朝露の来訪者


 鬼が境界の闇に創り出した 朝 は、昼へと移り、夜を超えて……やがて再び朝となる。


 それは、人の世にある四時(シジ)にそっくりだった。


(でも…どこかが不自然ね)


 ただ、屋敷の縁側(エンガワ)でそれを眺めている巫女姫は、少しの歪(イビツ)さに気付いていた。


 本当は、彼女がいるここ境界に、時間の流れは存在しない。


 この時間の移ろいは、あくまで鬼が見よう見まねで作った概念(ルール)だ。


 太陽の方向と、影の向きがでたらめだったり

 花をつけない種類の木に、小花が咲いていたり

 夜行性のはずの鳥が、昼の青空を飛んでいたり


 ……やはり此処は、人の世とは違う。


 偽物の風景。


(これを作ったあの男は、また、屋敷の奥へ消えていった)


 巫女の隣に鬼の姿は無かった。


 鬼は昨夜も彼女のもとへ来ていない。



『 俺を惑わしておいて、俺の欲望を縛る。

  まるで呪いだ。

  お前は本当に、ただの巫女か? 』



 彼女との問答を経て


 ──ただ肉体を支配するだけでは駄目なのだと、本気で悩んでいるのだろうか?




 ....ガサッ





「──…え?」



 鬼の本心はどこなのだろうと考えている巫女の目に、ふと、森の草むらから顔を出す小動物が目に映った。



 それは一匹の小さな狐だった。


 成体前の、ふたつの掌に乗りそうなほど小さな体躯。だが、その背には異様なほど大きな二本の尻尾が揺れている。


 体毛は小麦色で、朝露に濡れてほのかに金色をまとっていた。ふわふわと揺れる尾は、まるで生き物そのもののように独立した動きを見せ、境界の異質な空気の中で不思議な存在感を放っていた。


(モノノ怪ね)


 巫女はすぐにそう悟った。人の世ではありえないその姿は、鬼界の住人である証だ。


 彼女は縁側の端に腰を下ろしたまま、じっとその狐を見つめる。


 狐の瞳は琥珀色で、どこか怯えたような、しかし好奇心に満ちた光を宿している。


 相手に敵意はない。


 いや、それどころか、狐は弱っているように見えた。よく見ると、後ろ足が不自然に黒く変色している。まるで墨を塗ったような、異様な黒さ。


 それは呪いのたぐいだと、巫女の霊感が告げていた。


「大丈夫?」


 巫女はそっと声をかけ、縁側から降りて草むらに近づいた。


 狐は一瞬身を縮めたが、逃げる様子は見せない。大きな尾がピクリと動き、彼女をじっと見つめ返す。その瞳には、まるで助けを求めるような光があった。


「逃げないのね……。良い子です」


 巫女は膝をつき、ゆっくりと手を差し出した。


 狐は鼻をクンクンと動かし、彼女の指先にそっと近づく。その動きはぎこちなく、後ろ足を引きずっているのが明らかだった。


 巫女は心を落ち着け、霊力を指先に集中させた。柔らかな光が彼女の手から漏れ、狐の体を包み込む。


「少し我慢してね」


 彼女の声は優しく、まるで子守唄のようだった。


 狐は身を固くしていたが、巫女の光に触れると、わずかに目を細め、緊張が解けたように体を預けた。


 黒く変色した後ろ足から、じわじわと闇のようなものが溶け出し、地面に染み込んで消えていく──。巫女は慎重に呪いを浄化し、狐の体から邪気を引き剥がした。


「よし……これで大丈夫」


 浄化が終わると、狐の後ろ足は元の小麦色の毛並みに戻っていた。


 大きな二本の尾が軽やかに揺れ、狐はほっとしたように小さくクゥンと鳴く。


 巫女は微笑み、そっと狐を抱き上げ、縁側に戻って座った。その体は驚くほど軽く、温かかった。


「よかった。もう痛くありませんよ」


 狐は巫女の声に答える代わりに、彼女の腕の中で身を丸め、太ももの上で小さくなり眠り始めた。まるで安心しきったように、彼女の胸に顔を擦りつけ、くつろいでいる。


 眠る狐からキュルキュルと高い声が漏れているのは、ネコがごろごろと喉を鳴らすのに似ていた。


 キュルル...キュルッ

 クゥン


 柔らかな小麦色の毛が巫女の肌をくすぐり、彼女は思わず笑みをこぼす。


「…っ…ふふ、ずいぶん甘えん坊なモノノ怪ですね」


 その瞬間、偽物の朝光が一層強くなり、森の奥から新たな気配が寄ってきた。


「……?」


「──こんなとこにいたか」


 巫女は顔を上げ、鋭い霊感でそれを探る。それはモノノ怪の気配だったが、敵意は感じられない。


「玉藻(タマモ)、ようやく見つけたぞ!」


 草むらをかき分けて現れたのは、少年だった。


 瘦せた体に古い着物をまとい、髪は乱雑に伸びている。だが、その瞳は狐と同じ琥珀色で、落ち着いた知性とわずかな警戒心が混じる光を帯びていた。


 巫女は一目で、彼もまたモノノ怪だと理解した。


「なっ…!人間がいるなんて、予想外だ」


 少年は巫女をじっと見つめ、縁側におそるおそる近付いた。


 玉藻(タマモ)と呼ばれた狐は巫女の膝の上でくつろいだまま、少年の方をちらりと見て、また巫女の胸に顔を埋める。


「おい玉藻!」


「…………(クーン)」


「玉藻が人間にこれほど懐くなんてっ……こいつは昔から人間嫌いなんだがな。変だな…!?おーい、おーい」


「…………」


「おお、しっかり無視してくる」


 少年は、巫女に懐いている狐の様子に戸惑っている。ただ彼の声は落ち着いており、大人びた観察力が感じられた。


 巫女は微笑み、膝の上の狐をそっと撫でた。


「玉藻、というのですか? 可愛い名ですね」


「あ、ああ」


「この子はそこで動けなくなっていました。呪いに侵されていたのです」


「……!まさか、オマエが治したのか?」


「はい」


 少年は目を細め、玉藻の後ろ足を確かめるように視線を落とした。黒い痕が消えているのを見て、感嘆の息を漏らす。


「見事だ。呪いを完全に祓うとは、非凡な力だ。オマエは一体何者だ?」


「わたしは巫女。浄化の力を使えます。あなたは……?」


「そうか巫女か。オレは影尾(カゲオ)で、玉藻の兄だ」


 影尾(カゲオ)は静かに名乗り、玉藻を指差した。玉藻は巫女の胸に顔を埋めたまま、くぅくぅと小さな寝息を立てている。


「兄妹なのですね。仲が良さそうで微笑ましい」


 巫女の言葉に、影尾はふっと笑みを浮かべ、ようやく彼女の横に腰を下ろした。


「そう見えるのは、良いことだな。だがなによりオマエがこの屋敷にいる理由が気になる。ここは鬼王さまの領域だぞ?人間が無事でいられる場所ではない」


 その言葉に、巫女の表情が一瞬曇る。彼女は玉藻を撫でる手を止め、静かに答えた。


「わたしは……鬼に閉じ込められています」


「ほう、それは興味深いな」


 影尾の琥珀色の瞳がカァッと光る。


「それでも生きているということは、よほど鬼王さまに気に入られたか、あるいはオマエの力が並外れているかだ!どちらなんだ?」


「ええ……っと、それは」


 巫女は苦笑し、言葉を濁した。彼女自身、鬼の真意がどこにあるのか、完全には掴めていなかった。


「それは……彼に直接聞いてみるしかありません」


「それもそうか」


 影尾は彼女の曖昧な答えに小さく鼻を鳴らす。


「ところで── " 鬼王さま " とは呼び名ですか?あの男は鬼界の王族なのですか?」


「王族??」


 キョトン顔で、影尾が巫女を見返す。


「オレたちの世界にそんなのはいない。オレたちは他種族と群れないし、身分も、階級も、法も無い」


「……無法地帯というわけね」


「鬼界におけるルールはひとつ

《 強者には逆らえない 》──それだけ」


 そして影尾は、視線を遠くへやって答えた。


「あの御方は誰よりも強い。だから誰もが " 鬼王 " と呼ぶのさ」


「では、…彼の名は別にあるのですね」


「いや?無いと思うぞ?オレたちとは違って、鬼王さまは唯一無二の存在ゆえ──名前なんて必要ない」


「名前がない……」


 巫女は小さく呟き、どこか共感するように目を伏せた。



 唯一無二の存在


 名前が必要ない


 誰にも、名前を呼ばれない──



「わたしと、同じ……」


「……?」



 巫女が思わず呟いた。


 影尾はその言葉を聞き逃し、首をかしげたが、巫女はそれ以上を語らなかった。






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