第12話

 宿に着くと、千里は二部屋お願いしますと主人に声をかけた。小柄で恰幅の良い、眼鏡をかけた中年の男性は彼女の後ろに立つ千春を見つけると、おやおやと眼鏡を光らせる。

「千春君が女性を連れてうちに泊まるなんて初めてじゃないかい? 桐ちゃんあたりが大騒ぎしてしまうねえ」

「桐ちゃんには説明してあるので大丈夫ですよ。それに、彼女はうちのお客さんですから」

 主人の冗談とはわかりつつも、千春はやんわりとそういった関係ではないと告げる。桐が千春にぞっこんなことは村人の常識なのか、微笑ましい目で見守られているようだ。

「あの、お部屋に蛇って連れ込んじゃ駄目、ですよね?」

 少し迷ったが、千里は正直に告げることにした。このまま帯締めの振りをして突破するものだとばかり思っていたらしい蛇は目を見開いたが、宿の主人はちらりと白い蛇を眺めるとふるふると首を横に振る。

「いや、部屋を汚したり暴れたりせんかったら大丈夫だとも。あ、でも食堂は他のお客さんもいるから遠慮してくれるかな」

「わかりました、ありがとうございます」

 懐の広い主人で助かったと感謝しながら、千里は頭を下げた。そして二人はそれぞれ部屋の鍵を受け取ると、いったん別れて自分たちの部屋に荷物を置く。

「持っていくのはお財布とハンカチくらいでいいかな」

「娘、これは何だ?」

 千里が旅行鞄を開いて持ち歩く物を整理していると、帯に巻き付いていた蛇が紙箱の匂いを嗅ぐかのように頭を近づける。

「娘って……そういえば、名前教えてなかったっけ。私は千里。千の里って書くの。それは最中だよ、ヴィオさんっていう人から分けて貰ったんだ」

 半滝旅館で差し入れを貰ったヴィオが、お前たちにも分けるといって二人に手渡したのは箱に入った最中だった。湿気る前に食えと言われたが、千里は何かあった際の非常食として残しておこうと思いまだ手を付けていない。

「もしかして、食べたい?」

「いや、我は蛇ぞ? 食わんわそんなもの」

「それもそっか、普通の蛇じゃないって言ってたからてっきり何でも食べるのかと思った。……ところで、貴方の名前も聞いていい?」

 いつまでも蛇さんと呼ぶのも忍びない。千里が名を尋ねると、白い蛇は胸を張るように胴体を持ち上げた。

「聞くのが遅いわ! まあいい、神聖かつ麗しい我が名を聞かせてやろう。我の名はとおるだ! センリが名付けてくれた!」

「融ね、わかった。……ねえ、ベルニュートって暑い国らしいんだけど融は暑いの平気?」

「苦手だが。我、蛇ぞ? 適温環境を所望する」

 そんなこと言われてもな、と千里は窓際に置いてあった座布団に腰かけて頭を悩ませる。かつてセンリと過ごしたという人語を話す蛇こと融は、彼女の面影を感じる千里に付いていくと言って聞かず、腰から離れようとしないのだ。

「まあ、トゥルフは緑地もあるし国境沿いで雨も降るから、王都よりは過ごしやすいだろうって聞いたけど……」

「なあ、本当に隣国へ行くのか? そなた、センリと同じ万化の巫女なのであろう?」

「……千狸浜を救わないのか、ってこと?」

 当然その疑問に至るだろうなと千里は軽く息を吐く。現状、千狸浜は手詰まりだ。千春たち古泉家の人間は気を遣って詳細を言わなかったようだが、ヴィオによると千狸浜の困窮はあえて見過ごされ、この地の管理者がいなくなることを国は望んでいるという。

 神園大社という上ノ國の政を司る機関に唯一成り代われる可能性を持っているのが千狸浜神社だからという彼の言葉は、いかにセンリという存在が偉大だったかを示している。しかしながら、千里にはその後継を名乗る覚悟はなかった。

「正直、色々な意味で力不足だと思う。センリ様と違って、私は自分の祓具ってものを持ってないし……何より、怨霊退治ならまだしも復興ってなると知識も経験も無いわけだし」

 経営シミュレーションゲームではないのだから、失敗してもやり直せばいいなどという救済措置はない。人々はこの土地で一度しかない今を生きているのであり、軽い気持ちで手を出していいものではないのだ。

「祓具? ああ、センリもよく思う様に作れんと喚いておったわ」

「……じゃあ、やっぱりセンリ様も好きに作り出せたわけじゃないんだ?」

「うむ、あやつが一番好んで使っていた槍も、戦場で倒れた兵が握っていたものを無我夢中で振り回していたらいつの間にか祓具になっていた、とかいう流れだったはずだぞ」

 昔の記憶を呼び起こすように蛇が頭を傾けると、千里は腕を組んで思案する。

「ってなると、私とセンリ様の違いってほとんどない感じ? あ、センリ様って霊力が見えてたかどうか知ってる?」

「見えとらん。だから最前線に突っ込んで槍を振り回して『いつかは当たる』と言っていた。その内霊力を可視化できる祓具を作ったはいいものの、使い勝手が悪いとか言ってほとんど使わんかったな」

 千春とのやり取りでの推測通り、センリにも霊力は見えていなかったことが確定した。であるならば、千里はいよいよもって自分とセンリの差異がほぼ存在しないことを認めざるを得ない。

 しかしだからといって、千里がセンリと同等の功績を残せるかと言えば、それは別問題だ。

「まあ、センリはそれ以外に重要な役割も担っておったぞ」

「具体的には?」

「霊力の供給担当だ。お主もセンリと同じで大量の霊力を所持しとるっぽいが、いかんせん万化の巫女は外部へ霊力を出力する行為が苦手と見える。しかし、あやつの傍には舞夜がいたからな。我はあやつを好いておらんが、センリとの相性はすこぶる良いことは認めざるを得んわ」

 確かセンリ様の旦那さんだっけと千里が脳内で状況を整理していると、戸口の向こうから『今大丈夫かな?』と声がかけられる。千里が内鍵を開けてどうぞと答えると、ゆっくりと引き戸が開かれた。

「千春さん、休んでなくて大丈夫ですか?」

「うん、もうほとんど影響ないよ。……試しに触ってみる?」

 今度は大丈夫だから、とでも言うように、千春は自ら腰を曲げる。それならばと千里が再び彼の額に手のひらを当てると、確かに先ほど感じた熱っぽさは消えていた。

「……おでこを冷やしてごまかそうとしたりしてないですよね?

 千里が疑うような素振りを見せると、千春は苦笑いを浮かべて肩をすくめた。

「俺ってそんなに信用なかったんだ……。その、俺が森に立ち入れるのは俺の性質が瘴気対策に有効だからなんだよ。ほら、俺って自分の霊力を物に吹き込むだろう? その応用で、身体に悪影響を与える瘴気もある程度体外に排出できるんだ」

 先ほどはコウ太を探すことを優先させてその対処を後回しにしていたと千春が付け加えると、千里は納得いったように頷く。

「ああ、紙に瘴気を移せるってことですね。……っと、そうだ、丁度千春さんに聞きたいことがあったんです。センリ様の旦那さんの、舞夜さんのことで」

「初代様のこと?」

「はい。融によると、舞夜さんのおかげでセンリ様の弱点がある程度緩和されていたようなんです」

 何かご存じありませんかと彼女が訪ねると、千春は思案するよりも先に、千里の帯に我が物顔で巻き付いている蛇を見下ろす。

「融って、その蛇のことかい?」

「あ、そうです。センリ様が名付けて下さったらしいですよ」

「ふん、舞夜の詳細などろくに残っておらんだろう。偏屈で陰湿なヤツだったからな、身内にすら冷たい奴であったわ」

 千里が千春の質問に答えると、融は吐き捨てるようにそう話す。それに対し、千春は考え込むように少し俯いた。

「そうだね、確かに初代様の記録はほとんど残ってない。君の言う通り、情報を残したくなかったんだと思う。けど、初代様がセンリ様の弱点を補っていたっていうのは?」

「……舞夜はセンリの霊力を『吸収』しておった。やつは様々な術の才を持っておったが、持って生まれた霊力自体は質も低く量も乏しくてな。それまでは相手から霊力を奪ってやりくりしていたと聞くぞ」

「そっか、センリ様は霊力は高くて量も豊富だったけど、使う事に関しては上手くはなかったから……」

 その二人が組めば、強力なタッグが完成する。融が二人の相性はすこぶる良かったと話していたのはその為かと千里が納得していると、その向かいで千春もまた合点がいったように頷いた。

「確かに、それなら記録に残さないのも理解できるよ。万が一悪用されたら、手が付けられなくなる可能性もある性質だからね」

「悪用って、情報をですか?」

 舞夜が生きていたのは遥か昔、センリが健在だった時代だ。彼が自身の性質を記録に残さなかった理由としては、やや納得がいかない。すでに故人なのだから、彼がどのような能力を持っていようが今の人々には関係ないだろうと千里は考える。

「そう、厳密に言えばその情報を元にして、初代様を呼び出そうって考える人が現れるかもしれないんだ」

「……呼び出す?」

 そんな式神じゃあるまいし、と千里はポケットから顔を覗かせるむーたんを見下ろす。しかしむーたんは現在のやりとりに興味が無いのか、頭上に見える融の腹をぼーっと眺めていた。

「鈍いなお主、降霊術を忘れておるぞ? 要するに、舞夜の性質が広く知られると悪用しようとして奴めを降霊させようとする輩が現れかねん、という話だ」

「なるほど、降霊術」

 どうやらここいらでは当たり前の知識のようだが、いかんせん千里は現代っ子である。融の指摘で流れを理解した彼女は、性質を秘匿するまでの経緯を把握した。

「ちなみにその降霊術って、確かちづ婆様も扱えるんですよね。珍しい能力なんですか?」

「珍しいか珍しくないか、で区分するのであれば珍しい方に入るかな。でも能力は人それぞれで、悪く言えばピンキリなんだ。降霊対象に有無を言わさず魂を引っ張ってこられる人もいれば、成仏していない浮遊霊に身体を貸すのが限度の人もいる。対象が強い霊力を持っているほど呼び出しに抵抗されるんだけど、融の話だと舞夜さんは霊力自体は高くなかったって話だから……」

「降霊術を悪用されたら呼び出されるかもしれない……それってつまり、舞夜さんが憑依した人は舞夜さんの性質を扱えるようになるってことですよね?」

 でなければ情報の秘匿などしなくていいはずだと千里が訪ねると、千春はこくりと頷いた。

「うん、霊力の強さと容量自体はどうにもならないけど、性質は操れるようになる」

「あれ、ってことはちづ婆様ってもしかして舞夜さんを呼び出すこともできたりするんですか?」

 千冬の話によると、千鶴は『呼応』の性質を持つ降霊術の使い手だ。もしも彼女が自身に舞夜を憑依させれば相当な戦力になるのではと千里は考えたが、千春は彼女の問いを肯定しつつもどこか浮かない顔をする。

「理論上は、可能だよ。……すでに、何度か試しているんだけどね」

「え?」

「千狸浜がああいう状況になって、縋れるものには縋ってみようって恥を忍んで初代様の降霊を試みたんだ。当時のお話を聞ければ、何か解決策が見つかるかもしれないから」

 けれど悉く失敗に終わり、成果はなかったと千春は告げる。

「ふん、舞夜らしいわ。子孫が困っていようがお構いなしとはな」

「……融は、初代様が強い意志で降霊を拒んでいると思うかい?」

「うむ。ちづとやらがへっぽこ降霊術師でなければそうに違いない。一般的に血縁者を降霊させやすい理由はまさに家族の情だからな。だが、あやつは本当に冷血漢だった。センリ以外の人間なぞ皆一緒で、自分の息子ですらたいして興味がなかっただろうよ」

 能力の問題ではなく舞夜自身の強い意思によるものだ、と融は考えているらしい。舞夜が身内にも冷たかったという彼の発言が本当だというのなら、おそらく子孫とてその枠組みに入るだろう。息子さえも鑑みなかったのであれば、当然の話だ。

 それを聞き、千里はふと思いついたことを口にしてみる。

「それって、センリ様自身は呼び出せないんでしょうか?」

「……」

 唐突に、沈黙が訪れた。千春と融は揃って静止し、少ししてから眉を動かしたり視線を動かしたりして考える素振りを見せる。

「……考えた事なかったかも」

「うむ、いい考えだぞ千里! それならばお主が隣国に行こうが問題あるまい! ……というか、何故古泉の人間はこれまでその発想に至らなかったのだ?」

 阿呆の集団なのかとでも言いたげな融に、千里はこらっと声を上げて叱る。

「古泉家の人たちにとってはセンリ様って神様みたいなものでしょ、そうそう気軽に助けを乞おうなんて思わないよ」

 できれば里の問題は里の人間で解決したいと考えているだろうし、降霊術にはなるべく頼りたくないと言う彼らの考えは、状況が切迫してから舞夜の降霊を試みたという話からも伺える。すでに眠りについた魂を呼び起こすのは、現在に生きる人々の勝手な都合にすぎないのだ。

「ふーむ、そういうものか? しかし、センリならば舞夜とは違って情の深い娘だから呼び出しには応じるであろうぞ!」

「生き生きとしてきたね。センリ様に会えるかもだし、やっぱり融は千春さんと千狸浜に……」

「嫌ぞ。この小僧、面が舞夜に似ている。千狸浜も我に冷たい奴らばかりだった故、できれば近寄りたくない」

 つん、とそう吐き捨て、融は千里の胴をぐるりと一周する。わがままな蛇だなあと千里が口をへの字にしていると、千春はにっこりと微笑んだ。

「うん、俺も出来れば関わりたくない。気持ち悪いし」

「はぁ!? 貴様、今我を気持ち悪いと言ったか!? 高貴かつ麗しい月のような神秘さを持つ我を、キモいと!?」

 耳を疑うというように、融は身体を持ち上げて千里と同じ目線に並ぶ。融が怒りっぽいのはすでに把握していた千里だったが、彼女は千春が堂々と気持ち悪いと発言したことに驚いていた。

「千春さん、蛇が苦手だったりします?」

「……苦手っていうか、嫌いなんだ。なんかこう、生理的に駄目で。ヴィオも言ってたでしょ、あいつを置いて逃げたことがあるって」

「ああ、具体的に何が出たかまでは聞いてなかった気がしますけど……」

 それがまさか蛇だったとは、と千里は自分の腰で千春を睨みつける融を見下ろす。千里もけして蛇に恐怖心が無いというわけではなく、むしろ野生の蛇を見かけたら人並みに驚くほうだ。しかし融とは出会い方が出会い方だったので恐れのような感情は無く、人語を話すこともあってかどちらかというと親しみやすくさえある。

 しかし、千春は堂々と融に嫌いだと宣言した。おそらく、態度に出さないようにしているだけで本当は近づきたくもないのだろう。旅館でのヴィオとのやりとりで彼が普段猫をかぶっていることを聞かされていた千里は、もしここに他の人目があればここまではっきりと意思表示はしないだろうなと考える。

「ふん、やはり古泉家はいけすかんわ! 我は絶対にお主らの元になぞ行かんからな! 千里と共に、隣国でのびのびと暮らしてやる!」

「えっと、君のことはヴィオに伝えてないから受け入れてもらえるかわからないよ?」

「確かに、ヴィオさんが用意してくれるのがペット可物件かどうかなんてわかりませんね」

 むーたんは紙なので問題はないが、爬虫類となると苦手に思う人間も多く、家主の許可なく連れ込むわけにはいかない。でも元々森で暮らしていたのだし野宿でも構わないだろうと千里が安易に考えていると、融はそんな馬鹿なと言うように大きく口を開けた。

「な、なんだとぉ!? 千里、そのヴィオとかいうのの弱みなど握っておらなんだか!?」

「何で初手で相手の隙に付け入ろうとしてるの? まず普通に頼もうよ」

 前提が間違っていると千里が指摘すると、千春は憐みのような表情を融に向ける。

「ほら、性格が陰湿だとそういう発想にしか至れないんじゃないかな……?」

「貴様ー!! 面がそっくりなら腹の中まで舞夜のヤツに酷似しとるわ!」

「はいはい、わかったわかった。じゃあ、私がひとまず融の身柄を預かるということで……」

 生き物の面倒を見られるほど余裕があるわけではない千里だったが、このままではらちが明かない。これまでは森で静かに暮らしていたらしい融が、街の雰囲気の溶け込めずにやはり元の場所に戻るという可能性も十分にある。

「ただし、人や無害な生き物に迷惑をかけたりしたら私の責任問題になって、私が街を追われることになるからね?」

「我をしつけのなっていない犬と同じにするでない! 住居と食事さえあれば我がしっかりそなたを手助けしてやるぞ」

 どこからくる自信なのか疑問ではあるが、千里はよろしくねと頷いた。実際、センリの時代の知識については古泉家すらも知らないことを蓄えているようだし、遠見の術も便利な能力だ。千里が不得意な霊力に関する把握能力も得意とくれば、確かに頼もしい味方である。

「じゃあ正式にむーたんと顔合わせしよう。むーたん、これから一緒に暮らす融だよ」

「むっ!」

 千里はポケットからむーたんを持ちあげて床に置くと、元通りの大きさに戻す。挨拶しやすいように千里がかがむと、むーたんは鼻先を融に近づけてくんくんと匂いを嗅いだ。

「むーというのか、式神にしては妙に懐っこいな。……ん? 千里、お主は式神を作り出せるのか? センリはそのようなことはできんかったが」

「ううん、この子は元々千春さんの式神だよ。私が気づかない内に支配権を乗っ取っちゃったらしいの」

 どうやら融からすれば、むーたんは完全に千里が使役しているように見えるようだ。千里が経緯を説明すると、融はほうほうと興味深そうに頭を持ち上げる。

「うむ、考えてみればそれこそが万化の性質だったわい。何かを変化させる、ということに特化した能力だからのう。支配権の変更など、やろうと思えばお手のものということよ。お主が望むなら、むーは獅子にも虎にもなれるはずだぞ」

「えっ!? ……やだ、このままがいい」

 融の言葉にショックを受けたような表情を浮かべ、千里はむーたんを抱き上げた。角ばったフォルムとつるつるの手触りは本物のタヌキとは程遠いが、愛くるしい仕草と懐っこい笑みは他に代えがたいものだ。千里が不意に抱きしめると、むーたんは嬉しかったのか頬を綻ばせ、犬のように尻尾を振った。

「でもそれって、融みたいな生身の蛇は流石に対象外だよね? 千冬も、人間は構造が複雑だから『変化』させることはできないって言ってたし、他の動物の類も同じな気がするけど……」

「ええと、厳密に言えばできないってことはないんだ。その、紙と違って骨とか血管とか複雑なものが多いせいで、元の生命活動を維持したまま変化させるのが困難ってだけで……」

 千冬も人間を含めた動物を変化させることは可能である、と千春は少し言葉を濁した。骨や血管と聞き、千里は失敗したときは対象の肉体が壊滅的な損害を負ってしまうということに気が付く。同時に、悪用すればこれまたとんでもなく恐ろしい力だ。

「いや、可能なはずだぞ? まあ、センリはお主のようなことはやっとらんかったがのう。あやつはその……今風に言うと脳筋だった故、物理的な祓具で物事を解決していた。むーも、見方を変えれば祓具の一種だ。こやつがその気になればそこらの怨霊や瘴気などちょちょいのちょいよ」

「え、そうなの!? ……でもむーたん、千狸浜の浜辺で怨霊に囲まれた時は戦う気配はなかったけどな」

 あの時はすでにむーたんの主は千春から千里に成り代わっており、それにしては少しおかしいようなと千里は不思議そうにむーたんを見下ろす。むーたんは身振り手振りで何かを説明しようとしたが、あいにく合間に挟まる言葉も「む」と「むむむ」だけで全く要領を得なかった。

「『戦えという指令がなかったので、自己判断で護衛をしていた。怨霊がご主人に牙をむくようなら自慢のしっぽでビンタを食らわせてやる予定だった』……と、言っておるぞ」

「な、なるほどー? 確かに、そういう指示は出さなかったな。その時まだ、むーたんは付き添ってくれてるだけだと思ってて自分が従えてるっていう自覚、なかったし」

 つまりは指示さえあればむーたんは戦うし瘴気も祓えるということかと千里は改めてむーたんという存在の偉大さを認識した。

「でもなんか、祓具って概念がよくわかんなくなってきちゃった。怨霊を祓える能力さえ備えてれば、何でも祓具なの?」

「広義的にはそうだね。霊力を用いて悪霊や霊障を祓い清めるっていうのが祓具の役目だから、融の言う通りむーたんは君の祓具と呼んで差し支えないかもしれない」

 千春の言葉を聞いて、千里はむーたんを高く抱え上げた。むーたんは主を見下ろす位置に自分の視線があることが楽しいのか、犬かきでもするように手足を動かしている。

 センリが作ったと言われる祓具は数多くあれど、現存するのは古泉家で保管されている七つだけだ。彼女と違って自分は何の祓具も作り出せないと嘆いていた千里だが、もうとっくに傍にあったんだとその存在を改めて噛みしめる。

「そうだ、桐ちゃんにお礼に行かないと。村中走り回ってもらっちゃったから」

 そろそろコウ太を送り届けた頃合いだろうと、千里はむーたんを小さくしてポケットに収納する。もうすっかり慣れたように顔だけひょこりと出したむーたんは、出発しようとでも言うように「むむ!」とひと鳴きした。

「そうだね、行こうか。……桐ちゃんとはどんな風に知り合ったんだい?」

「茶屋でお団子食べてる時に、すごい勢いで走ってきたんですよ。『千春さんが来たって本当!?』って」

 必要な物だけ持って、千里たちは部屋を出た。桐には事前に考えていた身の上話を説明し、彼女がむーたんの存在に気が付いたことを理由に村の外れまで移動したことを伝えると、千春はなるほどと納得する。

「桐ちゃんは昔から式神に興味があって、よくねだられたんだ。だからむーたんにもすぐ気が付いたんだろうね。この辺りで紙を媒体にするのは俺くらいだし」

「そっか、式神って何も紙限定ってわけじゃないんですよね。その人の性質によって、媒体が変わるのか」

 それならば確かに、ポケットサイズの紙のタヌキを見たら千春の式神だと気が付くだろう。大きさが普通のタヌキとは違うが、古泉家と懇意にしていたのなら対象の大きさを操れる千冬の能力も知っているはずだ。実際むーたんは千里以外の霊力干渉を受け付けない状態ではあるのだが、桐がそれを知らない以上古泉家の関係者であると認識されるのは至極当然の流れである。


「あ、ちょうどええ所に! ほらコウ太、二人にお礼言わんと」

 宿を出てすぐの所で、二人はコウ太を連れた桐と遭遇した。彼女は風呂敷包みを持ったコウ太の背中をぽんと押すと、それ以上何も言わずにやりとりを見守ることにしたようだった。

「あの、心配かけてごめんなさい。おれ、森に入ってすぐ道がわかんなくなっちゃって、おねーちゃんがおれを見かけてくれて、千春にーちゃんが探しにきてくれなかったら……すごく、怖かったと思う。助けてくれて、どうもありがとう」

 たどたどしくそう話すと、コウ太はぺこりと頭を下げた。家族からも説教と心配の声を浴びせられたのか、深く反省しているようでその表情は真面目そのものだ。彼に言葉をかけるのは自分よりも千春が適任だろうと千里が千春に視線を送ると、彼はその意図を汲んでコウ太の目線に合わせてかがむ。

「うん、俺たちも君の親御さんたちと同じ気持ちだし、わかってくれたならそれでいいよ。俺の方こそごめんね、君の話をちゃんと聞こうとしなくて」

「ううん、千春にーちゃんは悪くない! いつも村まで来てくれて、森が変になってないか見てくれて、怨霊が出れば退治してくれて……。でも、だからおれ、にーちゃんならメメも見つけてくれると思ったんだ」

 コウ太がそこまで話すと、後ろで様子を見守っていた桐の視線が千里の帯に向かう。一体何があったんだと表情で伝えてくる彼女に、千里はぱちぱちと瞬きで合図をしながら一歩前に出た。

「あの、そのメメってこの子のことかな?」

「……あっ、メメ!」

 千里が帯締めのように腰に陣取っている融を示すと、コウ太は瞬間的に駆け寄った。融はびくりと身体を揺らしたが、仮初とはいえ主を得たことで強気になったのか隠れるようなことはしない。むしろ自分は千里の所有物であると示すかのように、すりすりと頭を帯に擦りつける。子供相手にはわかりやすい仕草だろうと考えたようだが、自分が蛇であるという事に誇りを持っているらしい融が犬のような振る舞いを見せたことに、よほどトラウマを植え付けられたのだろうと千里はやや同情した。

「なんや千里さん、ずいぶんそのメメに懐かれたんやね」

「うん、メメはおれに全然懐かなくて、ご飯もちっとも食べてくれなかった。いつもシャーシャー威嚇してきて、納屋の隅で丸くなってたんだけど……。おねーちゃん、蛇好き? メメのこと、大事にしてくれる?」

 コウ太のまっすぐで純粋な視線に、千里は一瞬たじろぎそうになった。何を隠そう、千里は別に蛇が好きなわけではない。おまけにこれからの生活も始まってみなければわからないという始末で、もし融がベルニュートのでの生活が合わないと言うのであれば一匹で森に戻ればいいとすら思っているのだ。

「……この子が私の事を嫌いにならない限りは、傍にいるつもりだよ」

 しかし、そんな心情を素直に吐露していては人付き合いはやっていられないし話がややこしくなる。多少身銭を切ってでも融の暮らしやすい環境を整える程度の覚悟はある千里は、コウ太の問いをそのまま肯定するのではなく、嘘にならないように彼が満足できる回答を示した。

 すると、コウ太はなおも千里にすり寄る蛇を見て、安心したように微笑む。

「うん、よろしくねおねーちゃん! あとこれ、お礼に持っていきなさいって母さんたちが」

 子供らしく切り替えの早いコウ太は、そう言って抱えていた風呂敷包みを差し出した。ちら、と千里が千春に視線を向けると、彼は君が開けてと伝えるように無言で頷く。

 宿の前の木製のベンチで風呂敷を広げると、中から出てきたのは木彫りのお椀に茶碗、箸や杓文字といった食器類だった。

「あのね、桐ねーちゃんから千里おねーちゃんはこれからお隣の国で暮らすって聞いて、でも東の方から来たからお米をよく食べるでしょ? トゥルフの街には村で取れたお米をおろしてるから、食器があれば街でもお米を食べやすいかなって」

 たどたどしくも快活にそう語るコウ太に、千里は衝撃を受けた。おそらくは家族との相談の末に決まったことなのだろうが、それでも言い出したのはコウ太だろう。食文化への気遣いが五歳の少年からもたらされたという事実に、彼女は不覚にも涙腺が緩みかけた。

「ありがとう、大事にするね」

「よし、ほんならこれで一件落着やな」

「桐ちゃんもありがとうね。……草履、未だにそのままだけど大丈夫?」

 寸法の合っていないぶかぶかの草履のままであちこち走り回っていた彼女に千里が足は大丈夫なのかと尋ねると、彼女は一度千春の顔をちらりと見てから恥ずかしそうに頬を染めた。

「んー、慣れればそんな大変でもないんやけど、流石に不格好やし一度家に帰るとするわ。仕事もほっぽりだして来てもうたし」

「俺も、村長のところに戻ろうかな」

 二人がそれぞれやるべきことがあると話すと、千里は自分はどうしようかなと少し悩む。仕事があるという桐の邪魔はできないし、千春と村長とのやりとりにも同席する理由がない。元々村に着いてからはのんびりしていてくれと千春に言われていたが、ただ宿でじっとしているのも時間の無駄だ。

「おねーちゃん、木彫りに興味ある? おれ、今度から作業場を見学していいって言われたんだ」

「木彫り? うん、気になる。じゃあコウ太君ちの作業場にお邪魔してもいいかな?」

「うん!」

 コウ太の家族に頂き物の礼を言いたいと思っていたところだった千里は、コウ太の誘いを受けることにした。

 そうして三人はそれぞれの目的地に向かって歩き始めたが、普通の蛇の振りをしていた融は夕暮れ時になって千里が宿に帰るまで沈黙を保ち続け、部屋に戻ると同時にへろへろと千里の身体から離れ、座布団の上に丸まった。

「し、しんどかった……。長年孤高の存在として森で暮らしておったが、ひとたび誰かと会話する喜びを思い出してしまうと黙っていることが苦痛すぎるわい」

「でもコウ太君のご家族、みんないい人だったね」

 千里が食器の礼を言うと彼らはこちらこそコウ太が世話になったと深々と頭を下げ、騒動の一因でもある融に対しても友好的な態度を示してくれたのだ。コウ太が蛇を内密に飼育していたことは気づいていなかったようで、ろくな餌を与えられていなかっただろうと気遣う姿勢も見せていた。

「それで、融はご飯どうする?」

「我は卵が好きだ。生の、新鮮なやつだぞ! 今はそこまで空腹というわけではないが、ベルニュートとやらの環境がわからん以上何か食べておきたいところだのう」

「生卵……夕飯に出たら持って帰ってくるね。なかったら、明日の朝に買いに行こうか」

 この宿の食事は一階にある食堂で取る形式なので、食事処に融を連れてはいけない。村でも卵は手に入るだろうと踏んで、千里は次なる疑問を解消する。

「あとさ、排泄ってどうするの? 何か用意したほうがいい?」

「いや、いらぬぞ。我は食後一週間ほどで消化を終える故、催したらその辺で勝手に済ませてくる。

まあ、それは普通の物を食べた時の話だがな」

「……普通じゃないものも食べるの?」

 融が何を指して普通ではないと話しているのかまるで見当がつかず、千里は一体どのようなものなのかと問いかける。

「いわゆる霊体だ。霊力を取り込んで、それを己が糧とし無駄なものだけ体外に排出する。この場合、時間はほとんどかからん。我は特殊な蛇故、食べ物がなくてもそうして生き延びることができるというわけだ」

「へー。それって、怨霊も食べられるってこと?」

「当然だ! ……相手が弱っていればの話だがな。我、蛇故に戦闘力は皆無だし。毒も持っとらんし」

 抵抗されない限りは可能であると言う返答に、千里はそうなんだと頷く。むーたんが指示さえあれば戦闘もこなせると知った今、融が戦力外であるという自白は別段気にかかるものではなかった。

 ふと気が付くと、オレンジ色だった空に夜の気配がより強く混じりだしている。カーテンを閉めると、千里はポケットからむーたんを持ち上げて融の隣に置いた。

「そろそろ晩御飯だから、二匹ともここでお留守番お願いね」

「む!」

「ふむ、では我がむーのお守りをしてやろう。よいか、お主は自分が先輩と思っておるやもしれんが、我は数百年も昔にこの世に生を受けた唯一無二の高貴なる……」

 千里が留守番を頼むと告げると、むーたんは前足をあげて任せろとばかりに返事をする。その横で、融はむーたんに対し先輩風をふかし始めた。むーたんに先輩後輩だのという概念があるのだろうかと不思議に思いつつ、千里は仲良く待っててねと部屋を後にする。

 夜も更け、千里が食事を終えて部屋に戻ってくるころには、二匹は一つの座布団の上で寄り添いあうように寝息を立てていた。

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