第21話:チョコの祭典
遥が進路希望届を提出してから、数日が過ぎていた。
進路のことで悩まなくて済むようになり、気持ちが楽になった。
その代わり、空いた時間を何に使えばいいのか少し迷っていた。
時間の使い方に悩みながら階段を下りていると、篠原とすれ違った。
彼女は遥に軽く会釈をして通り過ぎていった。
その際、どこか懐かしいシャンプーの甘い香りがした。
篠原と出会ってから半年も経っていないのに、文化祭や勉強などいろいろなことを一緒にした。
そんな思い出がよみがえり、彼女ともう一度話がしたくて、あとを追った。
「ねぇ、篠原さん」
「なに?」
「最近、学校はどう?」
彼女はわずかに視線をそらした。
「……うん、昔と比べて過ごしやすくなったよ。もちろん遥くんのおかげ」
「それは良かった」
「遥くん、聞いてもいい?」
「なーに?」
「遥くんってピアノも弾けて、お友達もたくさんいて、誰からも好かれてるように見えるけど、息苦しくなったりしないの?」
息苦しい。
ずっと感じていた言葉だった。
だけど最近はみのりのおかげもあって、以前と比べればだいぶましだった。
「どうだろうね。たまに期待が重いなーってときはあるけど、でも、みんなが喜んでくれるなら、それでいいと思う」
「そのみんなに私は入ってる?」
「もちろんだよ。だから、文化祭の練習もしたし」
「そっか。私と遥くん、足して二で割ったくらいがちょうど良さそうだね」
「え?」
「ううん、なんでもない。そろそろ行くね」
彼女はそれだけを言い残し、足早に去って行った。
足して二で割る。
もし自分の抱えているこの苦しさを篠原と分け合えたなら、楽になるんだろうか。
でも、今の自分にはみのりがいる。
彼女は分け合うというより、苦しさを癒してくれる存在であり、篠原とはまた違う気がした。
二人のことを考えていたら、みのりからメールが来た。
『そういえば、今年ハルくんにバレンタイン渡そうと思うんだけど。時間、あるかな?』
画面から顔を上げて、あたりを確認した。
静まり返った廊下で一呼吸置き、もう一度画面を見た。
メールの文字を読んでいると、みのりの気持ちが伝わってくるような気がした。
去年までの自分は、教室でのバレンタインの話を遠くから聞いているだけだった。
バレンタインという言葉は、いつも他の人のためのものだった。
その言葉が、今は自分に向けられている。
指が、考えるより先に動いた。
『もちろん。いつでもいいよ』
すぐに返ってきたメールには、『楽しみにしててね』という言葉と、笑う猫の絵文字が添えられていた。
誰かに特別に思われているという実感が、胸を温かくした。
その気持ちは数日間続き、約束の朝を迎えた。
駅前では移動販売のスタッフが既製品のチョコレートを売っていた。
和菓子コーナーでもチョコをメインとした品々を扱っていた。
それらを眺めていると、後ろから急に抱きしめられた。
「待った?」
「今来たところだよ」
「良かった。今日は大変な一日になりそうだから、気合い入れていこうね」
「う、うん?」
何に気合いを入れるのかわからないまま、彼女の後をついて百貨店に向かった。
ガラスの大扉を抜けた先で、否応なしにその意味を知ることになった。
天井から吊り下げられた巨大な『バレンタイン・チョコレート・コレクション』の赤い横断幕が目に飛び込んだ。
金色の風船が束になって浮かび、ピンクと茶色のリボンが柱という柱に巻きつけられていた。
床には赤いカーペットが敷かれ、その上に高級ブランドの特設ブースが立ち並んでいた。
《パティシエ実演中》《限定品》《予約受付》の看板があちこちに立っていた。
白いコック帽をかぶった外国人パティシエが、ガラスケースの奥で手際よくチョコレートを成形していた。
人だかりができている試食コーナーからは「わあ、おいしい」「これ何味?」という声が聞こえてきた。
甘いチョコレートの香りが空気を満たし、女性客の興奮した話し声と店員の呼び込みが重なり合って、まるでお祭りのような騒がしさだった。
「……すごいな。完全にチョコレートのテーマパークじゃないか」
「ね? でも、見てるだけでも楽しいでしょ?」
遥はうなずきかけて、周囲を見渡した。
試食の案内板が、賑わう人たちの向こうに見えた。
「……それよりも、せっかく来たんだから、試食をたくさんしようよ」
混雑した人混みの中を、二人で進んでいった。
ガラスケースには高級チョコレートが美しく並んでいた。
艶やかな表面に照明が映り込み、まるで宝石のようだった。
価格を見ると、一粒500円、800円という値札が並んでいた。
「試食いかがですか」
エプロンを着けた店員が小さなチョコレートを差し出してくれた。
最初にほろ苦さが広がり、その後で柑橘の爽やかな香りが鼻に抜けていった。
「これ、オレンジピール入りですね」
と店員が説明した。
「おいしい。普段食べてるチョコと全然違う」
みのりも隣で別の試食を味わっていた。
「こっちはラズベリーの酸味がすごい。本格的だね」
二人で顔を見合わせて笑った。
百貨店のバレンタインフェアならではの、雰囲気を楽しんでいた。
それから、いくつものブースを巡った。
「これ、抹茶味だって」
「へえ、珍しいね」
「あ、こっちは酒粕入り」
試食を重ねるうちに、二人の会話も自然と弾んできた。
普段なら手の届かない高級チョコレートの味比べに、遥もみのりも夢中になっていた。
そのとき、みのりの足が突然止まった。
彼女の視線は一点に釘付けになっていた。
見ると、華やかな装飾に囲まれた一角に、ぽつんと黒いシンプルな箱が置かれていた。
他の店とは明らかに雰囲気が違っていた。
装飾も値札も最小限で、むしろその控えめさが際立っていた。
「……これにする」
遥が何か聞く前に、彼女は迷わずそのブースに向かった。
人混みを避けながら、まっすぐにレジへ歩いていった。
「こちらでお包みしますね」
店員が黒い箱を手に取り、銀色のリボンを丁寧に巻いていった。
結び目を整えて、みのりに差し出した。
みのりはそれを両手で大切そうに受け取った。
百貨店を出ると、みのりは両手で黒い箱を抱いたままうつむいた。
「このチョコレートを食べたら……きっともう、元には戻れないからね」
それは、冗談とも本気ともつかない言葉だった。
遥がその真意を問い返す前に、彼女はいたずらっぽく笑い、すぐ近くの喫茶店を指さした。
カランとドアベルが鳴った。
店内はコーヒーの香りに包まれ、ジャズが流れていた。
窓際の二人掛けに腰を下ろすと、コートの肩口に残った冷たさがじきに和らいでいった。
注文を終えると、みのりは黒い箱をテーブルに置いたまま、外の通りを眺めていた。
ガラス越しに見える歩道では、マフラーを巻いた人々が足早に行き交っていた。
時折、カップと皿が触れる小さな音がした。
しばらくして、コーヒーと小さなチョコレートケーキが運ばれてきた。
白い皿の上に整えられたケーキの表面には、照明が映り込んでいた。
みのりはナイフを入れ、かけらを口に運んだ。
「……おいしい」
ケーキを少しずつ口に運びながら、みのりは黒い箱の銀色のリボンに触れていた。
遥はそんな彼女の様子をただ黙って見ていた。
彼女の指が結び目に触れるたび、銀色のリボンが光を反射してきらめいた。
箱はテーブルの端に置かれたまま、彼の手にはまだ届かなかった。
少し間をおいて、箱を抱え直したみのりが、ふっと笑った。
「……あらためて」
その一言で、意図は伝わった。
遥は箱を手に取り、意外なほどの重みに驚いた。
「……もらっても、いいの?」
声がわずかにかすれた。
「そのつもりで、今日来たから」
まっすぐな視線が返ってきた。
遥は安心したように微笑んだ。
「……ありがとう。こういうの、ちゃんともらうの、初めてで」
「ほんと?」
「うん……。誰かが自分のために時間をくれたんだって思うと、なんだかうれしいな」
「本番はバレンタインだから。まだ食べちゃだめ」
「……お預け、か」
「そうだよ。冷蔵庫に入れておいて。約束」
コーヒーの湯気が立つ中、二人は顔を見合わせて同時に言った。
「……いいね、こういうの」
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