第3話 亡国
新内閣発足から3年、それは、音もなく始まった崩壊だった。
通貨としての円が、ついに信用を失った。
海外との取引は次々と停止され、外資は一斉に日本市場から撤退。東京の失業率は、今や38%にまで達していた。もはや“正職があること”の方が珍しい状況だった。
表向きにはそれでも「正常な国家」を装っていたが、実態は悲惨だった。
駅前では職を失った元サラリーマンたちが炊き出しに並び、求人広告は見る影もなかった。中には、生活保護の申請すら通らず、違法な運び屋や闇バイトに手を染める者もいた。
「政府発表の“数字”には表れないが、本当の地獄はここからだ」
シノザキの声は冷めていた。
朝起きれば、物価が倍になっている。
米、ガソリン、医薬品——買えない。手に入らない。あるいは、命がけで奪い合う。東京を中心に日本のスラム化が進む。
東京・渋谷のスクランブル交差点。
そこには、かつての喧噪も、若者の笑い声もなかった。
代わりにあったのは、割れたガラスと放置された建物。
「これが日本かよ……」
スガワラは、変わり果てた渋谷で立ち尽くしていた。
すぐ近くでは中年男性が、警察官3名に取り囲まれていた。
「警察は何をやっているんだ」
男性が声を荒げ、警察官に詰め寄る。
直後、警察官の1人が特殊警棒で男性に一撃。倒れた男性を取り押さえ、連行する。
「治安維持法の再来か?」「いや、もうこれは法治国家なんかじゃねぇ」
そんな皮肉も、今や口にする者は少なかった。
2028年。
この年、日本は完全に“先進国”の座から滑り落ちた。
前年、中国と北朝鮮は韓国への侵攻を続け、ソウルは陥落。
アメリカは空爆と特殊部隊で支援するも、地上戦での決定打を欠き、戦局は泥沼化。
数ヶ月の激戦を経て、韓国軍は組織的抵抗を放棄。
首都と主要都市は完全に制圧され、中国と北朝鮮の勝利宣言が発表された。
「米軍が、本気じゃなかったな」
シノザキの分析は的確だった。
アメリカは内政と外交で手一杯だった。
ヨーロッパではロシアの威圧が続き、NATOは対ロシア包囲網に限界を迎えつつあった。
その隙に、中国・ロシア・北朝鮮は合同声明を発表。
「我々は、アジア秩序の再構築を目指す。西洋による支配は終わったのだ」
この声明に、日本政府は一切の反論を出さなかった。
いや——出せなかった。
すでに国内は崩壊状態にあったからだ。
2028年4月、日本の株式市場は事実上の閉鎖に追い込まれる。
経済活動は止まり、実体経済は闇市に飲み込まれていった。
食糧は配給制となり、暴動と略奪は日常となる。
そして、治安維持の名の下に、警察官が武装した市民を射殺する映像がネットに出回るようになる。
中でも象徴的だったのは、「神奈川飢餓蜂起」と呼ばれた事件だった。
食糧倉庫を襲撃した200人超の市民が、警察の治安部隊に包囲され、火炎放射器で“制圧”された。
公式発表では「暴徒により火災が発生」とされたが、内部告発により国際社会に映像が流出。
“日本は終わった”
——それが、世界の共通認識となった。
「これでもまだ……政府は“緊急事態宣言”を出すだけか」
シノザキは苛立ちを隠さず、タブレットを叩いた。
スガワラは無言のまま、窓の外を見つめていた。
荒れた住宅街。カラスの群れ。
誰もが死を他人事にできなくなった街。
「まだ言えるうちに……答えろよ、スガワラ。
お前は、どうする。政府に従うのか、ここで終わるのか」
「……どちらでもない」
「じゃあ?」
スガワラは静かに立ち上がった。
サエコが物陰から顔を出す。彼女はいつもと変わらず、控えめに——だが確かな眼差しで見つめていた。
「守る。俺はこの国の、命の火だけは守りたい」
その言葉に、シノザキが微かに笑う。
「そうか……なら、始めよう」
2028年12月。
東京湾で、米軍の艦艇が何者かの魚雷により撃沈された。
その正体は不明のまま、ロシアは日本近海への軍事演習を開始。
中国は同じ時期、沖縄本島に向けてミサイル演習を行い、偶発的に嘉手納基地付近に着弾。
米中関係は一気に緊張し、東アジアは「戦端の縁」にまで達する。
そして——。
北海道・稚内の陸上自衛隊基地が、ロシア軍特殊部隊により“無人化”された。
同時に中国海軍が鹿児島県・奄美大島の制圧に動き、事実上の上陸。
「侵略だ」
誰かが叫ぶが、政府は何も言わない。
翌月。
ロシアと中国は日本の“防衛の空白”を名指しで非難し、「保護のための平和維持部隊派遣」を発表。
これが、日本という国家の終焉だった。
だが——物語はここから始まる。
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