赤い痕 *


「そうだ。なあ、巫女」


 影尾(カゲオ)がふと口を開き、懐から小さな包みを掏り出した。


「玉藻(タマモ)を治した礼だが、これを食うか?」


 彼が差し出したのは、桜色の和紙に包まれた桜餅だった。


 ほのかに甘い香りが漂い、巫女の鼻をくすぐる。彼女は驚きと戸惑いが入り混じった表情でそれを見つめた。


「これは……?」


「人間を軽く化かして手に入れた」


 影尾は悪びれず淡々と答えた。


「オレたちは食べなくても生きていけるんだが、人間がつくる菓子の味は好きなんだ。このモチ、悪くないぞ」


 巫女は彼をしかるべきかを悩んでいた。


 境界に囚われてから、彼女はもう何日も食事を口にしていない。空腹を感じないのも、境界の異常さゆえ……だが、桜餅の甘い香りは、彼女の心にほのかな懐かしさを呼び起こした。


「……いただきます。ありがとう」


 巫女は包みを受け取り、そっと和紙を開いた。桜餅の淡い色が、朝光に照らされて柔らかく輝く。


 彼女は小さく一口かじり、桜の葉の塩気と餡の甘さが口に広がるのを感じた。影尾も同じく桜餅を手に取り、二人で静かに食べ始めた。


「美味しいです」


「そうだろ?」


「その…、影尾?ひとつ聞いてもよいですか」


 桜餅を食べながら、巫女がふと口を開く。


「あなたたちモノノ怪は食事を必要としないのに、…どうして鬼王は、人間をさらって食べているのでしょう」


 影尾は桜餅を口に運んでいた手を止め、驚いて巫女を見た。


「鬼王さまが人間を喰う? それはあり得ない話だ」


 彼はきっぱりと言い切り、わずかに眉を寄せる。


「人喰いなんてしてみろ、それこそ呪われかねないぞ!あの方はそんな愚かな真似をする御方ではない。そんなコトするのは知性を欠いた下等なモノノ怪だけだ」


 彼の言うことは、帝(ミカド)の使者が言った話と違っている。


 ただ影尾の強い否定に、巫女は内心でほっと息をついていた。


(やはりそうだったのですね)


 鬼からは、人が喰らうモノノ怪特有の邪(ヨコシマ)な気配がないのだ。人喰い鬼の噂は嘘だったのではとうすうす感じていた。


(それなのにわたしは鬼を祓おうとした……。返り討ちにあって殺されたとしても文句は言えない)


 悪さをしていない鬼を退治しようとしたのだ。彼女はそんな自分を恥じ、反省していた。


「なら、何をするために彼は鬼界を離れて、境界に留まっているのでしょう?」


 巫女がさらに問いかける。影尾は桜餅を手に持ったまま、考え込むように答えた。


「噂によれば……鬼王さまは800年もの間、探し物をしてるらしい。それが人の世にあるんだろうな。だが、それが何なのかは誰も知らない」


「800年……!?」


 途方もない時間に驚き、思わず繰り返した。


「800年……それほど長い間、何かを追い求めて……?」


 彼女の心に、鬼の孤独がほのかに響く。


 名を持たず、ただ " 王 " と呼ばれる存在。彼が求めるものは、本当に " 物 " なのか。それとも、もっと深い何か──。


 縁側に座る二人の間を、偽物の風がそっと通り抜けた。玉藻は巫女の膝で眠り続け、桜餅の甘い香りが漂う。




 その穏やかな瞬間は突然、冷たく重い気配によって破られた。




「余計な話をしているようだ」


「……ッッ」


 背後から響いたのは、鬼の声だった。


 低く、抑揚のないその声は、まるで闇そのものが言葉を紡いだかのようだ。


 巫女の背筋に冷たいものが走り、玉藻がピクリと身を震わせる。影尾はハッと顔を上げ、琥珀色の瞳に緊張が宿る。


「鬼王さま……!」


 影尾が立ち上がる間もなく、鬼の長い腕が素早く伸び、彼の首を掴んだ。鋭い爪が影尾の喉元に食い込み、少年の体が宙に浮く。


「ぐっ…ぅぅ…!」


「黙れ、小童」


 鬼の目は冷たく光り、影尾をまるで虫けらのように見下ろす。その力は圧倒的で、影尾は抵抗する間もなく巫女から引き剥がされた。


 巫女は思わず立ち上がり、鬼の足元にすがりついた。


「やめてください! 彼は何も悪事をはたらいておりません! どうか、許して!」


 彼女の声は切実で、震えている。


 玉藻もまた、巫女の膝元で怯えたように身を縮め、小麦色の尾が震え、大きな目は恐怖で潤んでいたが、兄を助けてくれと懸命に鳴いていた。


 鬼は必死な巫女の懇願を聞き、苛立たしげに舌打ちした。


 黄金の瞳が一瞬、感情の揺れを見せる。それは怒りか、それとも別の何かか。


 次の瞬間、彼は影尾を無造作に投げ飛ばした。


「うわっ!!」


 影尾の体は宙を舞い、前方の離れた木の幹に強くぶつかった。


 ゴトン、と鈍い音が響き、彼は痛みに顔を歪めて地面に倒れ込む。玉藻がぴょんと飛び出して、すぐに兄を追いかける。


 巫女も一緒に駆け寄ろうとすると、鬼の手が彼女の腕を強く掴んだ。


「動くな」


「……っ」


 鬼の声は低く、抑えきれない苛立ちが滲む。


 巫女はハッと息を呑み、彼の顔を見上げた。


 そこには、いつもより感情的な色が宿っていた。冷静さを装いつつも、どこか制御しきれていない激情が垣間見える。


「お、怒っているのですか?」


「……」


「どうして……っ」


「黙れ」


 男は彼女の両肩を掴んだ。


「お前に狐の匂いがこびりついているな……不愉快だ」


 そして巫女の着物を乱暴に引き剥がした。


「あ……っ」


 衿を左右に割られて、華奢な肩を露わにされた。彼女の肌は、光に照らされて陶器のように滑らかで、ほのかに桜餅の甘い香りが漂っていた。


 鬼の唇がその肌に触れ、鋭い牙が軽く食い込むくらいに強く吸い付く。


「んっ……!」


 巫女は小さく悲鳴を上げ、身をよじる。


 鬼の唇は冷たく、しかし熱い吐息を帯び、ゆっくりと首筋を這う。そして吸い付かれるたびに彼女の身体に赤い痕が刻まれた。


 最初は肩の端、柔らかな曲線を描く鎖骨のくぼみ、そして喉元の脈打つ部分。鬼は一つ一つ丁寧に、まるで彼女の身体を自分のものと刻印するように吸い付いたのだ。


 湿った音が縁側に響き、巫女の身体がビクンと震えた。


「…は……ぁ……//」


 鋭い鬼の牙が軽く肌を掠め、痛みと快感が混じる感覚に彼女の息が乱れた。その間にも赤い痕が彼女の白い肌に刻まれる。それはまさに、鬼の所有を主張する印である。


「落ち着いてください……!…ぁ…!」


「ハァ……ッ」


「…ぅ、…痛…ぃ……//」


 赤い痕は、彼女の柔らかな肌に一つ、また一つと咲き乱れ、清らかな身体を穢す花の模様となる。


 彼女の呼吸は乱れ、羞恥と快楽が混じる感覚に耐えきれず、弱々しい声が漏れた。


「ぃゃ‥‥‥です、離して」


 震える声を出す彼女の視線がふと動くと、木の根元でうずくまる影尾の姿が見えた。


「ぁぁ‥‥‥だめ‥‥!」


 彼の琥珀色の瞳が、こちらをじっと見つめているかもしれない。巫女の頬がカッと熱くなり、慌てて顔を背けた。


(こんな姿、恥ずかしい……!)


「見られてっ‥‥しまいます‥‥‥やめて」


「ふ……そんな余裕も、すぐに消えるぞ」


 鬼の声は低く、嘲るような響きを帯びていた。


 彼は巫女の顎を掴み、強引に顔を自分へと向けさせた。目には、欲望と苛立ちが渦巻いている。


 いつしか彼女の肌は、数えきれない痕で彩られ、まるで鬼の欲望のキャンバスと化していた。


「隙間もないほど……俺の印で埋まったな」


「はぁっ‥‥はぁっ‥‥‥はぁっ‥‥」


「身体も熱くなっているようだ」



 サァァァ───



 ちょうどその頃、境界の風景が静かに移り変わり始めた。


 朝の光が強くなり、縁側の木目を照らす光が金色から白熱した輝きへと変わる。


 遠くの森では、朝霧が消え、木々の葉が昼の陽光を浴びたように鮮やかに揺れた。花をつけないはずの木に咲く小花が、まるで生きているかのように光を反射し、夜行性の鳥がなおも青空を飛び交う。


 鬼の創り出した偽物の陽光が、淫靡な場面を一層鮮明に浮かび上がらせた。



「…………?」



 そこでふと、鬼は巫女の瞳に映る感情を見た。


 以前のような鋭い敵意が薄れ、代わりに複雑な感情が揺れている。


 この鬼が人喰いではないと知った今、彼女の心に生まれた罪悪感と、鬼への新たな視点がそこにあった。鬼はそれを敏感に感じ取り、口元に嘲るような笑みを浮かべた。


「どうした? 俺にすべてを捧げたくなったのか?」


 その挑発に、巫女の瞳が一瞬揺れる。彼女は快楽に染められそうな頭で、必死に思考を繋ぎ止めた。


(そうではないっ……ただ、もう少し、きちんと、この鬼について知りたいだけ)


 彼が800年もの間──探し続けている物

 彼の孤独

 彼の欲望の根源


 それを知りたいと、彼女の心は囁いていた。だが今、口から漏れるのは、抑えきれぬ喘ぎ声だけだった。


「ん‥‥っ‥‥ちが‥っ‥‥‥違い、ます‥‥//」


「ふっ……強情な女だ」


 彼女の否定は弱々しく、鬼はそれを聞いて低く笑った。


 彼は自らの下衣を緩め、天に向けて猛ける屹立を露わにする。


「‥いけません‥‥っ‥‥こんな、明るい中でなど‥‥!」


「そうか?」


 彼女の懇願は虚しく、鬼は彼女の腰をグイと引き寄せた。


 昼の強い光が縁側を明るく照らし、巫女の白い肌と鬼の漆黒の着物が鮮明に浮かび上がる。


 二人の繋がっている部分は明るく照らされ、鬼の視線がそこに注がれる。


 見られている。それを知る巫女の顔は羞恥で真っ赤になり、涙が頬を伝う。


 鬼はそんな彼女の表情までをじっと見つめた。


「鬱陶しいだけの陽の日も、たまには悪くない」


 そして巫女の両腕を強く引き、彼女の身体を起こした。


「ぅ‥‥っ‥‥ぁ、‥‥!?」


「見ろ」


 短い言葉で命じた鬼は、繋がっている部分を彼女に直視させる。巫女は身体をよじり逃げようとしたが、鬼の力がそれを許さない。


「ぃゃ‥‥‥ぃゃぁっ‥‥//見ないで、見ないで‥‥!」


「逃げるな…よく見ろ、お前がどうなっているかを。

 誰のものがお前を串刺し…快楽を与えているのかを…!」


 彼女を責めたてると、巫女の声は甘く跳ね、鬼はその変化を愉しむように目を細めた。


 彼女の潤んだ瞳、紅潮した頬、半開きの唇──すべてが彼を煽る。


 巫女の身体は熱くたぎり、意識が甘く蕩けた。


(だめ……わたし、こんな……!)


 彼女は必死に理性を保とうとしたが、鬼の動きは容赦なく、彼女を快楽の波に飲み込んでいく。


 こんな事をしている場合ではないのに


(わたしはっ…あなたのことを、知りたい、のに…!)


 涙を流す目を開けば、自身を犯す男の熱っぽい視線に釘付けにされる。


「あっ‥‥ううっ‥‥ああっ‥‥‥あ‥‥♡」


 危険すぎる男の表現──逃れようとする巫女が視線を横に逃がすと


 霞む視界にうつる森に、影尾と玉藻の姿はもうなかった。


 木の陰に彼らの気配はなく

 すでにこの場から逃げた後のようであった。










 ──…







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