第1章


2035年12月1日。東京の空はどんよりとした灰色に覆われていた。

冬の始まりとしては珍しく湿度が高く、重たい空気が街全体に張りついている。

新聞の一面には「国家婚法 本日採決」の文字が躍り、通勤電車では誰もがそのニュースをスマホで確認していた。

プログラマーの湊 昴は、その車内の一角でヘッドホンをしながらも視線だけでニュース画面を追っていた。

彼は「HARMONY」開発チームの一員でありながら、制度に対しては一貫して感情を挟まなかった。

そのはずだった、今朝までは。


【職場:ゲノムリンク・ジャパン本社】

通勤ラッシュを抜け、都心にそびえるガラス張りのビルの13階。

AI開発企業「ゲノムリンク・ジャパン」。そのフロアの一角に、国家婚制度の中核となるマッチングシステム「HARMONY」の開発室がある。

湊は、静かに自分の端末にログインした。

すでに幾つもの警告ウィンドウが並んでいる。政府側のシステムと自動同期が始まっていた。

施行準備、進捗92%。あと12時間もすれば、この国の誰かが最初の“指定通知”を受け取る。

「おはよう、昴」

静かな声が背後からかけられた。

社内の同僚、相澤 澪(みお)。HARMONYのUI設計チームに在籍しており湊の同期だ。

長い黒髪を後ろでまとめ、今日も無彩色のパンツスーツを着こなしている。

「法案、通りそうね。昨夜の討論、見た?」

「……ああ。もう、止められる段階じゃなかった」

「わたし、正直こわいよ。このシステムが、誰かを幸せにするって信じられる?」

澪はそう言って、少しだけ昴の画面を覗き込んだ。

昴は答えなかった。彼女の視線が近すぎて、心のどこかがざわついた。

2人は長い付き合いだった。互いに恋人ではない。けれど、昴は澪の声を、歩き方を、癖をすべて知っていた。

そして彼女も、昴にだけ時折、弱さを見せた。

ただそれだけだった。ただ、それだけだったのに。



午後の国会中継が始まると同時に、全国の視聴者は息を呑んで画面を見つめた。

総理大臣の後ろには法務大臣と少数の与党幹部。対面には激しく抗議する野党議員たち。

議論は深夜にまで及んだ。

議長が鐘を鳴らし、採決が始まる。

「国家婚法案、投票を開始します」

電子パネルに、緑と赤の票が次々と灯る。

与党は賛成票を固めていた。反対票は散発的に光るが、数にはならない。

議場には野次と怒号が飛び交い、最後は議長の声がそれを押し切った。

「賛成328、反対103。よって、本法案は可決されました。」

その瞬間、テレビ越しに見ていた昴の背筋に冷たい汗が流れた。

モニターの端に、速報テロップが表示される。

『国家婚法成立。2036年1月1日より施行』



澪の顔がこわばっていた。

フロア全体が静まり返り、誰もが手を止めていた。

隣のデスクでは、ある若手社員が息を詰めながら呟いた。

「これ……冗談だろ……」

それに答える者はいなかった。

街頭では、テレビの前で立ち尽くす人々が映される。

あるカップルは怒鳴り合っていた。

「だから言ったのよ、早く籍入れようって!」

「俺だって迷ってたんだよ……でも、まさか国が強制するなんて!」

討論番組では学者と評論家が激論を交わしていたが、

SNSではすでに投稿制限が始まり、反対意見の多くは非表示となっていた。



その夜、昴は終電間際の電車に揺られていた。

車内広告には「国家婚制度 Q&A」と題されたポスターが並ぶ。

電子看板では「婚姻通知まで、あと30日」というカウントダウン。

彼は自宅に戻ると、システム端末を開いた。

画面には試験通知のサンプル画面が表示されていた。

「あなたのマッチング対象が確定しました。14日以内に対応してください。」

誰かの名前が空欄のまま、仮表示されている。

その下に、こうあった。

「適合候補数:1人」

湊はモニターを閉じて、ソファに崩れ落ちた。

「これが、俺たちの未来なのか……」


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