天哭ノ鏡
行為を終え、巫女はぐったりと鬼の胸にもたれかかった。
彼女の身体は汗に濡れ、赤い痕が花弁のように散らばる白い肌が、偽物の昼の光に照らされてほのかに輝いている。
鬼は片手で彼女の華奢な身体を抱き寄せ、ふと──縁側(エンガワ)の床に散らばる桜色の和紙を指に挟んだ。影尾(カゲオ)が巫女に渡した、桜餅の包み紙だ。
「このような甘い菓子を好むのか?」
彼の声は低く、探るような響きを帯びる。和紙を指で弄びながら、巫女の顔をじっと見つめた。
巫女はまだ上擦った声で、息を整えながら答えた。
「普段は、あまり口にしません……。ですが美味しかったです」
彼女の声は震え、快楽の余韻が残る中でも、誠実に答える。
彼女の瞳には、以前のような敵意が薄れ、目の前の鬼へ共感したいという意思が宿る。
彼女は鬼の深層心理に、長く何かを求め続けた果てに積み重なった、やっかいな渇望(カツボウ)を垣間見ていた。
「わたしからも、あなたへ聞きたいことがあるのです」
「何をだ」
巫女は力を振り絞り、鬼の視線を正面から受け止めた。
「──…あなたが800年もの間、鬼界を離れて探し求めている何かについて」
「……!」
問われた鬼の表情が一瞬硬くなる。
瞳が鋭く光り、彼女を射抜くように見つめた。
「あの狐が喋ったか」
返す彼の声は冷たく、抑揚がなかった。
「その探し物が人の世にあるのではないのですか?だからあなたはこの境界にとどまって…──」
「お前が知る事ではない」
「……っ」
鬼はそれ以上答える気はないらしく、巫女を抱き上げ、縁側から屋敷の中へと入った。
彼女の身体はまだ熱を帯び、鬼の腕の中でくったりとしている。
そんな彼女が運ばれた先には、広間の一角に寝具が用意されていた。
それは巫女の普段の寝具とは似ても似つかない、雅(ミヤビ)で豪華なものだった。
畳の上に敷かれた厚い絹の布団は深紅と紫の濃淡で彩られ、金糸で縫い取られた雲龍の文様がほのかに光を反射している。帳台が四方を囲み、薄絹の几帳が柔らかな光を透かし、白檀の香炉から漂う香りが静かに空間を満たしている。
几帳の裾には繊細な刺繍がほどこされ、貴族の寝所を模したかのような荘厳さがあった。
「お前のためにと用意させた。ありがたく賜(タマワ)れ」
鬼は巫女を布団の上にそっと下ろし、言い放つ。
巫女は寝具の豪華さに驚き、鬼なりの気遣いを感じて心がわずかに温まる。
絹の滑らかな手触り、香炉の白檀の香り、薄絹の几帳が揺れる音──それらは、境界の異質な空気の中で、人の世の懐かしさを呼び起こした。
「……」
だが、すぐに彼女の顔色が暗くなる。
「わたしは、いつまでもここに留まるつもりはありません」
「……、何と言った?」
彼女の言葉に、鬼の黄金の瞳が攻撃的に光った。
座る巫女を見下ろし、睨みつける。
「俺の前から消えるつもりか?」
その声には、抑えきれぬ苛立ちが混じる。「逃げることを禁ずる」という自身の命令に対して、またもや反抗的な態度をとる彼女への怒りだ。
彼の命令に背こうとする存在は、彼女をのぞいて他に無い。
空気が強ばるのを感じる巫女だが、それでも堂々と相手に向き合い声をあげた。
「わたしは都(ミヤコ)を襲う人喰い鬼を討伐するためにこの場に来ました。ですが、あなたは──っ」
「黙れ!」
しかし彼女が何か言いかける前に、鬼の手が素早く彼女の首を掴んむ。
ググッ....!
長い指が喉に食い込み、彼女の息が詰まる。
「んっ‥‥‥んん‥!」
巫女は苦しげに顔を歪め、両手で鬼の腕を掴んだが、彼女の小さな手ではビクともしない。
「いなくなるのか?……っ……お前も」
「‥‥‥‥!」
彼女の瞳に恐怖が宿る。
それでも、なんとか目を閉じまいと耐えていた。
彼女は、怒る鬼の深層に孤独を感じ、その誤解を解きたいと願っているのだ。
「‥‥ん‥‥ぅ、ぅぅ‥‥‥ッッ‥!」
「……」
鬼は彼女の苦しむ様子をじっと見つめる。
いとも簡単にへし折れそうな細首が、手の中でビクビクと震える感触──。
....ポタッ
その時、彼女の目尻(マナジリ)から零れた涙が彼の手に落ちた。
「……っ」
鬼は憎々しげに歯を噛みしぎり、突然手を離した。
「チッ……」
そして舌を打った鬼は巫女を残し、奥の間へと去る。
巫女は咳き込みながら、絹の布団に崩れ落ちた。「待って」と呼び止める声は、息が苦しくて途切れ途切れだった。
「待っ…て……!」
(あなたが人喰いではなかったことを、謝罪しなければならないのに……!)
上手く伝えられなかった。残された巫女は悲しみにくれる。
彼女の心は、鬼への恐怖と、彼の孤独を理解したいという願いで揺れていた。
何度も肌を重ねたことで、彼女は鬼の強大な力の裏に隠された、言葉にできない寂寥を感じ取っていたのだ。それは、鬼自身が気づかぬほど深く、彼女の魂を強く揺さぶるものだ。
──だが、鬼の背中はすでに暗闇に消え、彼女の声は届かなかった。
──
場面が変わり、奥の間の暗闇を歩く鬼の姿があった。
屋敷の深い闇は、まるで彼の心そのものを映し出すかのようだ。
長い銀髪が揺れ、漆黒の着物が闇に溶け込む。足音だけが冷たく響き、静寂を切り裂く。
....ガタッ
ギィィィィィィ──
ふと、彼が近づくと、床の一角に隠された跳ね上げ式の戸が、ギィと低く軋む音を立てて開いた。
隠し扉である。
戸の下には石造りの階段が続き、湿った空気が彼の髪を巻き上げた。
鬼はそこを無言で降りていく。
階段の先は、まるで時間の流れが止まったような、冷たく重い空間だった。
シン────
その中央には、一つの鏡が祀られていた。
天哭ノ鏡(テンコク ノ カガミ)
その表面は、暗闇の中でも不思議な光を宿し、まるで星屑(ホシクズ)を閉じ込めたかのように輝いている。
鏡台は黒漆に塗られ、繊細な金蒔絵が月と流水の文様を描き、神聖な調度品を思わせる荘厳さがあった。鏡の周囲には、かすかな霊気が漂い、空間そのものが生きているかのように脈動している。
鬼が鏡の前に立つと、その表面に風景が映し出された。
人界の風景だ。遠くの山々が連なり、川が静かに流れ、人の住む里の灯りがちらつく。夕暮れの空には茜色の雲が流れ、田畑には稲穂が揺れている。
まるで生きた絵巻物のように、風景はゆっくりと動き、どこか懐かしい空気を漂わせていた。
だが、その美しさは、鬼の心に安らぎを与えるどころか、深い焦燥を掻き立てるだけのようだった。
「 " お前 " は、何処にいる……!?」
鬼は静かに呟き、黄金の瞳を目の前の鏡に注いだ。
「何故俺は……お前を見つけられぬ……」
彼の声には、800年にわたる探し物の重みが宿っていた。
鏡は彼の言葉に応えて、風景を次々と変えていく。
里から森へ、森から海辺へ、そして古びた社へと。だが、求めるものは見つからない。鬼の指先が鏡台の縁を握り、爪がわずかに木を軋ませた。
彼の内なる孤独は、鏡の光に映る人界の風景と共鳴し、静かに胸を締め付ける。
「鬼王さま」
突如、暗闇から声が響いた。
声の主は、鬼が使役する式鬼(シキ)だ。
黒い影のような姿で、闇そのものが形を成したかのような姿…。赤い目が闇の中でかすかに光り、恭(ウヤウヤ)しく頭を下げる。着物の裾が床を擦る音が、静寂をわずかに破った。
「……どうした」
鬼は鏡から目を離さず、聞き返す。
「鬼王さまの命に従い、人界で広まっている人喰い鬼の噂について調べて参りました」
「それで?」
「それに関連し、見て頂きたいものがございます。一度、鬼界にお戻りを」
そこまで話させて、ようやく鬼は鏡から視線を外し、横目で式鬼を一瞥(イチベツ)した。
「ならば行こう」
鬼は天哭ノ鏡に背を向け、暗闇の中を進んだ。
式鬼が先導し、屋敷の奥からさらに深い闇へと続く通路を抜ける。
通路の壁には、かすかに苔が生え、湿った空気が肌にまとわりつく。やがて、彼らは鬼界へと通じる門にたどり着いた。門は黒鉄ででき、表面には古(イニシエ)の文字が刻まれ、触れる者を拒むような冷たい妖気を放っている。
門が開くと、闇の向こうに赤黒い空が広がり、遠くで雷鳴のような響きが轟いた。
「……」
鬼は一瞬、背後へ振り返った。
屋敷の中、巫女が残された広間を思い出すかのように。
彼女の清らかな声、言いかけた言葉──それらが、鬼の心に波紋を残していた。
だが、彼はすぐに前を向き、式鬼と共に鬼界へと踏み込んだ。
そこは、人の世とも境界とも異なる、冷たく重い空気が支配する世界だ。赤黒い空の下、妖気に満ち満ちた大地が、鬼王の帰還を静かに迎えた。
──…
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます