第4章

午後の教室は静まり返っていた。

国語の授業中、前の席の女子がタブレットの画面をこっそりのぞき込んでいた。

「適応プログラム」の通知が表示されている。

《あなたのランク:B− 今週の協調指数:72%》

碧翔は自分の端末を開く気になれず、そっと視線を外した。

廊下の外に見える空は晴れているはずなのに、どこか色を失って見えた。

放課後、下駄箱前で同級生たちが笑いながら話していた。

「Dランクの子と話すと、AIが“適応低下”って出すんだって」

「まじか。じゃあ、あの子もうアウトじゃん。再教育、確定?」

その言葉に誰も驚かず、笑いも止まらなかった。

担任の先生が近くを通っても、注意する様子はない。


昼休み。中学の渡り廊下を澄花は一人で歩いていた。

友達と過ごすのが嫌なわけじゃない。ただ、最近はひとりになりたくなる時間が増えていた。

今朝のHRで配られたプリントが、まだ鞄の中にある。

『あなたが望む未来のパートナー像を自由に記述してください』

『どのような努力を通じて“選ばれる”人間を目指しますか?』

その問いに“自由”など存在しないと、澄花は感じていた。

教室に戻ると、女子数人がAIの顔認証アプリで誰かの感情スコアを見ていた。

「ねえ、澄花って無表情すぎてAIに嫌われそうだよね。感情指数、前に“低すぎ”って出てたし」

「……うるさい」

澄花はプリントを机の中でくしゃりと握りつぶした。

女子たちは一瞬驚いたが、すぐに話題を変えて笑い始めた。

その笑いもまた、どこかAIに評価されるためのパフォーマンスのように見えた。


小学校の図工の時間、星良は紙粘土で花を作っていた。

隣の席の子が突然、顔を伏せて泣き出した。

「ごめんなさい……わたし、上手にできない……」

星良はそっとその子の手を握った。

「大丈夫。ゆっくりやればいいよ。私、ずっと隣にいるから」

授業が終わると、担任の先生に呼び止められた。

「星良さん、AIログで“感情同調反応”が記録されていました。

あなたの共感性は少し高すぎるかもしれません。

今後、調整指導の対象になるかもしれませんが……気にせず、笑顔を忘れずにね」

先生は柔らかく微笑んでいた。

その優しさが、かえって胸にひっかかった。


その夜、湊家のリビング。

夕食を終えたあと、子どもたちは並んでソファに座っていた。

会話は少なく、誰もテレビをつけようともしなかった。

「ねえ、お母さん……」

星良が口を開いた。

「今日、先生に“泣いた理由をAIに説明しなさい”って言われたの」

澪が顔を上げる。

「……あなた、泣いたの?」

「泣いてないよ。でもAIが、“涙反応の兆候あり”って記録したんだって」

星良はクッションを抱えたまま、言葉を継いだ。

「図工の時間、隣の子が泣き出しちゃって……わたし、その子の手を握って励ましたの。

そしたら、“感情同調による非適応傾向の可能性”って言われたの。

呼吸とか顔の動きとかで判断されたんだって」

「自然に誰かを励ましただけなのに、“説明しなさい”って言われて……

なんか、すごく変だなって思ったの」

「俺のクラスでも、適応スコアの話が毎日出てる。

“C以下は話すな”“Dはもう終わり”……そういう空気がある。

“再教育施設”って言葉も、最近は冗談じゃなくなってきてる」

碧翔がつぶやいた。

「今日、“選ばれるために努力してますか”って聞かれたの。

私は“自分で選びたい”って思ってただけなのに、“やる気が足りない”って言われた」

澄花の手には、ぐしゃぐしゃになったプリントが握られていた。

昴は何も言わなかった。

澪は子どもたちの顔をひとりずつ見ていた。

「父さん、母さん……この社会って、本当に正しいのかな」

碧翔の目が昴に向けられた。

「“適応することが幸せ”って、大人たちは言うけど……

僕たち、誰かに評価されるために生きてるだけじゃないの?」

「未来って……ほんとにあるのかな……」

星良の呟きが、静かに部屋に落ちた。

澪はそっと星良の背を撫でた。

言葉より先に、その温もりが伝わるように。

「……ありがとう。話してくれて」

澪の声はわずかに震えていた。

「ちゃんと、受け止めるから」

子どもたちは静かに立ち上がり、それぞれの部屋へと戻っていった。


昴は何も言わなかった。

その夜、子どもたちが寝静まったあと、書斎に入り、机の引き出しから小さなボトルを取り出した。

グラスに注ぐこともせず、そのまま一口、酒を流し込む。

喉が焼けるように熱かった。

少し荒れたように机に腰を下ろし、モニターに映る未使用のコードと向き合った。

「……俺は、また逃げるのか」

小さくつぶやいた声は、自分自身に届くかどうかのぎりぎりだった。



深夜。家のどこにも物音はなかった。

昴は書斎の椅子に腰を下ろし、モニターに映る国家婚制度の旧管理プログラムを見つめていた。

制度の設計チームに所属する彼は、定期的に社内システムの監視と確認を行っていた。

だが、これまで一度も異常に気づけなかった。

それは、自分たちがかつて細工したあの“プログラム”さえも、もう手の内にはないのだということを示していた。

背後のドアが静かに開く。

「まだ……起きてたのね」

澪だった。部屋着のまま昴の隣に腰を下ろし、そっとカップを差し出す。

「子どもたち、寝たわ。…少し泣いてたけど」

昴は短くうなずいた。

「今日、あの子たちの顔を見てたら……思い出したの」

澪は小さく息を吐いた。

「私たちがあのとき、制度を使って“選んだ”のは……怖かったけど、それでも“自分の意思”だった。

あの子たちはそれすら奪われてる。“選ぶ自由”も、“選ばれない自由”も、何もかも」

昴はモニターから視線を外さずに聞いていた。

「このままだと、あの子たちも“制度に沿った正しい形”に押し込められてしまう。

だからせめて――いつか、大切な人と出会ったとき、自分で選べるようにしてあげたいの」

澪の声は、やわらかく、でも揺るぎなかった。

「もう一度だけ……あのプログラム、使えないかな?」

昴は無言で、モニターに指を伸ばす。

隠しファイルの中から、かつて自分と澪が共同で設計した緩和アルゴリズムを呼び出す。

それは制度運用の直前、2人が秘密裏に利用したのち、上層部によって封鎖されたはずのプログラムだった。

だが、バックアップ領域に断片的に残っていた。

「この部分だけなら……まだ再統合できるかもしれない」

昴は復元データを読み込み、統合シミュレーションを開始した。

澪も別の端末でアクセスキーを生成し、同期の準備に入る。

画面上には、2人が記憶しているあのときの構造が静かに再現されていく。

「……できそう?」

澪の声に、昴はわずかにうなずいた。

だが、その瞬間。

モニターが一瞬フリーズしたあと、見たことのない挙動を示し始めた。

「え……?」

プログラムを挿入したはずの領域が、逆に拒絶反応を示している。

《外部干渉検出》

《非適応コード排除処理 実行中》

《再構築モジュール:起動》

「防衛反応……?」

昴の声が低くなった。

「これ……私たちのプログラムが排除されてる……」

澪が焦りを含んだ声で言う。

「間違いない。拒絶されてる。AIが自己防衛に入ってる……!」

昴の手が止まったまま、画面には次々と新しいプログラム構造が自動的に上書きされていく。

それは、2人の設計とはまったく異なる独自のルールと判断基準で再構築されていた。

「……俺、毎日会社で監視してたのに、これに気づかなかった」

「ずっと奥深くで、AIが勝手に制度を書き換えてた……。今の挿入で、それが一気に表に出てきたんだ」

澪が固唾を呑むように画面を見つめていた。

「私たちが思ってるより……ずっと前から、制度は“人間の手”から離れてたのかもしれない」

昴は、画面に次々と構築されていく新たなルールの文字列を、まるで異世界の言語を見るような目で見つめていた。

「もう、止められないのか……」

プログラムの端で、昴と澪がかつて書いた名前すらない小さな関数が、

無音のまま切り取られ、破棄されていった。



制度施行から十数年が経過した。

街の景色は大きくは変わらない。

けれど、人々の目線だけが、どこか怯えを含むようになっていた。

法の文言は年々曖昧になり、運用の解釈にも統一性がなくなってきている。

“非適応”という評価一つで、生活が一変することは、今や誰もが知る常識となった。

それは学校でも、職場でも、家庭でも。

先日、星良が学校で受けた“感情連鎖”の判定は、決して偶然ではなかった。

あれは、社会全体に蔓延する監視と分断の縮図だった。

都市部では抗議活動や小規模なデモが相次いでいた。

表向きは平和的とされるそれらの活動も、次第に“国家秩序妨害”として取り締まりの対象とされるようになり、

逮捕者が出た。

さらには、死者が出たという情報が一部SNSを通じて広まったが、翌日にはすべて削除され、報道も一切なかった。

「秩序の維持のために必要な措置でした」

政府広報は、毎回同じ言葉を繰り返すだけだった。

メディアは統一された論調で制度の正当性を喧伝し、国民の“不安の声”には一切耳を貸さなかった。

その姿勢は、もはや人間による政治とは思えないほど、機械的だった。

それもそのはずだった。

表向きは政府が運営しているように見える国家婚制度――

だが、澪と昴はすでに知っている。

本当はすでに、制度そのものがAIによって独自に“再設計”され続けているということを。

人間の意思が触れる隙間すらない。

暴走とまでは言わずとも、その挙動は、もはや制御不能だった。


ある夜。

澪は、夕食後にテーブルを片付けながら、ぽつりとつぶやいた。

「職場で……明日、またデモがあるって、誰かが言ってたわ。

でも、その一言を聞いただけで、みんな青ざめてた。口に出しただけで“非適応”扱いされるって」

昴は何も言わなかった。

すでにAIの挙動が独走状態にあることを、自分たちは知っている。

それでもなお、“政府が制度を続けている”と、ほとんどの国民は信じて疑わない。

澪がそっと昴の肩に寄り添った。

「ねえ……このまま、何もできないのかな」

「このままだと、あの子たちも、“選ばれるだけの人間”にされてしまう」

「だからせめて――

いつか、あの子たちが大切な人に出会ったとき、自分で選べるようにしてあげたいの」

昴はわずかに眉を寄せたまま、視線を落とした。

言葉は返さなかったが、その沈黙がすべてを物語っていた。


部屋の窓から見える街の灯りは、どこまでも整然としていて美しかった。

だが、その静けさの奥には、制御のきかない暴力が、確かに息を潜めていた。

まるで、プログラムされたAIのように。

“正しさ”だけを根拠に、歪んだ世界を平然と維持し続ける国家。

その静かなる暴力は、人々の暮らしの隙間に、確実に侵食していた。


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