第16話
目を覚ますと薄暗い洞穴にいた。
獣臭いのは仕方がないとして、もこもこの毛皮はなかなかいい。めちゃくちゃ暖かい。ごつごつした岩肌もこれがあったら柔らかいベッドみたいだ。寝心地、最高。
熱を出したらしい。
全身だるいし、気分もよくない。頭が割れそうなくらい痛むし、左腕は感覚がない。このまま二度寝したいな。
でも声が聞こえる。きっとジャスティスだと思う。すごく遠くて、よく聞こえない。
「それなら早く戻らなくちゃ」
「そうだよ、どこにいるんだい?」
メルディだ。探してるのかもしれない。見つかりたくない。戻りたくないんだ。
俺は起き上がると、辺りを見回した。
杖になりそうないい感じの枝がある。これくらい、狼男も許してくれるだろう。
何とか立ち上がって、枝をつきながら、俺は声から離れるように進んだ。
どんな理由でも、村に戻るのは嫌なんだ。冷たい視線を浴びて、石を投げつけられて、ジャスティスといるしかないんだから。トイレと仲良くする夜ももうごめんだ。
洞穴はいくつも出口があるらしい。ありがたい。風を追えば、俺でも出口くらい見つけられた。暗いし、目がかすんでよく見えないから、壁伝いにゆっくり歩いた。
外はすっかり明るくなっていて、目がくらむ。
もっと離れなくちゃ見つかってしまう。逃げなくちゃ。村に連れ戻されたら、もうピアノは弾けない。旅も終わる。メルディやベンと、一緒にいられなくなる。もうあんな狭い村にいたくない。もうあんな冷たい視線、浴びたくない。
ズルズルと体を引きずって、しばらく進んでから木陰で休んだ。
重たい体に腹が立つ。どうして、ちゃんと動かねぇんだよ。
様子をうかがうけど、誰かが追ってきているような気配はない。
いいことだ。このままどこかの町まで行こう。そこでメルディ達と落ち合えばいい。ダメならダメでいい。どうせ死ぬ筈だったんだ。今更死にたくないなんて、言えるような立場じゃないんだ。もう一回なんて言ってたら、いつまでたっても死ねなくなっちまう。
俺はまた少しずつ進んだ。枝に体重をかけて、ゆっくりゆっくり歩いた。
山頂に近いところだったらしい。少し降りて行けば山の間から、大きな青い地面が見えた。まるで野原みたいだ。でも空みたいに真っ青なんだ。きっとあれが海だ。地平線の彼方までその青が続いていて、空との境目が分からない。でもキラキラしていて、まぶしい。
俺は木陰に座り込むと、そのまま海を眺めた。枝を近くに放り出す。
風が湿っていて、変わった匂いがする。塩の匂いかな? しおかぜっていうんだっけ? これの事をいうのかな? 思ってたのとはちょっと違うけど、気持ちがいい。ずっとここで、この景色を見ていたいな。ベッドにいるよりずっといい。
連れ戻されたら、ババアにまたなんかされて、一人で見慣れた村を木陰で眺める、そんな毎日が待ってるんだろうな。熱を出したらごわごわの布団から出られなくて、窓から外を眺めても、こんなきれいなものなんて見えないんだ。見慣れた薄暗い森が見えるだけ。
毎日が色を失くしたみたいに、白と黒だけになって、温かいと感じるものもなくなってしまう。息をする事すら鬱陶しくて、苦しくなった心臓がそのまま止まってしまえばいいと思うんだ。また音のならないテーブルを、指で叩く事になる。耳にかすかに残った記憶だけが、色を失くしたピアノの音を鳴らすんだ。
あんなのもう嫌だ。
俺だって、ちゃんと本を読めるようになりたい。自分の名前くらい書けるようになりたい。ちゃんと自分でチップを数えたい。ちゃんと自分で自分のお財布を持ちたい。
俺は膝を抱えて、俯いた。
ビン、置いてきちゃったな。俺の大切なもの、もうなんにもなくなっちまたんだ。残ったのは消してもらった筈の傷跡だけ。
胸が痛くて、苦しくて仕方がなかった。息も出来ないくらい。ズキズキと治りかけの腹の傷なんかよりずっと痛む。ヒリヒリする左腕なんか比じゃない。
メルディとベンの柔らかい体温を感じる、あの真ん中に戻りたい。乱暴でも温かい二人の手が頭を撫でてくれる、あの場所がいい。あそこがいいんだ。
初めて、居場所なんだって思えたんだ。
初めて、そこが帰るところなんだって思えたんだ。
村のどこにもそんな場所なかった。
どこにも行くところなんかなかった。
村外れの木の下も、自分の家の部屋でさえ、居場所だなんて思えなかった。帰るところだなんて思えなかった。ここにいたいなんて、思った事なかった。
なのに、ほんの少ししか一緒にいない二人の間に、本当に帰りたいって思ったんだ。すごく安心して眠れるんだ。暖かくなるんだ。すごく落ち着くんだ。変だろ?
まぶしいから、俺はフードを深くかぶりなおした。ついでに冷たい風を遮るように、ローブの前をくっつける。
一人って寒いな。こんなに晴れてるのに。一人って、こんなに寒かったっけ?
「クライブ」
俺を呼ぶ声が聞こえて、後ろを見た。
メルディが立っていた。一人みたいだ。他に人はいない。
「みんな、探してるよ」
俺はメルディを見上げた。
なんて返そう。なんて返したらいい? 答えなんて分からなかった。
「腕、出しな」
メルディはそう言うと、俺の隣りにしゃがんだ。怒ってないみたいだった。
俺は黙って左腕を持ち上げた。だるいし、上手く力が入らない。でもちゃんと手当してくれたらしい。包帯が巻いてあった。火傷したみたいにヒリヒリする。
メルディはぼそぼそと、また呪文を呟いた。
あの時と同じ、柔らかい光りがキラキラと輝く。こんなに晴れているのに不思議だ。
光りが消えると体はすごく楽になった。もうだるくない。腕だってちゃんと動く。
「戻りたくないんなら、それでもいいよ」
メルディが急に言った。そして俺の隣りに座った。
長い髪が風に揺れる。宝石みたいな緑の目も温かい。どうしてだろう。見つかったのに逃げ出したくない。
俺はメルディの肩にもたれた。
「村には戻りたくない」
俺の髪を撫でる手が心地いい。ほっとした。心の底から安心した。
もう嘘でもいい、血が目当てでも構わない。メルディのそばにいたい。
「一緒にいてくれる?」
俺は尋ねた。
すごく不思議だったんだけど、俺は真っ直ぐメルディの目を見る事が出来たんだ。あんなに嫌だったのに、今は嫌じゃない。だってその目がいつだって、俺を冷たく笑ってる事なんてなかったから。
メルディはにっこりと笑ってうなづいた。
「クライブが嫌になるくらいの間はね」
そしてメルディは手を伸ばして、俺の事をぎゅっとした。ちょっと苦しいと思うくらい、強く。すごく温かかった。メルディは悪魔なのに、太陽みたいに暖かいんだ。ほっとした。そう、心の底からほっとしたんだ。
気付くと自分の頬が濡れていた。視界がぼやける。
「泣いてんの?」
メルディに言われて気が付いた。
両手で拭っても止まらない。
「俺、泣いてる?」
「何、言ってんだい?」
「涙、出てる」
メルディがハンカチで拭ってくれた。
「アンタ、自分で何を言ってるか分かってる?」
俺はメルディを見上げた。
「俺、ちゃんと泣けてる」
ただ、涙が出るのが面白かった。どうして出てるのかも分からないのに、涙が止まらなくて面白いんだ。バカみたいだろ?
また、胸がドキドキする。これは楽しいじゃないよな? なんていうんだろう。でも嫌な感じじゃない。どっちかというと少し苦しいけど、好きだと思う。嫌いじゃない。
「これはなんて言うの? 楽しいに似てる」
メルディは困った顔で俺を見ていた。
「嬉しいじゃないかい?」
そうか、俺、今うれしいんだ。なんでうれしいのか分からないけど。
俺はメルディの肩にもたれた。温かい。
「俺、うれしいんだ」
自然と俺は笑っていた。涙は出てるのに、うれしくて、楽しくて、なんかめちゃくちゃだけど、笑えて仕方がなかった。メルディにも笑われたけど、気にならなかった。
日が暮れる前に、馬車に戻った。
メルディと歩いていたら、ジャスティスが飛びついてきて、レイチェルもベンも怒った顔で心配したって言った。
俺はそれがうれしくて、ちゃんと謝ったけど、笑った。
「クライブ、どこかぶつけたの?」
ジャスティスに真顔で言われたけど、俺は大丈夫と答えた。
本当になんともない。
でも不思議と世界が、いつもよりずっとキラキラと輝いて見えた。世界ってこんなにきれいな色だったっけ?って、思うくらい。今まで見えていたのは何だったんだろう。今見える世界は、どれもすごくきれいだ。
俺はレイチェルに尋ねた。
「あの人達、帰った?」
「待ってるって言ってたよ」
レイチェルはそう答えた。
しがみついてたジャスティスが、顔を上げて俺を揺す振る。
「戻ろう、クライブ」
冗談かと思って、俺は何言ってんの?と軽く返すだけ返して、さっさと馬車に乗る。
後ろからジャスティスが追いかけてきた。
「クライブ、戻ろうよ」
俺は振り向いて、ジャスティスを見た。
ジャスティスは真顔で立っていた。
「なんで戻ろうとか言うんだよ?」
「だって、それはクライブが……」
俺は馬車を降りて、ジャスティスに掴みかかった。レイチェルとベンが間に入ってきたけど、手は離さなかった。
「俺がなんだよ?」
「言えない」
ジャスティスはそう言って顔を背けた。
めちゃくちゃ腹が立った。こんなに怒ったの、はじめてかもしれない。
俺はジャスティスを思い切り突き飛ばした。
「そうかよ、だったら一人で戻れ」
俺はしりもちをついたジャスティスに言った。
結局いつも通り、俺が痛い思いするだけじゃねぇか。ふざけんな。
「お前はいつだってそうだ。俺が刺された時も、殴られた時も、狼男に血をやった時だって、俺の影にいて見て見ぬふりするだけじゃねぇか!」
俺は怒鳴った。
「いつだって俺ばっかり我慢して。なんでお前みたいな奴、守ってやってたんだろ」
俺はそう言うと、ジャスティスを見下ろして言った。
「もう知らねぇ。勝手にしろよ」
レイチェルが俺の腕を捕まえる。ジャスティスと俺の間に割り込んでくる。
「クライブ、ねぇ落ち着いて」
「だったらレイチェルが、あいつのお守りすればいい」
ジャスティスはうなづいた。
「そうだよ、その通りだよ」
ベンがジャスティスを止めようとしたけど、アイツ、しれっとその手を払った。
「クライブの言う通り、ずっと守ってもらってばっかりだった」
ジャスティスはそう言って、レイチェルと俺の間に割り込んできた。
「だから今度はオレが守る番だよ」
ジャスティスは真っ直ぐ、俺を見ていた。見た事ない、怖いくらい強い目をしていた。
「みんなとここにいて。オレが話してくる」
ジャスティスはそう言うと、ぱっと一人で走って山奥に消えて行った。
どこに行ったんだか。あいつ、本当にバカなんじゃねぇの? じき、日も暮れるっていうのに。レイチェルだけが心配そうに、ジャスティスの背中を見送っていた。
メルディとベンが俺に言う。
「クライブ、嫌なのは分かった。でも今はジャスティスと行った方がいい」
「心配なら一緒に行って、連れ戻してあげるから」
俺は二人の顔を見た。
メルディもベンも真顔だ。何も嘘は言ってないように見える。
「どうして?」
俺は尋ねた。
「それはちゃんとご両親から聞いた方がいいと思う」
メルディはそう言って、俺の頭を撫でた。
流石にそんな手で大人しく従うほど、あの人達には価値なんかない。むしろ借金に近いと思う。いいところなんてなんにもない。燃えるゴミなんかじゃない。粗大ゴミだ。
俺はメルディの手を払った。そのまま後ろに下がってすぐに動けるように間合いを取る。
「一緒にいてくれるって言ったのに、どうして?」
「一緒にいるよ」
メルディは言った。
「ただ、今はちゃんと話を聞いてきな。一緒に行くから」
ああ、やっぱり。俺、またからかわれてたんだ。
メルディだってあんな人達の話を聞きに行ってこいなんて言うんだ。やっぱり嘘だったんだ。なにもかも、全部。
「絶対行かない。会いたくない」
俺はそう返すと、そのままになっていた剣を拾い上げた。
うちの玄関にあったあれだ。重いし、振るうのは大変だ。使い古されてるからか、切れ味もあんまりよくなさそうだ。大体、俺もジャスティスもこの剣は手入れしてないもんな。飾りだと思ってたくらい。本当だったら俺やジャスティスみたいな体系の親父にも合ってないんだ。熊みたいな大男が振るう剣だもん。どうしてあの人がこれを振るったんだか、さっぱり分からない。
俺には向いてないけど、それでも武器がないよりよっぽどいい。
今は何にも考えたくない。聞きたくない。
「分かったよ。分かったから、もうやめとくれよ」
白いきれいな手が俺の右手に向けられる。
「それ、よこしな」
俺はメルディに尋ねた。
「渡したら、どうする?」
「処分するけど、クライブが不安ならあの剣、返してもいいよ」
メルディはゆっくりと言った。
ベンがため息をついた。
「いいのか?」
「もうクライブは腹切ったりしないよ」
メルディははっきりそう言った。
なんだかうれしかった。
今の言葉だけは嘘じゃないって、信じたい。他のは嘘でも、これだけは……。
俺は刃を自分に向けて、持ち手をメルディに向くように剣をひっくり返した。そしてそれを差し出した。メルディは黙ってそれを受け取った。
でも分からなかった。どうしてメルディやベンまで話を聞いて来いなんて言うのか。あの人達と話す事なんか何にもないのに。
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