五
時間は、何の区別もなく、全てを洗い流していった。
私は、高校を卒業した。
卒業証書は、ただの紙だった。そこに、意味はなかった。
数年後。
私は、郊外の大きなスーパーで働いている。
惣菜コーナー。白い帽子と、白いエプロン。
髪は、茶色に染めた。安い染料の匂いがする。
かつての色は、もう思い出せない。
仕事は、ポテトサラダをパックに詰めること。
グラムを測って、ラップをかけること。
何も、考えなくていい。
それで、よかった。
休憩室では、パートの主婦たちが話している。
テレビドラマのこと。子供のこと。旦那さんのこと。
私は、ただそこに座っている。
彼女たちの言葉は、昔、雨の日に聞いた、意味のない音みたいだ。
誰も、私の名前をちゃんと知らない。
「スノワさん」と呼ぶ人もいない。
私は、ただの、「無愛想なパートさん」。
それで、よかった。
私は、結婚した。
相手は、地元の工場で働いている人だった。
恋愛ではなかった。ただ、一人は、少し、怖かったから。
夫は、優しい人だと思う。でも、私のことは何も知らない。
昔のこと。ロシアのこと。本のこと。新体操のこと。
興味もないみたいだ。
彼にとって私は、「まあまあ綺麗で、文句を言わない奥さん」。
それで、よかった。
小さなアパート。
壁には、夫が好きなアイドルのポスターが貼ってある。
私が昔、難しい本を並べていた本棚には、今、漫画と、スーパーのチラシが置いてある。
私には、子供がいる。
男の子。
学校の成績は、普通。運動も、普通。
友達と、いつもゲームの話をしている。
それで、よかった。
普通が、一番いいのだと、夫は笑う。
私も、そう思うことにした。
ある日の夜。
夫は、テレビを見て笑っている。息子は、自分の部屋で、友達と話している。
私は、台所で、油のついたお皿を洗っていた。
スポンジの泡が、ぬるぬるしていた。
息子の部屋から、声が聞こえる。
「うわ、今のマジ神じゃん!」
「てか、明日のテスト、だるくね? 全然わかんねーし」
その、言葉。
その、声。
その瞬間。
私の中で、何かが、止まった。
お皿を洗う手が、止まった。
昔、私がいた教室。
グループディスカッション。
周りの子たちが、話していた。
私は、それを聞きながら、心の中で、馬鹿にしていた。
なんて、凡庸なんだろう、と。
でも、今。
私は、違う。
あの時、私が馬鹿にしていた「有象無象」の、その一人になっている。
いや、違う。
私は、彼らを生み出し、彼らのいるこの世界を、当たり前のように支えている、背景そのものになっていた。
ドストエフスキーを読んでいた私が、今、息子の凡庸な未来のために、皿を洗っている。
新体操で、世界の法則そのものになれると信じていた私が、今、特売のチラシを見て、献立を考えている。
劇的な不幸はない。
誰かに、ひどいことをされたわけでもない。
ただ、静かで、平凡な毎日が、ここにあるだけ。
ああ。
これこそが、罰なのだ。
「特別」でなくなった私に与えられた、永遠の。
死ぬまで終わらない、地獄。
窓ガラスに、私が映っていた。
疲れた顔の、知らない女。
外は、雪が降っていた。
「……あ」
声が、漏れた。
でも、その声に続く言葉は、もう、何一つとして、私の中にはなかった。
美しいとか、悲しいとか、寒いとか。
そういう感情も、言葉も、全部、昔に置いてきてしまったから。
雪は、ただの白いゴミのように、この凡庸で、どこにでもある灰色の世界に、音もなく、降り積もっていく。
私も、そのゴミの一つ。
溶けて、消えて、見えなくなる。
ただ、それだけ。
それだけだった。
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