2-3
◆
蛍光灯が一本おきに死んでいて、明暗が刃物の目みたいに並ぶ。
暗幕が降りた、第二校舎の廊下。
脈が乱れて、肋のあいだを叩く。盾にもならない教科書を握り締めたまま、同じ場所を何度も往復する。
涙が途切れない。
歩き疲れて壁に肩を預けると、吐息が跳ね返って頬に貼りつき、自分の熱だけがみじめに残った。
どのくらい経過しただろうか。
足は当てもなく進み、離れにある旧用務員室の前へ。
扉が指一本分だけ開いていた。
向こう側で衣擦れが聞こえる。荒い呼吸。刃のように冷たい喘ぎ。耳を塞ぎたくなる、淫らな水音。
――嬌声。
足が止まる。
「……ぷはっ。呼び出された意味、まだ分かんない?」
くちゅり、と再び、粘膜が吸い付く音がした。
それを合図に、何度も、何度も、執拗に肉が肉を吸う音が繰り返される。
痛みに悶えるような、男の声が漏れた。
「ねえ、仕事して? ……口、開けろ」
息を飲む、わずかな躊躇。それを許さないとばかりに、舌打ちが冷たく響いた。
ごぷり、と何かを嚥下させられる音。
抵抗を許さない一方的な口付け。
「……っは……。あーしの……、ぜんぶ……、の……め……っ」
粘液が掻き回され、気泡が潰れる、鈍く湿ったおぞましい音。
音だけでわかる。彼の舌の根を無理矢理押さえつけ、喉の奥深く、気道の入り口まで、彼女の舌がねじ込まれていくのが。
空気を求めてもがく、非捕食者の喉が、くぐもった獣の断末魔のように鳴った。
「……ぷはぁっ。……ふふ、血の味。その顔、最高」
最後に、ちゅぷ、と粘着質な音を立てて、唇が離れる生々しさ。
「わかった? これが合図。私がキスを求めたら、こうやってめちゃくちゃにされるってこと。……ほんと、あんたは下手くそ」
信じたくない。
――結衣の、声だ。
「……急に呼び出して、これかよ」
低い男の声。
一度しか聞いたことがないけれど、金髪の顔の輪郭が浮かぶ。
「はあ? 文句あんの。……まだこんなもんじゃないでしょ?」
「今日は何回されたいんだよ、結衣」
「調子乗るな。私が殺して、私が生かしてあげてるの。でも……、ムカつくことが、あったから――めちゃくちゃにして?」
彼女の舌足らずな囁きが、廊下の空気を切り刻むように、鋭利に響く。
「それで、あんたはどうしたい?」
「……舐めて、拭き取れ」
くすりと笑う気配。そして。
「頭、掴んで? あんたの味、もっと寄越せ」
息を殺し、扉の隙間から覗く。
獣の巣穴。薄闇に、一つになった影。椅子にもたれる肩と、膝を折る輪郭。
やがて影が離れて二つになった。彼女は口元を指で押さえ、啜り、嚥下する。
唇の端から零れたそれを、犬のように舌でぺろり、と拭う。
「……んんっ。まっず」
脱力した男の息だけが、虚ろに残る。
「私、まだなんだけど」
結衣は再び距離を詰める。
ねっとりと濡れた舌が這う。生々しい水音。絶望的なほど、丁寧に舐め上げていく。
くちゅ、くちゅ、と粘膜を吸う音が、正確なリズムを刻み始めた。
「はい、ガチガチ。私が息できなくなるまで、あんたも続けるの。いい?」
イライラした吐息が一つ。
男の二度目を誘う水音が、無慈悲に、また一から始まった。
(やめて)
涙が流れているのに、身体の芯は、どうしようもなく昂ぶる。
(そんな姿、やめてくれ)
最低だ。
自ら進んで底へ沈んでいく結衣にも、それに反応してしまう自分の身体にも、吐き気がした。
それでも、熱は、引かない。
「……ぷは。三回目でも勢い落ちないね。やっぱ幼馴染とは別物~」
「うわ、お前、それヤバ」
「ねえ、勝ち誇ってみせて?」
「は?」
「“私はもう、あんたの持ち物”って宣言して」
「……聞こえてるか? 幼馴染くん。こういうのは“扱い”を知ってる方が勝つんだよ」
「きゃは~最高っ。脳に直でくるわ」
喉も、眼球も、たちまち乾く。
耳鳴り。ぐにゃりと世界が歪む。
嫉妬か、恐怖か、名前のない熱だけが確かで、強烈な吐き気はその縁をなぞる。
胸の奥が許せない快感でのたうち、足は床に縫い止められたみたいに、動かない。
「いい子ごっこ、終了。最低な私、好きでしょ?」
「……ああ、最高だ。お前みたいな性悪女に、ぐちゃぐちゃにされるのが、一番気持ちいい……っ」
「あんただけじゃなくて、私も最低で満たして」
その言葉が、引き金だった。
熱を持つ、自分のズボンの膨らみに手を伸ばして。
かたん、と床に落ちた。……教科書だ。
「……何?」
息を飲む気配。男の低い舌打ち。
視界が狭まる。
ぼくは、踵を返した。
逃げても、頭の内側で残酷な再生が止まらない。
呼吸が合わない。鼓動が先走る。――認めたくない。こんな状況で昂ぶっている自分なんて。
脳裏に焼き付いた獣の影。耳の奥にこびりつく湿った水音。
肺が酸素を拒むように痙攣し、心臓が肋骨の下で暴れ狂う。
(こんな興奮なんか、いらない)
おぞましい音を掻き消そうともがいて、耳を塞ぐ。
(助けてくれ、消えてくれ!)
――そのとき、歌声を思い出した。
雨の日の、旧図書室。
金色と影に沈む棚のあいだから溢れた、赦しみたいな旋律。
《……何かあったら、必ず呼んでくださいね》
月の色を溶かしたみたいな銀の髪が、夕光をほどき、頬に触れていた。
歌が止んでも、空気は歌い続けた。錆びついた心の蝶番がゆっくり動いて、扉が内側から開いた。
その感覚は、今も同じ。絶望の底で火を点す。
まっすぐな黒の瞳は、逃げ場じゃなく、帰る場所に思えた。
「――月乃さん……っ」
喉から剥がれた声が、空に放たれる。
《どこにいたって、聞こえますから》
ふわりと鼻腔をくすぐる、女の子の甘さ。
一昨日と昨日、そして今朝も、ぼくを包んだ香り。
振り返った瞬間、柔らかい何かにぶつかった。
「……危ないですよ、共犯者さん。そんなに急いで、どこへ行くんですか?」
――蛍光灯の白が、銀の髪をすくう。
彼女の顔の、きめ細かな肌に、産毛が見えた。
重み、体温、呼吸。どれも、幻じゃない。昨日の手応えのまま。
彼女は肩で落下を止めた。片手で、ぼくの耳を優しく塞いだ。
「大丈夫。ここにいます。……一緒に、吸って。――吸って、止めて、吐いて」
密着する彼女の呼吸に合わせて、数える指が、ぼくの肩に触れる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
耳の奥で暴れていた音が、小さく、小さくほどけていく。
胸に抱いた彼女を見ると、澄んだ瞳が心配そうに、ぼくを覗き込んでいた。
その瞳に、泣きそうな自分の顔が映る。みっともない。情けない。
「見ないでいいものは、見なくていいですよ」
手のひらが額に触れて、温度が落ちる。
「あなたは、優しいから。だから今は――私だけ」
その手がすべって、ぼくの目を覆う。
「視覚を、消して」
安心が染み込む温度。気持ちいい。
体内に溜まっていた澱が、静かに降りていく。彼女の声だけが、世界の正しい音になった。
やがて目の温かさが消える。
「……ごめん」
「謝らないでください。……辛かったですね」
白磁の細い指が、頬に触れる。
そして――キス。
すっと視線が合って。額に、小さな口づけ。
背を伸ばした彼女の、黒曜石の瞳に、星明かりが静かに宿る。
頬へ、もう一度。そして唇に触れる。触れて離れ、また触れて――二度、三度。
四度目は、少し長く。呼吸が重なり、胸の痛みが、彼女の安堵に塗り替えられていく。
五度目は、もう、慰めなんかじゃない。
ためらいがちに舌が差し入れられる。こじ開けられた唇の隙間から、彼女の甘い息が流れ込んできて、逃げることもできず、ただ受け入れるしかない。
「ん……、ふ……ぅ……。んちゅ……、ちゅくっ……んぅ、好き、好き、好きぃ……っ」
ただ、ここにいる、と存在を刻みつけるような、必死なキス。
ぼくの舌に触れ、絡みつき、内側から隅々まで洗い清めていく。
「――十年、待ちまひた……っ」
触れた唇に、涙の塩味がまじる。
長い長いキスを終えて、ふっと息がこぼれた。
濡れたまつげの影。荒い息。
瞳が、ぼくだけを映していた。
「あなたが好きです、先輩。どんな暗闇でも、わたしが標になりますから。……わかりますか?」
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