時間は、何の区別もなく、全てを洗い流していった。

 私は、高校を卒業した。

 卒業証書は、ただの紙だった。そこに、意味はなかった。


 数年後。

 私は、郊外の大きなスーパーで働いている。

 惣菜コーナー。白い帽子と、白いエプロン。

 髪は、茶色に染めた。安い染料の匂いがする。

 かつての色は、もう思い出せない。

 仕事は、ポテトサラダをパックに詰めること。

 グラムを測って、ラップをかけること。

 何も、考えなくていい。

 それで、よかった。


 休憩室では、パートの主婦たちが話している。

 テレビドラマのこと。子供のこと。旦那さんのこと。

 私は、ただそこに座っている。

 彼女たちの言葉は、昔、雨の日に聞いた、意味のない音みたいだ。

 誰も、私の名前をちゃんと知らない。

「スノワさん」と呼ぶ人もいない。

 私は、ただの、「無愛想なパートさん」。

 それで、よかった。


 私は、結婚した。

 相手は、地元の工場で働いている人だった。

 恋愛ではなかった。ただ、一人は、少し、怖かったから。

 夫は、優しい人だと思う。でも、私のことは何も知らない。

 昔のこと。ロシアのこと。本のこと。新体操のこと。

 興味もないみたいだ。

 彼にとって私は、「まあまあ綺麗で、文句を言わない奥さん」。

 それで、よかった。


 小さなアパート。

 壁には、夫が好きなアイドルのポスターが貼ってある。

 私が昔、難しい本を並べていた本棚には、今、漫画と、スーパーのチラシが置いてある。


 私には、子供がいる。

 男の子。

 学校の成績は、普通。運動も、普通。

 友達と、いつもゲームの話をしている。

 それで、よかった。

 普通が、一番いいのだと、夫は笑う。

 私も、そう思うことにした。


 ある日の夜。

 夫は、テレビを見て笑っている。息子は、自分の部屋で、友達と話している。

 私は、台所で、油のついたお皿を洗っていた。

 スポンジの泡が、ぬるぬるしていた。


 息子の部屋から、声が聞こえる。


「うわ、今のマジ神じゃん!」

「てか、明日のテスト、だるくね? 全然わかんねーし」


 その、言葉。

 その、声。


 その瞬間。

 私の中で、何かが、止まった。

 お皿を洗う手が、止まった。


 昔、私がいた教室。

 グループディスカッション。

 周りの子たちが、話していた。

 私は、それを聞きながら、心の中で、馬鹿にしていた。

 なんて、凡庸なんだろう、と。


 でも、今。

 私は、違う。

 あの時、私が馬鹿にしていた「有象無象」の、その一人になっている。

 いや、違う。

 私は、彼らを生み出し、彼らのいるこの世界を、当たり前のように支えている、背景そのものになっていた。


 ドストエフスキーを読んでいた私が、今、息子の凡庸な未来のために、皿を洗っている。

 新体操で、世界の法則そのものになれると信じていた私が、今、特売のチラシを見て、献立を考えている。


 劇的な不幸はない。

 誰かに、ひどいことをされたわけでもない。

 ただ、静かで、平凡な毎日が、ここにあるだけ。


 ああ。


 これこそが、罰なのだ。

「特別」でなくなった私に与えられた、永遠の。

 死ぬまで終わらない、地獄。


 窓ガラスに、私が映っていた。

 疲れた顔の、知らない女。

 外は、雪が降っていた。


「……あ」


 声が、漏れた。


 でも、その声に続く言葉は、もう、何一つとして、私の中にはなかった。

 美しいとか、悲しいとか、寒いとか。

 そういう感情も、言葉も、全部、昔に置いてきてしまったから。


 雪は、ただの白いゴミのように、この凡庸で、どこにでもある灰色の世界に、音もなく、降り積もっていく。

 私も、そのゴミの一つ。

 溶けて、消えて、見えなくなる。

 ただ、それだけ。

 それだけだった。

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