第7話:君しかいない、という言葉

 夜遅くまでゲームをしていたせいか、月曜の朝は頭がぼんやりしていた。

 教室の扉を開けると、窓辺のカーテンがふわりとなびいた。


 担任の先生がクラスを見回してから話し始めた。


「文化祭まで、あと一か月を切りました。みんな、悔いの残らないように頑張りましょう」


 先生が話し終えると、前方の女子が勢いよく手を挙げ、大げさに困ったような表情を作って言った。


「せんせー、篠原さんがいるから、全然まとまらないんですけど」


 その訴えに、誰も振り向かなかった。


 篠原は机に伏せるようにうつむいていた。

 膝の上で固く握られた手の関節が、血の気を失って白く浮き出ている。


 先生は篠原を一度見てから、教室全体に視線を向けた。


「私は篠原さんも含めて、みんなで成功させたいと思っています」


 先生の声は優しかったが、表情にかすかな困惑が浮かんでいた。


 表立って篠原を庇えば、きつい言い方をした女子生徒も孤立してしまうかもしれない。

 集団生活という場所は、いつだって絶妙なバランスの上に成り立っているのだと思った。



 何もできない自分がもどかしかった。



 先生の言葉はそこで途切れ、白い粉がついたままの指先が黒板へと向かった。

 発言した女子生徒は唇をとがらせ、ノートのページをぱらりとめくった。


 遥は一度窓の外に目を向けたが、再び教室を見ると、やはり篠原のつらそうな横顔があった。


 帰り道、篠原のつらそうな顔を思い出すと、足が進まなかった。

 家の夕食の匂いも、家族の話し声も、目の前にあるはずなのに現実味を欠いていた。


 現実から逃げたくて、パソコンを起動した。

 やがて暗い画面に、いつもの湖畔が浮かび上がった。

 普段ならきれいだと思う湖の月明かりも、今は何も感じなかった。


 ログインした場所には、いつものようにゾンデビがいた。


 チャット欄のカーソルが、黒い背景の上で規則的に点滅していた。

 キーを押す指が止まったまま、数秒が過ぎた。


「……ねえ、ちょっと相談してもいい?」


 ヘッドフォン越しに、そよ風の音が流れた。


「どうした? またクエストで詰まったのか?」


 思わず、口元が緩んだ。


「ううん、今日はゲームじゃなくて……学校のこと。クラスで合唱やるんだけど、歌が苦手な子がいて。みんな、という空気が流れているんだよね……」


 返事はすぐには来なかった。


「ふーん……それで、君はどうしたいわけ?」


 その問いに、キーボードの上で指が止まった。


『どうしたい?』


 考えたこともなかった。

 今まで他人の顔色を伺うように生きてきた自分に、何かを決めることができるのだろうか。


「……わかんない。ただ、何もできない気がしてる」


「でも、君はピアノ弾けるんだろ? 伴奏、やってるんだよね?」


「一応……ね」


「だったら、君が彼女を助けてあげればいいじゃないか」


 予想外の答えに息を呑んだ。


「え? なんで、僕が?」



「だって、それができるの、君しかいないから」



 ゾンデビの重みのある言葉に、改めてその存在の大きさを感じた。



「……もし迷ってるなら、手を差し伸べてみなよ。きっと、何もしないより後悔しないはずだから」



 ゾンデビの言葉が、絡まっていた思考を一本の線にしてくれた気がした。


「……うん」


 わずかに漏れた声は、スピーカーの外には届かなかった。

 それでも、その一言が自分の中に残っていた。

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