱がほどけるように、二度、三度――嗚咽が胸に伝って、体温が混じった。


「……待ちますから。……今だけは、こうさせて……っ」


 肩が細かく震えていた。

 濡れた吐息が胸元に落ちた。

 ぼくの背中越しに、制服の裾をつまむ指が、ぎゅっと強くなるのがわかった。

 泣かないように噛みしめた、下唇の跡が、近すぎる距離で、ちらりと見えた。

 苦しさをのみ込むように、彼女は小さく頷いて、また、ぼくのための顔に戻った。


「先輩がぜんぶにけじめをつけたら、わたしがもう一度、告白します」


 遠くで、部活動の掛け声が途切れ途切れに響いていた。

 ぼくらが、どれほどそうしていたのか、わからない。




 ……昨日、今日の、信じられない出来事。

 手紙と小箱を、ベッドの縁に置いた。


 ぼくはまだ、きみの告白を受けることはできない。

 結衣に渡すはずだった婚約指輪を、結衣とその家族の前で、正式に破棄するまでは。





 深夜。就寝中の、静寂を破って。

 ――スマートフォンが、枕元で短く震えた。

 白々しく光る通知は、結衣から。


 地獄の扉が開く。そう予感した。吐き気がした。

 廊下で目を塞いでくれた、温かな指の感触が蘇る。

『見ないでいいものは、見なくていいですよ』という、優しい声も。

 けど、指が動く。

 呪われた光をタップする。


 画面に映し出されたのは、薄暗い洞穴。

 ノイズ混じりのスピーカーから、瑞々しい果実を叩き潰すような、粘質な水音。

 あの時、ドアの隙間から聞こえてきたのと同じ音。


 薄闇の中、汗でぬらぬらと光る。

 汚らわしい腕が、ミルクのように白い肌を鷲掴みにして、その指の間に肉がむにゅりと食い込む。

 浮き上がる肩甲骨の鋭い稜線。

 そこから腰へと続く、陶器のように滑らかな曲線。

 大量の汗が背骨の窪みを伝って。

 快感に耐えるように、ぎゅっと握りしめられた、結衣の拳。

 すべてが、あの時の影絵の、残酷な答え合わせ。

 旧用務室。

 ――やめろ。見たくない。

 月乃さんがくれた、あの清らかな封印の約束を、こんなもので汚したくない。

 思考が叫ぶ。でも、身体は言うことを聞かない。

 あの時と同じ。腹の底に、どうしようもない、どす黒い熱が灯っていく。


 不意に、結衣がゆっくりと首だけを捻じ曲げ、カメラに――画面越しのぼくに、視線を合わせた。

 その瞳は、もはや快感だけの色ではなかった。

 愉悦に歪み、どろりとした蔑みと、残酷なまでの支配欲を湛えている。


 ――見てるんでしょ?


 唇の動きだけで、彼女はそう告げた。

 そして、これまでで最もいやらしく、粘りつくような悪魔の笑みを浮かべる。


 ――アンタが、私のこと考えながら、シコってるの、わかってるよ。



 スピーカーを裂くように響き渡る絶叫。



 すべて終わった結衣は、ゆっくりと顔をカメラに戻す。

 その顔に浮かんでいたのは、蕩けきった雌の笑み。それでいて、冷たい光を瞳に宿す。


『あはっ……見てる? アンタとの思い出、こうやって全部上書きしてあげてるよ……っ』


 そんな姿になってまで、勝利に固執する、醜い姿。


『アンタを救ってくれた、あのお姫様のキスごと、こうやって全部、ぐちゃぐちゃに上書きしてあげてるんだよ……っ』




 動画は終わった。

 震える手で、スマートフォンを放る。

 最後の希望にすがるように、手紙を掴んだ。

 紙から漂う、甘い、月乃さんの香り。

 その匂いを、狂ったように、肺のすべてを満たすように、深く、深く吸い込んだ。


 泣きながら手紙を開くと、そこには丁寧な文字で、一行だけ。


 ――どんな暗闇でも、わたしが標になりますから。

 それを見た瞬間、彼女の言葉が、脳裏で再生される。


 記されていたのは、電話番号だった。

 ベッドの上の光に、手を伸ばした。

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