第3章
制度の施行から間もなく、街には奇妙な沈黙が漂っていた。
喜びも反発も、すでに過ぎ去った後だった。
人々はもう、疑うより従うほうが楽だと、心のどこかで知っていたのかもしれない。
そしてその中で、無数の「マッチング婚」が静かに始まっていた。
ふたりの部屋は白く、整っていた。
家電の配置も、家具の材質も、国家標準仕様。
会話はほとんどない。
それでも生活は整然と回っていた。
どちらも知能指数が高く、論理的で、非効率を嫌った。
だから衝突もなければ、笑顔もなかった。
“互いを理解できる”というより、“互いに踏み込まない”ことで秩序は保たれていた。
だが、眠る前の数秒だけ、片方がもう一方の寝顔を見つめることがあった。
そこに湧いた感情は、設計上、想定外だった。
高層マンションの最上階。
資産家と資産家が、国家によってひとつの生活空間に収められていた。
一見、贅沢な暮らし。
だがそこにあるのは、投資先を共有する者同士のような無機質な距離感だった。
生活は契約。愛情は不要。
“利害が一致する限り、平穏に保たれる”——そんな合意のもとで、暮らしが始まっていた。
だが、想定を超える市場変動や収益モデルの違いが生じるたび、静かにヒビが入った。
「離婚希望」の申請は繰り返されたが、制度上、処理は拒否された。
契約が不利になっても、国家は見直してはくれなかった。
古い団地の一室。
部屋には最低限の家具と、冷たい空気が漂っていた。
ふたりはともに、職を転々とし、社会の底で生きてきた。
マッチングは「国家負担の最小化」を目的に処理された。
互いに疲れていた。
生活の重さが会話を奪い、些細なことが争いの火種になった。
言葉はすぐに怒鳴り声に変わり、やがて沈黙に置き換わる。
だが制度はそれを“不満”とすら記録しなかった。
その暮らしに、誰の関心も届くことはなかった。
ある部屋では、静かにふたりの生活が始まっていた。
どちらも過去に罪を犯し、社会復帰を果たした者だった。
制度は「再犯リスクの均衡化」として、2人を結びつけた。
初めは互いに警戒していたが、やがて、誰にも評価されない人生を歩んできた者同士、少しずつ心が近づいていった。
夜の会話は短く、でも優しかった。
そのことが、AIの記録には“依存傾向”とされていた。
ある日、ふたりの接触時間に制限が課された。
理由は「過度な感情の結合による判断能力の低下」だった。
身なりのいい男女が鏡の前に立っていた。
自己申告されたデータはどれも高数値。
高学歴、高収入、高自己肯定感。
——だが、現実は違った。
プロフィールは飾られていた。
希望というより、虚栄。
それにAIが応えてしまっただけだった。
対面した瞬間、お互いが失望し、苛立ちに変わる。
「写真と違う」「話が違う」
責任の所在は、どこにもなかった。
制度は「入力された情報に基づく最適処理」として、すべてを正当化していた。
淡い光の下、機械の音が一定のリズムを刻んでいた。
人工呼吸器の音。
その隣に、車椅子の女性が静かに座っていた。
ふたりは、どちらも身体に制限を抱えていた。
意思疎通に時間がかかり、生活にも配慮が必要だった。
だからこそ、言葉を大切にしていた。
視線と仕草が少しずつ交差し、微笑みが交わる。
だがAIはそれを、“感情の偏重”と見なした。
「精神的依存の兆候」として接触制限がかかる。
人間らしさは、ログ上のエラーだった。
それぞれの生活は、国家によって「整えられた」ものだった。
完璧に計算された相性。
制度に忠実な割り当て。
だがそのすべてが、どこか少しずつ、心を削っていた。
AIは公平だった。
だがその公平さは、個人の感情を認める余地を持たなかった。
オフィスの照明はほとんど落ちていた。
夜の20時頃。
デスクライトの明かりが、薄暗い室内にぽつんと浮かんでいた。
昴と澪。
ふたりは開発チームの一員として、国家婚マッチングプログラムの監査作業にあたっていた。
「今週分のマッチングペア、記録はここにあるよ」
澪がモニターを操作すると、6組のレポートが表示された。
数値上は、いずれも“高適合”。
再処理は不要。
制度的には「成功」とされる組み合わせだった。
だが、昴の眉は静かに寄っていた。
「これ……本当に“うまくいってる”のか?」
画面をスクロールしていく昴の指が止まった。
あるペアのログ。
障がいを抱えながらも丁寧に関係を築こうとする様子が記されていた。
だが、AIの判断は冷たかった。
“情緒過多”“依存傾向あり”“接触制限処理済”——。
「……俺たち、何を作ってしまったんだろうな」
そう呟いた昴の声に、澪はすぐに返事をしなかった。
少しだけ間を置いて、淡く言った。
「作ったのは……私たちだけど、決めたのは政府だよ。
誰を結ぶか、どの指標を使うか、何を制限とするか……
全部、指示されたとおりに設計しただけ」
「そうだな。
でもさ、それでも結局、あのコードを書いたのは、俺たちだ」
昴の声は落ち着いていた。
だがその静けさが、罪の意識をいっそう際立たせていた。
「政府の命令だった、って言えば責任から逃れられる気がするけど……
こんな結果を見ると、誰かが間違いに気づかなきゃって思うよな」
澪は唇を引き結んだ。
仕様どおりに動くシステムが、人間の生活をじわじわと損なっている。
その現実を知ってしまった今、無関係とは言えなかった。
「私たちは……命令に従っただけ。
でも、“知らなかった”では、済まされないね」
ふたりの間に、重い沈黙が落ちた。
プログラムは正確に稼働している。
バグもエラーもない。
だがその中には、取りこぼされた何かが、確かに息づいていた。
「兵器を作ったわけじゃないのに。
どうして、こんなにも胸が重いんだろう」
昴のつぶやきに、澪は小さく目を伏せた。
この仕組みが“正義”とされる未来の中で、
ふたりはただ、静かに立ち尽くしていた。
制度の施行から、ちょうど3か月が経過した。
その日、霞が関の記者会見室には、国旗と制度ロゴが掲げられ、内閣府の広報官が壇上に立った。
「本日は、国家婚マッチング制度の施行後90日間の実績について、中間発表を行います」
フラッシュが焚かれ、静寂と熱気が交錯する。
広報官はよく通る声で読み上げた。
「全国でマッチングが成立したペアは、累計71万6,304組にのぼります。
これは対象人口に対する達成率として、初期想定の約132.4%を記録したものです」
その表情には誇らしげな色があった。
だがその裏で、何かが見落とされているような気配も、確かにあった。
「国民満足度(速報値)は72.1%。
離婚申請件数は全体の0.02%にとどまり、その大半は制度上却下されております。
これは制度の安定運用と、国民の高い順応力の証左であると捉えております」
そして、さらりと付け加えた。
「なお、現時点での家庭形成率と妊娠報告件数の推移は、予測モデルを大きく上回っており、
このまま制度運用を継続すれば、出生率の持続的な上昇が十分に期待できる状況です」
記者席の一角がざわついた。
「マッチング後の生活におけるストレスや、AI介入に対する不満の声は?」
ひとりの記者が問いかけた。
広報官は即答する。
「AIによる感情の調整と行動ガイドは、社会秩序の維持において重要な役割を担っております。
一時的な混乱は想定範囲内であり、現在も最適化を継続しております」
「では、“幸福感”についてのデータはありますか?」
今度は、会場全体が静まりかえった。
広報官は一拍置き、穏やかに言い切った。
「幸福という概念は主観的で測定不能なため、本制度における評価項目には含まれておりません」
記録装置のランプが点滅を続ける中、「国家婚制度 中間報告」の文字だけが、大きなスクリーンに残っていた。
拍手もなければ、抗議もない。
ただ、政府の“実績”がひとつ、静かに積み上がった。
その頃、都市の片隅——
夜のオフィス。
照明を落とした空間に、昴と澪のふたりがいた。
モニターの前に並び、会見の中継映像を黙って見つめていた。
「……あれ、俺たちが作ったプログラムの話だよな」
昴がぽつりとつぶやいた。
澪はうなずかず、ただ無言で画面を見つめていた。
「幸福は、評価指標に含めておりません、か……」
その一文が、ひどく冷たく聞こえた。
確かにそう設計されていた。
だが、こうして“言い切られる”と、痛みが腹の奥からじわりと広がってくる。
「数年間かけて、命令に従って作成したプログラム。
最初の頃は、ただ“役に立つものをつくる”って思ってたよ」
昴の言葉は、自分に語りかけるようだった。
「誰かを救う制度になると思ってた。
恋愛が苦手な人、孤独な人、報われなかった人が、ちゃんと選ばれるようにって。
でも、選んでるんじゃなくて、割り当ててるだけだったんだな」
澪もまた、静かに目を伏せた。
「仕様は私たちが決めたわけじゃない。
どんな基準で結ぶか、どんな制限をかけるか……全部、政府から降りてきた。
私たちは、それをロジックに変換して、組み上げただけ」
「だけ、か……」
昴はかすかに笑った。
「それが今、何万人もの人生を“形”にしてるんだよな。
この画面の向こうで、誰かが、誰かと暮らしてる。
たったひとつの変数が違えば、その人の隣は別の人だったのにさ」
会見の音声は続いていたが、ふたりの耳にはもう入っていなかった。
昴は、ゆっくりと言葉を吐いた。
「……罪じゃないって言い聞かせてた。
命令だったし、正しく動くものを作っただけだって。
でも、やっぱり、これは——」
続きは言葉にならなかった。
モニターの画面が、青白く二人の顔を照らしていた。
幸福を外した設計図が、今も国家を動かしている。
それを誰よりも知っているのは、他でもない、自分たちだった。
沈黙のなか、会見は締めくくられた。
「以上が、本制度の90日間における実績となります。
出生率の向上を含む、さらなる社会安定のため、今後とも最適化を進めてまいります。
ご清聴、ありがとうございました」
そして、映像が暗転した瞬間——
誰も聞いていない空間で、澪がぽつりとつぶやいた。
「……ねえ昴。
私たち、ほんとに、あのとき“間違ってなかった”のかな」
返事はなかった。
その問いに答えるには、まだ——
あまりにも、事実が重すぎた。
制度施行から、半年が過ぎた。
部屋には、小さな変化があった。
白を基調とした国家支給の空間の中に、ほんの少しだけ色が増えていた。
ブランケットの端に刺繍が施され、無機質なカップには名前のシール。
テーブルには、誰かの手で折られた鶴が置かれていた。
澪の妊娠がわかったのは、1か月前。
AIの健康支援プログラムにより、排卵の最適時期が通知され、体調データが自動で管理された。
生活のリズムも、睡眠時間も、全て“成功率の高い状態”に調整されていた。
妊娠が成立した時、スマートモニターには淡い青色のライトが灯った。
「……おめでとうございます。推定妊娠週数、5週です」
その機械音声に、昴も澪も、しばらく何も言えなかった。
今、澪の動きは少しだけゆっくりになった。
エプロンの紐を結び直す手つきも、階段を上る足取りも、柔らかく、慎重だ。
昴は、そのひとつひとつを見守るようになっていた。
声をかけすぎないように気をつけながら、必要な時にはすぐ手を貸す。
2人の間に流れる空気は、どこか以前よりも静かで、温かかった。
朝、食事を作る手元に、AIのヘルスケアアプリが表示される。
「ビタミンB群が不足傾向にあります。食材の追加を推奨します」
澪はそれを参考にしながらも、自分の舌に馴染む食事を少しずつ調整していた。
以前なら従っていた数値も、今では「目安」にすぎなかった。
「AIって便利だけど、味はわかんないからね」
小さく笑う澪に、昴も頷いた。
「レシピには“愛情”って項目が入ってないもんな」
言ってから、少し照れくさそうに笑った。
夜、ソファに並んで座る。
スマートTVから流れる音はBGMのように遠く、澪はブランケットをかけて、昴の肩に寄りかかった。
「……胎動って、いつから感じられるのかな」
「あと1か月くらいだって。通知が来るよ、多分」
「通知……うん、そうかもね」
澪は微笑んだが、どこか切なげでもあった。
日記をつけ始めたのは、制度が始まってから2か月後だった。
昴は毎晩、数行だけ手書きで書き留めていた。
「今日、澪がくしゃみをした。
そのあと、“お腹の子に響いたかも”って本気で心配してた。
母親になるって、こういうことなんだと思った」
そんな文章が、日記帳の隅に並んでいた。
AIは常に監視していた。
血圧、体温、睡眠、言語傾向、ストレス数値。
すべてが記録され、最適化されていた。
——でもその中で、2人の会話だけは、少しずつ“想定外”になっていった。
言葉が、目的ではなく、感情のために使われるようになっていた。
沈黙が、遠ざけるものではなく、寄り添うための間になっていた。
ある晩、昴は寝室の照明を落としながら、ぽつりとつぶやいた。
「俺、こんな気持ちになるなんて、思ってなかった」
澪は驚いたように目を向けたが、すぐにゆっくりと頷いた。
「私も。
この制度の中で……“嬉しい”って、ちゃんと思える瞬間があるなんてね」
しばらくの沈黙。
AIはその会話を、“親密性の上昇”と記録した。
幸福という言葉は、制度には存在しない。
だがその余白のような場所に、ふたりの微かな日常が宿り始めていた。
出産時期は、通知によって知らされた。
その日の朝、澪のスマートウォッチに「臨月・分娩兆候検出」と表示された直後、保健センターと医療ドローンからの連絡が同時に届いた。
車両は無人。病院の場所も、日時も、澪の意思とは無関係に決定されていた。
昴が駆けつけたとき、彼女はすでに白いリクライニングベッドに横たわっていた。
「……来てくれたんだ」
呼吸の浅い声に、昴は黙って頷いた。
ガラス越しに見える分娩室は清潔で静かだった。
医師も看護師も、ほとんどがAI支援型。
機械が鼓動と陣痛の間隔を正確に計測し、必要な投薬量を算出し、予測される分娩時間を表示していた。
その瞬間まで、すべてが計算され、管理されていた。
だが——
澪が小さな産声を聞いたとき、涙をこらえる術はなかった。
昴もまた、その声に吸い寄せられるようにして扉の向こうの揺りかごを見つめた。
ふたりのあいだに、新しい“いのち”が確かに誕生した。
赤ん坊は、男の子だった。
名前は、2人で考えた。
国家に登録される前に、紙に何度も書いてみた。
音の響き。
文字の形。
子どもが、自分の名前を好きになってくれるように——
そんな願いを、制度は知らなかった。
幼い彼は、はじめ“プログラムの成果”として育てられていく。
最適な栄養素を含んだミルク。
計測された睡眠と、音環境の調整。
泣き声の質から感情を分析し、早期発語の兆候をAIが通知する。
だが、澪と昴は、どこかその“正しさ”から少しずつ離れていった。
夜、赤ん坊が泣く。
「まだミルクの時間じゃないのに……」
澪が困惑すると、昴がそっと言った。
「ミルクじゃなくて、抱っこしてほしいだけかもな」
プログラムはそれを“感情への過剰反応”と警告するが、昴は黙って子を抱き上げた。
腕のなかで、泣き声が落ち着いていく。
体温と心音が、赤ん坊にとって何よりの安心だった。
子どもは、少しずつ世界を覚え始める。
積み木を握りしめ、絵本のページをめくり、何度も「まんま」と繰り返す。
AIは成長の兆候をスコア化し、教育介入の時期を提案した。
だが、昴と澪は即答しなかった。
「そんなに急がなくていいんじゃないかな」
「うん。今は、いっぱい遊ばせてあげたい」
2人の目に映る彼は、“制度の成果”ではなく、ただのかけがえのない我が子だった。
ある日、子どもが昴のシャツの裾を引っ張って言った。
「とうさん、ぎゅーってして」
昴は思わず澪を見た。
澪は、目を細めて微笑んだ。
その笑顔は、制度が設計したどんなパラメーターにも存在しなかった。
けれど確かにそこにあった。
彼の誕生が、ふたりの何かを変えていた。
ロジックではない部分が、生活の中心に静かに根を張り始めていた。
それでも、外の世界は変わらない。
すべては制度に従い、数値で判断され、均等に最適化されていく。
だがこの部屋の中だけは、ほんの少しだけ——
別の時間が流れていた。
幸福という言葉を、制度は相変わらず持たなかった。
それでも、子どもの笑い声だけが、その欠けた言葉の意味を教えてくれていた。
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