3-1
◆
夜。自分の部屋。
信じられない、と思いながら、ベッドに仰向けになる。
手に持った小箱と、一通の手紙を見つめながら、今日のことを思い返す。
第二校舎の廊下。明暗が連続する薄暗がりの中。
告白を受けて――。
喉まで出かかった言葉を、彼女の指が止めた。
「いいんです、先輩。今、無理に答えなくて」
人差し指が唇に触れたまま、彼女は半歩だけ位置を変えた。
体の角度で、長い廊下を遮った。ローファーが床を鳴らした気配――それでも焦点は、彼女だけに合ったまま。
夜を湛えた、真っ直ぐな瞳から、目が離せなかった。
「わたしが惚れたのは、約束を曲げない先輩ですから」
喉の奥に引っかかっていた言い訳が、ゆっくり溶けた。
痛む場所に手を当てられたみたいに、呼吸が整っていったのを、覚えている。
「だから――もし奇跡が起きて、いつか、先輩がわたしを選んでくれたら」
その“いつか”の形を、まるで彼女の声がやさしく縁取るようだった。
逃げ場でも、脅しでもない、未来の場所が、そっと差し出された。
「その日、わたしは世界でいちばん幸せなお嫁さんになります」
――人差し指が、羽のように降りた。
「……なんて」
言ってから、瞳がかすかに伏せられた。
「重い、ですね。ごめんなさい。先輩の前だと、うまく抑えられなくて」
「いいんだ。……ぼくも、それを望む」
はっと見上げた彼女。
その直後、蕾が開くみたいに、満面の笑みが咲いた。
ぼくの心音が、跳ねた。
でも、笑みは長くは続かず、いつもの大人びた真顔に戻った。
「……返事は、あとでください」
彼女の手が頬をさらう。
そして、唇に触れた温度が、答えをそっと保留にする。
お互いの唇に、静かな封印を押した。
「そのときまで、待っています」
離れて、少ししてから。
彼女は、耐えきれないようにぼくへ駆けて、胸に埋まった。
押し殺した熱がほどけるように、二度、三度――嗚咽が胸に伝って、体温が混じった。
「……待ちますから。……今だけは、こうさせて……っ」
肩が細かく震えていた。
濡れた吐息が胸元に落ちた。
ぼくの背中越しに、制服の裾をつまむ指が、ぎゅっと強くなるのがわかった。
泣かないように噛みしめた、下唇の跡が、近すぎる距離で、ちらりと見えた。
苦しさをのみ込むように、彼女は小さく頷いて、また、ぼくのための顔に戻った。
「先輩がぜんぶにけじめをつけたら、わたしがもう一度、告白します」
遠くで、部活動の掛け声が途切れ途切れに響いていた。
ぼくらが、どれほどそうしていたのか、わからない。
……昨日、今日の、信じられない出来事。
手紙と小箱を、ベッドの縁に置いた。
ぼくはまだ、きみの告白を受けることはできない。
結衣に渡すはずだった婚約指輪を、結衣とその家族の前で、正式に破棄するまでは。
◆
深夜。就寝中の、静寂を破って。
――スマートフォンが、枕元で短く震えた。
白々しく光る通知は、結衣から。
地獄の扉が開く。そう予感した。吐き気がした。
廊下で目を塞いでくれた、温かな指の感触が蘇る。
『見ないでいいものは、見なくていいですよ』という、優しい声も。
けど、指が動く。
呪われた光をタップする。
画面に映し出されたのは、薄暗い洞穴。
ノイズ混じりのスピーカーから、瑞々しい果実を叩き潰すような、粘質な水音。
あの時、ドアの隙間から聞こえてきたのと同じ音。
薄闇の中、汗でぬらぬらと光る。
汚らわしい腕が、ミルクのように白い肌を鷲掴みにして、その指の間に肉がむにゅりと食い込む。
浮き上がる肩甲骨の鋭い稜線。
そこから腰へと続く、陶器のように滑らかな曲線。
大量の汗が背骨の窪みを伝って。
快感に耐えるように、ぎゅっと握りしめられた、結衣の拳。
すべてが、あの時の影絵の、残酷な答え合わせ。
旧用務室。
――やめろ。見たくない。
月乃さんがくれた、あの清らかな封印の約束を、こんなもので汚したくない。
思考が叫ぶ。でも、身体は言うことを聞かない。
あの時と同じ。腹の底に、どうしようもない、どす黒い熱が灯っていく。
不意に、結衣がゆっくりと首だけを捻じ曲げ、カメラに――画面越しのぼくに、視線を合わせた。
その瞳は、もはや快感だけの色ではなかった。
愉悦に歪み、どろりとした蔑みと、残酷なまでの支配欲を湛えている。
――見てるんでしょ?
唇の動きだけで、彼女はそう告げた。
そして、これまでで最もいやらしく、粘りつくような悪魔の笑みを浮かべる。
――アンタが、私のこと考えながら、シコってるの、わかってるよ。
スピーカーを裂くように響き渡る絶叫。
すべて終わった結衣は、ゆっくりと顔をカメラに戻す。
その顔に浮かんでいたのは、蕩けきった雌の笑み。それでいて、冷たい光を瞳に宿す。
『あはっ……見てる? アンタとの思い出、こうやって全部上書きしてあげてるよ……っ』
そんな姿になってまで、勝利に固執する、醜い姿。
『アンタを救ってくれた、あのお姫様のキスごと、こうやって全部、ぐちゃぐちゃに上書きしてあげてるんだよ……っ』
動画は終わった。
震える手で、スマートフォンを放る。
最後の希望にすがるように、手紙を掴んだ。
紙から漂う、甘い、月乃さんの香り。
その匂いを、狂ったように、肺のすべてを満たすように、深く、深く吸い込んだ。
泣きながら手紙を開くと、そこには丁寧な文字で、一行だけ。
――どんな暗闇でも、わたしが標になりますから。
それを見た瞬間、彼女の言葉が、脳裏で再生される。
記されていたのは、電話番号だった。
ベッドの上の光に、手を伸ばした。
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