輪廻


 花街を包む静寂は、まるで時間が止まったかのようだった。


 赤黒い空の下、妓楼の灯りがパチパチと点滅し、薄暗い光が血の滴る地面を照らす。崩れた壁の風景、風に揺れる幔幕が寂しく音を立てる。


 花街の路地は、血と妖気の匂いに満ち、呪われたモノたちの咆哮が消えた今、ただ静けさだけが重く漂っていた。


「──…」


 鬼は、動かなくなった巫女を抱き上げた。


 彼女の華奢な身体は、鬼の腕の中で嘘のように軽い。


 冷たくなった肌が彼の熱に触れる。

 いつもは鬼のほうが冷たかった。反対だ。


「…フッ、巫女は死んだか? 残念でしたね鬼王さま。ずいぶんお気に入りの玩具だったようで」


 壊れかけた建物に寄りかかり、大蛇(オロチ)が軽口を叩く。


 白い顔に浮かぶ嘲笑から、蛇の舌がチロリと覗いた。


 彼の目には鬼の悲しみを理解する光はない。それは花街に集まるモノノ怪の大半も同じだった。彼らにとって、巫女の死はただの出来事に過ぎず、鬼王の動揺は理解しがたいものである。


「死体となっては、その血肉も味が落ち喰えたものではなくなる。鮮度のあるうちに召し上がってはいかがで───っ」


「これ以上鬼王さまに気安く話しかけるな!無礼者」


 式鬼(シキ)が大蛇の頭を壁に叩きつけた。


 ガンッと音を立て、壁が大きくひび割れる。


「…っ…ずいぶん機嫌が悪いなぁ」


 しかし大蛇は額から垂れる青い血を気にせず、笑みを崩さない。


「貴様はっ……いったい何が目的なのだ?」


 そんな相手を気味悪がり、式鬼が鋭く問う。


「ハッ……目的? くだらない」


 大蛇は青い血をペロリと舐めとり答えた。


「目的なんかで動けるか…!俺たちはどこまでいこうとモノノ怪だぞ? 行動思考にたいした意味は持ち得ない」


「鬼界に呪いをばらまいておきながら…何の目的も無いと申すか」


「無い」


「貴様…!」


 式鬼が苛立ち、爪を振り上げる。



「黙れ」



 そこへ鬼のひと声が飛んだ。


 大きくなく、威圧もないが、決して逆らえない覇気をまとった声だった。


 式鬼と大蛇は本能的に息を呑み、動きを止める。花街の空気が、鬼の声に凍りつく。


 今、鬼にとってはあらゆる音が耳障りだ。


 鬼は抱き上げた巫女の顔をじっと見つめていた。


 彼がいくら、命が消えた感触を噛み砕こうとしても…容易にはできないというのに。


 硬くなっていく肌

 閉じて動かない瞼

 吐き出した血に濡れた唇


 ぶらりと垂れた腕

 地面をかすめる黒衣の裾



「……」



 彼はゆっくりと歩き出す。


 広い背中は毅然(キゼン)としていながら、その足取りは重く、彼女を失うことをいつまでも拒んでいる。


 死んだ女を大事に抱える其の所作には──他ならぬ、敬意と愛惜、王たる風格が宿っていた。




 

 コォォォォォォ.....





「………?」




 すると不意に、背後に捨て置かれた天哭ノ鏡が不思議な光を映した。


 月光のような光が、鏡の表面で揺れ、静寂を破る。


「なん、じゃ……あの鏡」


 ふたりを見守っていた玉藻(タマモ)が、鏡の異変に気づき、目を大きく見開いた。


「様子が変じゃぞ…っ」


 その光は、地底湖から湧き出る泡のように、ぽこぽこと鏡から浮かび出た。


 先程の呪いを祓った力強さはない。空気の動きで弾け消えてしまいそうな危うさで…いくつも浮遊している。


 光の泡は次々に増え、鬼と巫女の周りに集まり始めた。


 泡は鬼に触れ、巫女の冷たい肌を優しく撫で、ふわりと漂う。


 花街の闇が、光に照らされ、柔らかな輝きに染まる。


(なんだコレは……)


 鬼と巫女は光に満たされた。


 温かい。光の泡が、まるで命の鼓動のように脈打ち、彼女の身体をそっと持ち上げる。


 フワッ.....


 そこで突然、巫女の身体がフワリと宙に浮いた。


 鬼の目の前で浮遊し、高い位置まで運ばれる。


 光の泡が彼女の周りをくるくると飛び、まるで母親の周りで無邪気に走り回る子どものように舞う。


 鬼は眩しさに目を細めた。


 光は徐々に明るくなり、巫女の身体を完全に包み込んだ。


 黒衣がふわりと揺れ、彼女の姿が神聖な輝きに溶ける。





 『 わたしの‥‥‥‥名前、は‥‥‥ありません 』





「──…!」





 次の瞬間、鬼の中で、あらゆる事象が腑(フ)に落ちた。





 ……そうか



 そうだったのか





「………巫女、お前が、そうだったのか」





 毎晩その身に強い妖気を注ごうとも正気を失わず

 自我を保ち続けていたのは──



 彼女に触れるたびに沸き起こる

 この離れ難い衝動は──





「八百年──…、ついに、見付けたぞ」





 鬼の言葉に応えるように、光に包まれた巫女の目が……ゆっくりと開かれた。







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