第29話




第29話「袖口のぬくもり」



サイレンの音が近づくにつれ、屋上の空気がざわめき始めた。

スーツの男が短く何かを告げ、パーカーの男を非常扉の方へ押しやる。


「ここは警察に任せる。君たちは下へ」

それだけ言い残すと、二人の影は階段の奥に消えていった。


取り残された屋上に、冷たい風が吹き抜ける。


「……何だったんだろう、今の」

すみれが小さく呟く。


遥は袖口を見下ろした。

すみれがまだ、ぎゅっと掴んだままだからだ。

指先の温もりが、やけに鮮明に伝わってくる。


「……離さなくていいの?」

わざと軽く笑ってみせると、すみれは一瞬はっとして手を離しかけ――

けれど、またそっと掴み直した。


「……もうちょっと、このままで」


その一言が、胸の奥を不意に熱くする。


遠くでサイレンが止まり、静けさが戻る。

二人の間に漂うのは、昼間とは違う空気。

緊張の後の安堵と、何か言いかけてやめたような甘い間。


「さっきの……事故の話、本当なのかな」

すみれの声が揺れる。


「確かめるよ。俺が」

遥は真っ直ぐに言った。

その瞳に映るのは、ただすみれ一人。


「……ありがとう」

すみれの頬が、ほんのり赤く染まった。


風が吹き、二人の距離がふっと近づく。

危うく唇が触れそうになった瞬間――


「すみれちゃーん! 無事ー!?」

階下からスタッフの大声が響き、二人は同時に身を離した。


「……タイミング悪っ」

遥が小さく笑うと、すみれも照れ笑いを返す。


だがその袖口のぬくもりは、まだ消えなかった。


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