第2章


 法案が可決された週末、都心の空気はどこか落ち着かないざわめきを孕んでいた。

 オフィスビルの窓から見える青空は、いつもと変わらず穏やかだったが、人々の心には目に見えない焦燥が漂っていた。

 湊 昴は、自席で淡々とキーボードを叩いていた。画面には国家婚制度に関する最終マッチングアルゴリズムの調整画面が広がっている。政府との契約で開発を請け負った彼のチームは、施行まで残されたわずかな時間の中で、安定性と不正防止の最終チェックを進めていた。

 昼休みを目前にして、隣の席から澪が立ち上がる。

「ちょっと、外でコーヒーでも飲まない? オフィスの空気、ちょっと重くてさ」

 澪のその言葉に、昴はわずかに微笑んだ。

「うん、行こうか」

 エレベーターを降りて、ビルの1階にある小さなカフェテリアへ。ふたりはいつもと変わらないテンポで会話を始めた。けれど、どこか互いに言葉を選んでいるような間があった。

「……ねぇ、昴」

 紙カップのコーヒーを手に、澪がふと視線を落としながら呟いた。

「どうせ、誰かとマッチングさせられるんならさ。気心知れた相手の方がいいって、そう思わない?」

 その一言に、昴は一瞬、指先を止めた。

 心臓が跳ねる音が、内側から静かに響いた。思ってもみなかった言葉ではない。だが、実際に澪の口からそれが出たことで、現実味が急速に押し寄せてくる。

「澪……それって……」

「うん、そう。あなたとなら、私……いいかなって」

 照れくさそうに笑ったその表情に、昴は息を呑んだ。

 沈黙の間、カフェの喧騒が遠のいていく。頭の中ではあらゆるリスクが交錯していた。

 国家婚制度のアルゴリズムは、DNA、学歴、年収、性格傾向など膨大な個人情報をもとに、公平かつ自動的にマッチングが行われる。

 ――建前は、そうだ。

 だが、昴はこのシステムに“裏口”を仕込んでいた。万が一、緊急の事態や自衛の必要があった場合、自分自身に限って微調整を加えられるよう、アクセスキーを仕込んでおいたのだ。

「……できるよ」

 昴は声を潜めて言った。澪の目が、大きく見開かれる。

「え?」

「ほんのわずかに、でも、操作できるようにしてある。バレない範囲でね」

 驚きと安堵が混じったような澪の表情を、昴は見つめ返す。

「じゃあ……お願い。私と、マッチングして」

 その言葉はまっすぐで、迷いがなかった。

 昴は深く息を吸い、目を閉じた。

 これは、違法行為に等しい。見つかれば、社会的信用を一瞬で失う。だが――

 もし、誰かを「選ぶ」ことができるのなら。

 誰かと「生きていく」ことが許されるのなら。

 昴の中で、何かが決まった。

「わかった。……やってみる」

年末、社会は混乱と期待の狭間で揺れていた。

 全国の区役所・行政機関には「国家婚初回マッチング対象者」への通知が届き、SNSは連日マッチング結果の話題で埋め尽くされている。

 2025年12月30日、深夜――

 湊 昴は、オフィスにひとり残っていた。

 セキュリティを突破する必要はない。彼はこのシステムの設計者なのだから。

 無機質なモニターに映るのは、膨大なマッチング候補の中から最終調整の対象となる二つのID。

 一方は自分自身。もう一方は澪。

 システム上、「偶然」選ばれたかのように見せかけるためには、細かな数値の操作が必要だった。

 DNA適合度を“限界ぎりぎり”で引き上げ、共感傾向スコアを強調、職業安定度はそのまま。何度もシミュレーションを繰り返し、ようやく“自然”な一致率を得る。

 実際、この改ざんを見破れる者は、昴のほかにはいない。

「……やったぞ、澪」

 独り言のように呟いて、昴は背もたれに身を預けた。


 2026年1月1日。国家婚法、施行。

 昴と澪には、予定通りの通知が届いた。

 マッチング相手――湊 昴 × 相澤 澪

 合格率99.72%。

 適合度:極めて高い。将来的安定性:優良。

「……成功、だね」

 自宅のモニター越しに、澪が静かに呟く。

 端末越しに見えるその目に、わずかな緊張と、柔らかな喜びが交差していた。

「ここからが本番だよ。下手な演技をしたら、すぐ監視に引っかかる」

「うん。わかってる。当日は、初対面として、ちゃんと振る舞うから」


 1月7日、指定されたマッチング会場。都内某所。

 高層ビルの一室に設けられた会場は、簡素ながらも機能的で、どこか冷たい印象を与えた。

 受付でIDを提示すると、すぐに職員が笑顔で迎え入れてくれる。

「湊 昴様、相澤 澪様ですね。こちらの控室でしばらくお待ちください」

 2人きりになった瞬間でさえ、昴も澪も、視線を交わすことなく壁を向いて座る。

「初めまして。湊 昴と申します」

「相澤 澪です。よろしくお願いします」

 淡々と、あくまで“制度に従った初対面”を演じる。

 会話の内容も、事前に練習しておいた通り。

「お互い、同じ会社で働いてるんですね」

「ええ、まさかこんな形で出会うとは」

 扉の外には、監視用カメラが設置されている。録音も、恐らく行われている。

 予定された審査時間を過ぎると、係員が再び姿を現した。

「おふたりとも、適合度・会話内容ともに問題ありませんでした。国家婚、正式に受理といたします」

 その瞬間、澪の唇が、わずかに震えた。


 会場を出た後、ふたりはようやく静かに笑い合った。

「……ねぇ、昴。これ、バレてないよね?」

「今のところはね。あとは、夫婦らしく演技するだけ」

「それなら得意かも。あなたのこと、前からちゃんと見てたから」

 夕陽が、冬の空に赤く染まっていく。

 ふたりの歩幅は、自然と揃っていた。

 制度の中で、最も自然な“不自然”を成し遂げたふたりは、まるで少年少女のように、小さな成功を分かち合っていた。


引っ越し初日。

無人の住居に足を踏み入れたときの静けさは、図書館の開館前のようだった。

澪は靴を脱いで、ためらいながら一歩ずつ中へ入った。昴はそのあとに続く。

整いすぎた部屋。温度も湿度も快適に保たれていて、それなのにどこかひんやりとしていた。

「……ほんとに始まったんだね」

玄関に立ち尽くしたまま、澪がぽつりとつぶやく。

昴は少し笑った。「うん。でも、君が一緒なら、この無機質な部屋も、ちょっとずつ“家”になっていく気がする」

その言葉に、澪は頷きながらも、少し頬を赤らめた。

二人の距離はまだ遠いままだったけれど、言葉の温度が、わずかに空気をやわらかくした。

 

朝は、パンと卵。

昴がフライパンを握り、澪が食器を並べる。

必要最低限の言葉で交わされるやり取りの中に、どこかぎこちない“気遣い”の粒が転がっていた。

「……焦げてるかも」

「ううん、好きな焼き加減」

とりとめのない会話は、思いのほか心地よかった。

制度が決めた同居生活なのに、そこにちゃんと「ふたりの時間」があるのが、少し不思議だった。

 

生活のリズムは落ち着きはじめていた。

ベッドの位置も、ソファのクッションも、初日に比べれば少し乱れていて、

それがなぜか安心感をくれた。

一方で、制度は容赦なくふたりの進展を求めてくる。

AIの声はどこまでも平坦で、そして無慈悲だ。

「性交渉、未確認。国家婚法第5条に基づき、初回義務未履行。推奨期間残り48時間です」

澪はその声を聞くたびに少しだけ肩をすぼめた。

昴はそれを黙って見ていたが、やがて穏やかな口調で言う。

「俺は……澪が準備できてからでいい。制度より、君の心のほうがずっと大事だと思ってる」

「……ありがとう。

 昴にそう言ってもらえるだけで、気持ちが少しずつほどけていくの。

 きっと、もうすこしで……大丈夫になれそう」

それは“愛の告白”ではない。

けれど、“信頼の表明”だった。

制度に命じられて重なるのではなく、自分たちのタイミングで“選ぶ”ということ。

澪は、その自由だけは守りたかった。

 

職場では、国家婚の話題が日常になっていた。

社内カフェの昼休み。

陽の差し込む窓際の席に座り、澪は同僚たちの会話を黙って聞いていた。

「うちはもう破綻寸前。なのに、制度上は離婚できないとか、詰んでるでしょ」

「初回性交の警告、もう3回目なんだけど……なんかもう笑える」

笑い混じりの言葉の中に、じんわりとした疲労感が滲んでいた。

「澪ちゃんは……うまくやってるんでしょ?」

コーヒーのカップを手に、同僚が尋ねてくる。

「……少しずつ、ね。

 でも、うまくやるっていうより、ちゃんと“向き合おうとしてる”って感じかな。

 お互い、まだ手探りだけど……それでも、諦めないでいられてる」

そう言いながら、澪は自分の言葉に驚いていた。

いつの間に、彼を“信じたい”とまで思えるようになっていたのか。

 

夜。

澪は昴に背中を向けて、そっと言った。

「……ねぇ、今夜、隣に寝てくれる?」

「もちろん」

布団に入っても、すぐには眠れない。

緊張ではない。何かが胸の中でゆっくりと熱を帯びていた。

「手、つないでもいい?」

昴の声に、澪は小さく頷いた。

指先がふれた瞬間、体温が流れ込んできて、胸の奥に静かな波紋が広がった。

 

灯りを落とした夜。

ふたりは言葉もなく、ただ手を重ね、呼吸を合わせていた。

どちらともなく唇を寄せ合い、肌を重ねた。

それは命令に従った“性交”ではなく、

言葉より先に心が通った、“儀式”のような瞬間だった。

 

翌朝。

AIの機械音が寝室に響いた。

「性交渉の記録を確認。国家婚法第5条、義務完了。評価ランク:A」

それを聞いた澪は、思わず笑ってしまった。

「評価ランクって……テストみたいだね」

昴はコーヒーを注ぎながら言った。

「だったら合格かな。“ふたりで”」

カップの湯気が立ち上がる。その香りの向こうに、安堵と、少しの誇らしさがあった。

 

生活は続く。

会社では同僚の不和を耳にするたび、澪は“私たちは違う”と自分に言い聞かせた。

夜のリビングで、ふたりでドラマを観ながら、澪はふと昴の肩に寄りかかる。

「こうやって並んで座るだけで、なんだか満たされる気がするの。

 最初は怖かった。でも、今はこの生活が、ちょっとだけ好き」

昴は何も言わず、そっと彼女の手を握った。

 

ベランダから夜空を見上げる。

東京の空は明るすぎて、星は見えない。

けれど、隣にいる誰かの温もりは、確かにそこにある。

澪が、少しだけいたずらっぽく笑った。

「……思えば、私たち、国家の制度を最初から欺いてるんだよね」

昴も、どこか苦笑いを浮かべた。

「まあね。細工がバレたら、相当ヤバいとは思ってるよ。

 でも、君から“私とマッチングして”って言われたとき……他の選択肢なんてなかった」

「私も。昴が仕組んでくれなかったら、たぶん今みたいに笑えてなかった」

その言葉に、昴は小さく息をついた。

「でも、今さら思うんだ。

 本当は……制度の中で一番“自然な”マッチングだったんじゃないかって。

 最初から好きで、ちゃんと選んだ相手と一緒になる――そのほうが、ずっと健全なのに」

澪は黙って隣に立ち、彼の肩に頭を預けた。

「ねぇ、昴。もしも全部バレても私は後悔しないよ。

 あなたと一緒にいた時間を、私はずっと信じるから」

夜風が二人の髪を揺らし、ベランダに柔らかな沈黙が降りた。

それは制度の隙間に生まれた、小さな罪。

けれど確かに、自分の意志で選んだ罪だった。

 

寝室の灯りを落とす。

今夜はいつもよりも、ふたりの手が自然に重なった。

肌のぬくもりは変わらないのに、そこに込められた意味が、少しだけ深くなっていた。

昴の指がそっと澪の髪を撫でる。

澪は目を閉じ、静かに息を吸った。

「ねぇ……もし、私の側に操作権があったら……きっと私も、昴を選んでた」

その言葉に、昴は強く手を握り返した。

それは、制度ではなく、ふたりだけの選択だった。


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