第8話:放課後のレッスン
眠りについたあとも、何度も浅い夢の中でその言葉を繰り返した。
『何もしないより、きっと後悔しないはずだから』
ホームルーム前の教室には、生徒たちの話し声とページをめくる音が聞こえていた。
視線の先には、頬杖をついてじっと座っている篠原がいた。
この教室の中で、少しずつ存在感が薄れていくように見えた。
自分も音楽室で彼女に会う前は、名前すら知らなかった。
笑い声や会話の輪から外れ、そこにいるのにいないみたいに見える。
本当にそうなのかはわからない。
それでも、このまま見過ごせば、彼女は誰にも気づかれないまま消えてしまうかもしれない。
興味があったわけじゃない。
昨夜、画面越しに聞いた言葉が、ずっと心に引っかかっているだけだった。
『迷うくらいなら、手を伸ばせ』
その言葉が、遥の背中を押した。
遥は意を決して、いつも篠原に厳しく当たる女子の横に立った。
「……あのさ、ちょっといい?」
彼女は怪訝そうに振り返った。
「なに」
「篠原さんのことなんだけど……。合唱は、放課後に僕が一緒に練習するよ」
遥は申し訳なさそうに続けた。
「だから……ほんの少しだけでいい、我慢してくれないかな」
彼女は膝の上で携帯を持ったまま、ため息をひとつ吐いた。
「……ふーん。遥くんが、ね。……まあ、君がそこまで言うなら、別にいいけど」
そう言って、手の中の携帯へ視線を戻した。
そのまま篠原の席へ向かい、机に突っ伏していた彼女の前で足を止めた。
「……篠原さん」
篠原が驚いたように顔を上げた。
「放課後、もしよかったら……一緒に、歌の練習しない? 伴奏するから」
篠原は少し迷うような表情を見せてから、小さくうなずいた。
「……うん」
そしてさらに小声で付け加えた。
「……お願い」
やがて終業のチャイムが鳴った。
鍵盤の前に座った遥は譜面を立て、入り口で立ち尽くす彼女にゆっくり目を向けた。
「……始めようか」
制服の袖を握ったまま、慎重な足取りで近づいてきた。
「まず、ピアノの音をよく聴いて。メロディを、なぞるだけでいいから」
和音が部屋の隅まで広がった。
そこに重なった声は小さくて、まだはっきりとした歌になっていなかった。
「大丈夫。声が小さいと余計に不安になる。間違えてもいいから、もっと前に、遠くに届けるみたいに」
一度、手本を示すように歌い、再び二人で声を重ねた。
練習を続けるうちに、篠原の歌声がだんだんよくなってきた。
その変化に合わせ、遥は小さくうなずいた。
「いいね、よくなってる。周りの声じゃなくて、ピアノの音だけを信じてみて」
やがて音が途切れた隙間に、「……ありがとう」という声が聞こえた。
篠原は、制服の袖を握っていた指の力を、ほんの少しだけ緩めた。
しかし、順調な日ばかりではなかった。
翌日の音楽室の窓に雨粒が絶え間なく打ち付けていた。
空は重い雲に覆われ、室内はいつもより薄暗かった。
譜面台を挟んで向かい合うまでの時間が、いつもより長く思えた。
鍵盤に置いた指先が和音を探し、そこに篠原の声が重なった。
旋律は途中で途切れ、リズムはわずかに後ろへずれた。
何度やっても歌がピアノに合わず、そのたびに篠原の肩が落ちた。
「……やっぱり、だめかも」
握った拳が膝の上で白くなっていた。
「そんなことないよ。日によって上手くいかない時もある。僕だって、ミスばっかりの日もあるし」
雨音がひときわ強く窓を叩いた。
「昨日より、声が出てる時もあった。だから、焦らなくていい。きっと、大丈夫」
やがて篠原がゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳でこちらを見た。
「……ほんとうに、そう思う?」
「思ってるよ。篠原さんならできるって」
篠原がこくりとうなずいた。
遥はそれ以上何も言わず、再び鍵盤へと指を置いた。
最後まで音は揃わなかったが、帰り支度をする頃には雨脚が弱まり、彼女の声が昨日よりよくなっていた。
次の日も同じように、音楽室の窓が夕暮れに染まった。
練習を続けるうち、昨日の失敗が嘘のように、篠原の歌声がピアノに合ってきた。
厳しいことも言っているはずなのに、彼女はしっかりついてきてくれていた。
未来はわからないが、彼女の努力が少しでもクラスメイトに伝わればいいと思った。
「……もう一度、最初から」
もう一度伴奏しようとしたとき、ドアの向こうから先生が顔をのぞかせた。
「あら、遥くん。篠原さんの練習、見てあげてるの?」
「はい……放課後、少しだけ……」
先生は安心したような表情を浮かべ、篠原の傍らに歩み寄った。
歩み寄ったあと、ためらうように片手をそっと彼女の肩に置いた。
「篠原さんも、一緒にがんばろうね。私も、あなたの味方だから」
そう言ってから、先生は遥の方を振り返った。
「それと……遥くん、本当にありがとう。君のやっていることは、とても正しいことだよ」
先生の声は、壁の向こうまで届くように凛としていた。
その言葉に、息を吸うのも忘れていた。
自分がしていることは間違っていないのだと、先生に認められた気がした。
篠原はうつむいたまま受け止めていたが、その表情は昨日までより穏やかに見えた。
先生の言葉で少し気持ちが軽くなった二人は、音楽室を後にした。
校舎を出ると、夕暮れの街に長い影が伸びていた。
二人の歩幅が重なり、会話はなくても足取りは軽かった。
「……ねえ」
隣を歩く彼女が、ふいに立ち止まった。
篠原が、遥の顔をそっと
「どうして、……こんなに、親切にしてくれるの?」
唐突な質問に対する答えを探していると、画面の向こうから届いたあの声がよみがえった。
『それができるの、君しかいないから』
月明かりの湖畔で、ゾンデビが笑いもせずに言った、あのときの台詞だった。
「……憧れてる人がいて。その人に、なんて言うか……見返りとかなく、親切にしてもらったことがあって」
「だから、自分もそうできたらなって、ちょっと思っただけ」
口にした言葉が、どこまで本心だったのかは自分でもわからなかった。
駅へ向かう人の流れが二人を追い抜いていく。
沈黙は、もう気まずさを含んでいなかった。
「……そっか」
それきり何も言わなかったが、その声はどこか潤んでいるようにも聞こえた。
篠原が少し笑ったが、照れたようにすぐうつむいた。
そのあと、ほんのわずかに歩幅が近づいた気がした。
改札で別れ、帰路についた。
最寄り駅から家に向かって歩いた。
街灯に照らされた住宅街を抜けると、いつものマンションが見えてきた。
家に帰ると夕食の準備ができていて、数日ぶりに空腹を感じた。
最近は緊張続きで食欲がなかったが、ゾンデビの言葉通りに行動してみると、世界が少しよい方向に向かっている気がした。
食事を終えたあと、リビングの片隅でノートパソコンを開き、ゲームを起動した。
『Lunaphelle Online』のログイン画面を抜けると、湖畔の夜景が広がった。
透き通るBGMがスピーカーから流れ、無意識に止めていた息を、長く、深く吐き出した。
「お、やっと来たな!」
パーティチャットに元気なメッセージが届いた。
広場のベンチには、見慣れたたくましいアバターが座っていた。
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