91話 ~静かな殺戮~

夜が更けるにつれ、雨脚はさらに強さを増し、風に揺れる木々がざわめく音が耳を打つ。

優人の立てた作戦を遂行するには理想的な天候――だが、冷たい雨と風は普通に不快だ。


濡れた山道を、傘も差さずに1人で歩く優人の足音だけが、静かに暗闇へと溶けていく。

時刻は午前3時。

奇襲にはうってつけの時間帯だ。


やがて大橋を渡り、100メートルほどの森道を抜けると、視界が一気に開ける。

そこには無数のテントが立ち並び、地面を叩く雨粒がビニールを打つ鈍い音が重なり合っていた。

スールム兵による、砦を囲む野営地である。


本来なら見張りがいて当然だ。だが――1人もいない。

優人は口元をわずかに歪めた。


――気が緩んでいるな。


籠城攻めに参加しているのは、戦士ではなく民間人。

雨の不快さに甘えて見張りをサボっているのか、それとも最初から気を抜いているのか。

つい先日、ジールド・ルーンの援軍が来たばかりという油断もあるのだろう。

いずれにせよ、優人にとっては好都合だ。


彼は木陰に身を潜め、そっと目を閉じる。

両手を胸の前で合わせ、ぎゅっと押し合い、胸の筋肉が張るのを感じながら呼吸を整える。

戦いの前、優人がいつも自分を落ち着かせるために行う儀式だ。


* * *


天上界で初めて斬ったのは狼だった。

その後、山賊。人食いの大熊。

デュークの部下の矢も痛かったな……。

ゾンビ、カルマ、そして麒麟――。


次々と脳裏に蘇る戦いの記憶。

麒麟との戦闘では、まるで一方的な死刑宣告だった。

あのときの雷撃の恐怖に比べれば、今の恐怖はまだ理性で押さえ込める。


怖いのは死ぬことじゃない。

何もできずに終わることだ。


――13年前。

優人が埼玉の山奥で仕事に追われている間に、綾菜はこの世から消えた。

最後に会えなかった悔しさは、今でも胸を刺す。


遠征に送り出したのは、ほかでもない綾菜だった。

「私のために、無理して仕事を抜けるのは嫌だから」と笑い、優人を行かせた。

本当は違ったのに。

優人にとって大事なのは、仕事でも地位でもなく、綾菜ただ1人だった。


――だから、伝えたい。

『俺はこの世界の何よりも綾菜が大切だ』と。


いいか、俺を作るすべての細胞たち。

この8,000人の先に綾菜がいる。

ここで死ぬかもしれない。殺されるかもしれない。

だが、止まるな。

たとえ腕をもがれ、心臓を貫かれようと、最後まで進め。

死んでも、綾菜を救え!


ぱちりと目を開けた瞬間、震えていた体から恐怖が抜け落ちた。


「……行くぞ。」


気配を殺し、雨の中を音もなく歩く。

やがて、ぼんやりと歩くスールム兵の影を見つけた。


優人は歩幅を広げ、加速する。


ドスッ。


抜き打ちで喉を突き、そのまま横に払う。

空気の漏れるような音を立てながら、兵士は血を吹き、崩れ落ちた。


――単独行動。


戦場で、最もやってはいけない行為だ。

こんな無防備な集団――素人同然だと知れた。


優人はテントに足を踏み入れる。

暗闇の中で寝息を立てる10人の兵士。

1人、また1人と、喉を突き、横に払っていく。

動脈を断ち切る音と血の飛沫。だが、雨が全てをかき消す。


テント内の兵士を全員仕留めると、優人は足元に転がっていたランタンを拾い、火をともした。

闇の中に長くいたせいか、久々の光に、少しだけ心が落ち着く。


灯りに照らされて見回したテントの奥――漆黒のマントが目に止まった。

背には、スールムの国章と思しき紋章が大きく描かれている。


優人はそれを手に取り、羽織った。


――これで、スールム兵に見えるか?


自分に問いかけるように呟くと、静かにテントを後にする。

外は相変わらず、容赦なく雨が降り続いていた。


騒ぎになる前に、1人でも多く――。

優人は再び気配を消し、次のテントへ潜り込んでいった。


* * *


優人と綾菜の距離――残り9.5キロ。

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