3-2


 半年前のこと。

 二世帯住宅を「今のうちに決めなきゃ」と言い出したのは、結衣の母親だ。


 当時のモデルルームのテーブルで、見積書の角が白く立っていた。

 結衣の母親は、ローンのシミュレーション表を指でなぞりながら、結衣にだけ語りかけた。


「ねえ結衣、キッチンは広いほうがいいわよ。女の子の城なんだから。毎日ちゃんとごはん作らないと」

「……うん」

「玄関は一つでいいの。出入りは把握できたほうが安心。リビングはここ、顔が見える位置じゃないと。それとね――」


 営業担当が愛想笑いを浮かべていた。

 カタログの厚紙が、ぱさりと乾いた音を立てた。


「子どもが大きくなったら、友だち選びも世間体ってものがあるから。変な子は入れないでね」


 笑顔のまま、次々と“提案”という名の杭を打ち込んでいった。

 うちの母親が「収納はもう少し……」と口を挟むと、結衣の母親は一瞬、値踏みするような視線を向けて、すぐに人好きのする笑みに戻った。


「大丈夫ですよ、お義母さん。余計なものは、結衣には持たせませんから」


 書面の数字は、何度も見た。

 父が一度だけ咳払いをして、営業と目を合わせ、次にぼくの目を見た。

 その瞳が「お前が決めろ」と言っていた。


 ――出すのは、うち。返すのは、ぼく。

 土地の所有権と、建物の名義は、向こう。


「土地から先に決めましょう。今は“本契約”じゃありませんから」


 営業は軽く言った。契約が取れれば、あとはどうでもいいという顔だった。


 ペン軸が汗で回った。紙の目が、一本ずつ逆立った。

 隣に座る結衣は、母親の前でだけ見せる、しおらしい猫のような顔をしていた。





 深夜だというのに、コール音が二つ鳴るよりも早く、彼女は電話に出た。


『はい、月乃です。先輩ですか?』


 凛として、それでいて、全てを見透かすような、優しい声。


「……よくわかったね」

『待っていましたから』


 喉の奥がひりつく。言葉にならない、嗚咽のような息だけがこぼれた。


『先輩、どうしましたか?』

「……ごめん、こんな時間に」

『いいんです。……何か、ひどいことがあったんですね。息が、まるで溺れてる人みたいですから』


 脳が灼けている。思考が定まらない。結衣の絶頂の顔と、月乃さんの清らかな歌声が、頭の中で混ざり合って、黒い渦を巻く。


『ユイさんのこと、悔しいんですね。……とても、悲しいんですね』

「……」


 なぜ、わかる?


『先輩の中にある、行き場のない気持ち。腐って膿んでしまう前に、誰かにぶつけないと』


 彼女は、その渦の中心を、正確に見抜いているのだろうか。


「思い切り、ぶつけたくなったこと、ありませんか?」


 こくり、と頷くことしかできない。

 ぶつけたい。この行き場のない怒りも、悲しみも、惨めさも。

 でも、誰に? 結衣に? できるはずがない。

 電話の向こうから――聖母の声で、悪魔の誘い。


『わたしに、ぶつけてください』


 耳元で囁かれたような錯覚。

 スマホを持つ手に、汗が滲む。

 あるはずのない吐息が、体温が、鼓膜の内側を震わせる。


『あのひとに向けたかったはずの憎しみも、やるせなさも、ぜんぶ。先輩のその黒い感情、わたしが受け止めます。めちゃくちゃにしていいんですよ? ……あふれて壊れてしまう前に、預けてください』


 音が崩落する。


『わたしを、ユイだと思って』


 ――きみは、何者?


 ぼくのこの指は、もう優しい撫で方を知らない。結衣への憎しみを握り締める形に固まっている。

 ぼくのこの唇は、愛を囁く言葉を忘れた。屈辱に震わせることしかできない。

 そんな身体で、どうしてきみに触れられる?

 きみの清らかな肌に、この歪んだ熱を刻みつけてしまう。きみの歌声に、汚れた喘ぎを重ねてしまう。

 嫌だ、という意思とは裏腹に。

 彼女のそれに、応えるように。

 腹の底から、暗い熱がせり上がってくる。屈辱と、怒りと、そして抗いがたい欲望が混ざり合った、醜い熱。


『恋人とか、大事とか、そういう綺麗なものじゃなくていいんです。ただの、はけ口にしてください』


 これは、救済の言葉? 

 抗いがたい、悪魔の囁き?


「……それが、壊すほどでも?」

『壊してください。そして、わたしユイの亡骸で果ててください』


 楽になりたい。

 この苦しみから、一秒でも早く。


「……できない……っ」


 口から、錆びた鉄の味がした。

 この甘い毒に身を委ねてしまえば、ぼくはもう二度と、自分の足で立てなくなる。


「……きみには、で、き、ない……! 結衣と同じことなんて、きみにだけは……、絶対に……っ」


 泣きながら、脳が焼き切れそうになりながら、叫ぶ。

 たとえ、守るための拒絶が、刃になって自分の口内を裂いたとしても。

 きみだけは、汚したくない。

 こんな、醜いぼくのために。


 結衣を救えなかった無力感。

 それでもなお結衣を好きでいた自分への嫌悪。

 ぼくの、興奮の閾値。

 快のスイッチは、結衣からの傷痕、その条件で降りるようになってきた。

 優しさでは針が振れない。赦しでは、足りない。


 そんなぼくが、近づくことで。

 月乃まひるという聖女を汚してしまうことへの恐怖。

 その聖女に救いを求める、醜い欲望。


「ぼくは……」


 スマホの向こうの沈黙は、ただの無音じゃない。ぼくを告発する罰みたいに、重く、白い。


「……手遅れなんだ。……傷つけられないと、喜べなくなってしまった。きみの優しさは、痛いんだ」


 結衣という条件でしかスイッチは落ちない。


「ぼくはもう、ダメみたいだ」





 

『――なら、ずっと、わたしをユイだと思って、傷ついて、興奮すればいいんです』

 

 え?

 声にならない音が、喉から漏れた。

 思考が凍りつく。電話の向こうから聞こえてきた言葉の意味を、脳が理解することを拒絶した。

 今まで頭に響いていた結衣の嬌声も、黒い渦も、すべてが一瞬で吹き飛ぶ。ここにはただ、静かで、冷たくて、底なしの甘さを含んだ、共犯者婚約者の声だけが残った。


『それなら、あなたの隣にいるのは、あのひとじゃなくて。ずっとわたしでしょう?』


 聖母の仮面の下から、見たことのない顔が覗いている。


『堕ちて、救われるなら。いっしょに堕ちましょう。――今夜だけじゃなくて』





 ぼくは勝手に、彼女を守る役を名乗り出た。

 彼女も、彼女の親も、その親族も――全部、受け止めるつもりだった。


 紙に走ったペンの音。営業の媚び笑い。結衣の母親の「よかったわねえ」という甲高い声。

 隣の結衣が一瞬だけこちらを見て、すぐ視線をテーブルの木目へ落とす。その仕草だけで、胸のどこかが、からりと乾いた。

 あの母親が満足する家さえあれば、結衣へのあたりも和らぐかもしれない。当時のぼくは、本気でそう信じていたんだ。




 通話が終わった。

 ぼくの部屋。

 白い紙に打ち込まれた“杭”の並びを、ぼくはもう一度、確認しなければならない気がした。名義。所有。監視。あの家の間取りは、心の配線図だ。

 ベッドから出て、机の引き出しを開ける。

 残していた控え。土地の購入申込書と、建築の計画書。

 法的な拘束力はない、ただの夢の残骸。


 あの時、営業は笑っていた。「仮契約ですから」と。

 あの時、父さんは目で問いかけた。「お前が決めろ」と。

 あの時、結衣は母親の隣で、猫のように小さくなっていた。

 ぼくは、ペンを握った。サインをした。

 親の合意欄が設けられているのに、空白の、契約書に。

 親の合意がない未成年者の契約は、取り消しができる。民法第5条の記述にマーカーが引かれた契約書。


 指輪の箱を、静かにゴミ箱へ放った。

 もう、彼女を守る役目は、ぼくじゃない。









(あとがき)

大変お待たせしました。

次回からは、結衣の奈落行きが始まります。

肉親を巻き込んで、どこまでも。

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