鬼と巫女の攻防


 鬼は水浴みを終えた巫女を抱き、滝の冷気から彼女を守るように屋敷へと戻った。


 無言の彼の瞳は、深く沈み込むように何かを考えている。巫女の魂を完全に我がものにする方法を、本気で模索しているようだった。


(本気なのかしら。わたしの身体を好きにできるこの鬼が?本当に、それ以上も手に入れたいと?)


 巫女の濡れた黒髪が彼の腕に雫(シズク)を落とし、沈黙に鳴る。


 そのまま二人が屋敷に着くと、鬼は外を臨む縁側(エンガワ)に巫女を下ろした。


 裸体を月光に照らされて心もとなげに身を縮める。


 …そんな巫女へ、鬼は一枚の着物を差し出した。


「…?これ は?」


「もとの衣は引き裂いた。よってお前に与える」


 彼女は差し出されたそれを手に取り、胸元を覆った。布に織られた文様を見つつ、予想外の鬼の行動に眉をひそめる。そもそも、女物の着物を彼が持っているのは何故なのか。


(いったい誰から奪ったものなの)


 疑念が心をよぎるが、口には出せなかった。


「……」


 彼女を観察している鬼は、着物をとった彼女が喜んでいないことを察知する。


「その派手な衣もお前の好みではなかったらしい……。お前の魂を動かす美しさとはなんであろうな」


 鬼が低く問う。声には苛立ちと、好奇心、そして妙な真剣さが混じる。男には、何が彼女の心を動かせるのかまるで理解できないのだ。


 巫女は縁側の床に座り、着物を引き寄せながら静かに答えた。


「少し周りに目を向ければ、身近なところに溢れています」


「……なに?」


「ですがそれも、悠久の時を生きるあなたたちには気付けないのでしょう」


 彼女は深呼吸し、心を落ち着けた。冷たい縁側の床が、滝の水で冷えた身体に染みる。


「人の世は、鬼界と異なり、常に移り変わり…そして巡っています。朝と夜、春と冬、生と死……。だからこそ人は、それら一瞬を切り取り、慈しみ、心を動かすことができるのです」


 先ほど咲かせた白い花も……いずれ土に還る

 巫女はそう付け加えた。


 鬼は難しそうに顔をしかめ、縁側の柱にもたれる。


「移り変わり……?そんなものに感動できるというなら、俺には永遠にわからんかもしれん」


 彼の声には苛立ちが滲むが、どこか彼女の言葉に引き込まれているようだ。


 ふと、鬼が片手を空に掲げる。



「つまり、コレが良いのか」



 ───ッ



 彼の長い指が夜空を切り裂くように動くと、突如としてあたりの闇が揺らぎ始めた。


「え……?」


 空の果てが白み、まるで黒幕が引き剥がされるように光が広がる。


 星々が一つ一つと消えていき、遠くの山々が金色の輪郭を浮かび上がらせる。鳥のさえずりがどこからか聞こえだしたかと思うと…徐々に響き合い、森の動物がざわめきながら木々の間を走りぬけた。


 朝露に濡れた草葉はキラキラと輝き、風がそよいで花の香りが漂った。


 夜が朝へと変わるその光景は、まるで天地が息を吹き返したかのように鮮やかさを放っていた。


「……!」


 巫女は思わず立ち上がり、縁側のふちに一歩踏み出した。


 彼女の大きな瞳は朝日を映し、驚きと衝撃で揺れる。


「なんてこと……」


 囁く声は震え、彼女は無意識に手を胸に当てていた。


 太陽が地平線を登るにつれ、空は青と金のグラデーションに染まり、遠くの雲が燃えるように赤く輝く。翼を広げた小鳥がさえずりながら空を舞い、木々の間を跳ねた兎が朝の光に照らされて生き生きと動く。


 彼女はそんな光景に目を奪われ、唇を半開きにして見入った。


 普段は凛とした彼女の顔に、子どものような純粋な驚きが浮かぶ。その瞬間、彼女は自分が巫女であることも、鬼の腕に囚われていることも忘れ、ただこの衝撃に身を委ねていた。



「……ん?」


 鬼はその様子を一瞬も見逃さず、惹き付けられるようにして彼女の横に立った。


「初めて見せる顔をしたな」


 耳元で囁いた鬼が、巫女の頬に指を滑らせる。


 彼女はハッと我に返り、自分の無防備な表情を鬼に見られたことに気づく。頬がカッと熱くなり、慌てて顔を背けた。


「…っ、み、見ないでください!」


 声を震わせ、着物をぎゅっと握りしめる。赤面した彼女の姿は、朝日の中で一層際立ち、隠せようもない。それは鬼の瞳を強く惹きつけた。


 鬼は巫女の顎をそっと持ち上げ、逃がさぬように彼女を捉える。


「隠すな」


「…ゃ…っ……んん」


 そう言うと、鬼は彼女に口付けた。


 それは妖気を注ぐためのものではなく、彼女の心を探るような、深く官能的な口付けだった。鬼の唇は冷たく、しかしどこか熱を帯び、巫女の柔らかな唇をゆっくりと味わうように重なる。


「…んっ……ふ」


 彼女の息が止まり、心臓が激しく鼓動する。


 彼の舌がそっと彼女の唇を割り、滑り込む。ぬるりとした感触が彼女の口腔を犯し、逃げようとする舌を絡め取る。チュク…チュク…と水音が響き、鬼の長い指が彼女の首筋をなぞり、髪をそっと横に流した。その動きはまるで彼女の反応を一つ一つ確かめるようで、執拗で、かつ繊細だった。


「んん……んっ‥‥‥ふぁ」


「……」


 巫女は抗おうと手を鬼の胸に押し当てるが、力が入らない。鬼の舌が彼女の上顎を舐め、歯列をなぞり、深く絡み合うたびに、彼女の身体はゾクゾクと震えた。


 ヌルッ....クチュ


「‥‥は‥‥ぁっ‥‥ぁ‥‥ん、ん」


 口付けは長く、息継ぎの隙間さえ与えず、彼女の意識を甘く蕩かす。


 鬼の唇が一瞬離れると、彼女の吐息が熱く漏れ、半開きの唇から覗く舌が無防備に震える。鬼はそれを見逃さず、再び深く口付け、彼女の唇を吸い、舌を絡ませた。


 彼女の身体が熱を持ち、膝がガクガクと震え始める。口付けの合間に、鬼の低いうめき声が彼女の耳に響き、その音すら彼女を惑わせた。


 ....チュッ


「‥っ‥‥はぁっ‥!」


「……フッ」


 ようやく口付けが解けると、巫女はハァハァと荒い息をつき、目を潤ませて鬼を見上げた。


 彼女の頬は赤く染まり、唇は濡れて光っている。


 鬼は満足そうに微笑み、彼女の首筋に唇を寄せ、鎖骨に、胸元に、ゆっくりと口付けを繰り返す。まるで彼女の肌に宿る媚薬を味わい尽くすかのように。


「‥ぁ‥‥//」


「何よりも俺の興味を引き、穢したいと思わせてくるお前こそ──この世の最たる美しさだとは思わんか」


 胸の膨らみに舌を這わせて、鬼は囁く。声には欲望と、どこか純粋な執着が混じる。


 巫女は息を乱しながら、鬼の言葉に抗うように目を閉じた。


「はぁ、はぁ……!それ、はっ…あなたの錯覚です」


「……」


「仮に、わたしを美しいと思うなら……なぜその美しさを壊そうとするのですか……!?本当に美しいものを愛でるなら、それを守りっ…、慈しむべきではありませんか」


「……?」


 鬼は一瞬、動きを止めた。


 彼女の言葉が、彼の心の奥に何かしらの波紋を広げたようだった。


「守る……だと? 馬鹿げたコトを。俺はお前を俺のものとして、俺の色に穢し、永遠にこの手で握り潰す」


「それではあなたはっ……決して本当の美しさを知ることはできません」


 巫女は静かに、しかし力強く言い放つ。


「美しさは、壊すことで輝くものではありません。共に生き…共に時を重ねることで、初めてその深さがわかるのです…!」


「……っ」


 鬼は彼女の言葉にハッとしたかと思うと、目尻を鋭くあげて明確な苛立ちを見せた。


「お前の言うコトは、まるで呪いだな」


 鬼は唸る。


「俺を惑わしておいて…俺の欲望を縛る。

 お前は本当に、ただの巫女か?」


「……」



 ....ニコッ



 巫女は柔らかく微笑んだ。


 それは、鬼がこれまで見たことのない、穏やかで清らかな笑みだった。


「わたしはただの巫女です」


 その瞬間、縁側に差し込む朝日が一層強くなり、巫女の身体を金色の光で包み込んだ。


 彼女の黒髪が光を反射し、まるで聖なる存在のように輝く。鬼は思わず目を細め、彼女の姿に息を呑んだ。彼女の言う美しさが、確かにそこにあった。


 だが──それは彼が理解し、掴むことのできない、遠い光だった。




「お前は……本当に厄介な女だ」


 鬼は呟き、彼女を強く抱き寄せた。


 しかしその腕には、微かな躊躇いが混じっている。男は彼女のすべてを求めるあまり、自身が何かを見失いつつあることに、薄々気づき始めていたのかもしれない。


 巫女は鬼の腕の中で、静かに目を閉じた。







 ──…






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