挿話1  カナリーは武征時代を思う 

【カナリー】

大都市郊外の大学、その広い構内では多くの学生がモラトリアムを謳歌している。この地はかつて青藍と呼ばれた藍国の国都が置かれた場所である。


大学図書館の一隅でカナリー・カーラー、史学の研究者である彼女は椅子にゆったりともたれながら、目を閉じた。彼女の膝には読みふけっていた本が開かれたままである。


彼女の研究対象は武征時代の歴史。

それは千年以上も前にこの大陸で鬼獣を討ち、時には相争った綺羅星のような英雄たちの時代。


特に圧倒的な武勇を以て鬼獣を退け、後に『長城』と呼ばれる城壁を作って鬼獣と人のテリトリーを分けた武帝伯林青べれんすそして伯林青亡き後、瞬く間に国々を制して帝となり、鬼獣テリトリーをも制圧していった征帝白群びゃくぐん。この二帝の時代を合わせて武征時代と呼ばれている。


神の定めた帝籍や臣籍、人はこれに就くと老いずに寿命が延びる。

とはいえ、二帝の在位期間であるおよそ200年がこの大陸の運命を分けたと言ってよいほどの大きな変革があった。 


だからこそ、この時代は特に一般人人気が高く、ドラマや物語になることも多い。そして、とみに謎も多いため多くの研究者の関心を惹きつけてやまないのである。


カナリーは目を閉じたまま、眉間に皺を寄せてしまう。これは考えあぐねた時の彼女の癖であった。


(鏡合わせの誓い―—藍国国主であった藤原白群が鏡に映る自身に東南征を決意した

とされる契機。これが研究者の間の通説ではあるのだけれど、ここに違和感があるわ。彼女に関する記述では、自身との間で何かをやり取りする、というケースが幾度か認められる。でも、私が読み取った藤原白群像はもっと豪放磊落であり、そしてリアリスト のように思うのよね。かといって違う解釈ができるというわけではない。はあ、何なのかしら。考えれば考えるほど、藤原白群について分からなくなってくるわ……)


彼女はため息を一つ吐いて、本を閉じたのである。立ち上がって時間を確認すると、もうお昼であった。



カナリーは構内を歩きながら、聞こえてきた歌声に一瞥を投げた。

どうやら、軽音サークルがライブをしているらしい。だが、そもそも流行を追いかけようともしない彼女には何の曲かすら定かでない。カナリーは自身に音楽的な素養はまるでなく、歌の良し悪しさえも分からないという評価を下していたのである。

そういった陽気な学生の催しを彼女はただ、足早に通り過ぎるのが常である。


(あ、この曲は……)


ふいに知っている曲が流れ出て、彼女は立ち止まる。

オールドナンバーズ、これらの曲のルーツは最古の歌姫淡藤あわふじにまで遡るとされる。彼女が遺した、数々の歌は今なお時代遅れにならい楽曲と評価を受ける歴史上の偉人である。


思えば、淡藤も武征時代の綺羅星の一人。

彼女は後世の歴史家から男女平等の契機を為した人物として評されている。それは、彼女の輝かしいばかりの才能が、女が支配していた戦場に男を並び立たせたことに由来していた。淡藤のスター性に満ちた華やかさからは、彼女の多くの創作伝記が作られ、特に少女たちからは尊敬する偉人として真っ先に名が挙がる人物である。




カナリーはカフェテリアでノートパソコンを前に難しい顔をしている同僚を見つけ、声を掛けた。

「こんにちは、シアン。どうなさったんですか?」


「ああ、どうもカナリー。ちょっとこれ見てくださいよ」

そういって、同僚の教員であるシアンは画面をカナリーの方に向ける。


シアン・ルーブ、彼は工学科の准教授であるが、工学分野における発明というアプローチで歴史を俯瞰しようともしており、よく史学を専門とするカナリーとも研究談義をするのであった。


まあ、シアンの細かい工学的な見地などは正直わからないことが多いのだが、その発明が重要である大枠は十分に理解できるのだった。シアンの方もそれを話せる相手が見つかったのが嬉しいらしく、時にカナリーと話に花を咲かせるのである。


「これは何ですか?」

「あくまで僕なりの解釈になるのですが、技術の系統樹のようなものだと思ってください」

「……はあ」


「僕は常々不思議に思っていたんですよ。武征時代の知の特異点——」

桔梗ききょうですね」


桔梗——武征時代の藍国の文官。輝かしい英雄たちの中にあって、武勲ではあまり焦点が当たらない人物である。だが歴史家の中では彼女の文化人としての活躍は特異点と呼べるほど優れていると評される。


例えば、彼女が考案したとされる既成服は服飾史における大きな転換点であり、そこからファッションという概念が生まれたといっても過言ではない。今は当然になっているいくつものジャンル小説や調理法もその起源に彼女の影がある。何よりも彼女は歌術という森羅万象との対話言語を定量的な記譜法 を生み出し、現在は歌学と呼ばれる学問の領域まで下したことが高い評価を受けている。


当時から天才と呼ばれた人物ではあるが、その実態は謎めいていた。

詳細な事跡が無く人物像が不確かゆえか、業績の多様さから特定の専門集団を指すと考える研究者もいる。だが、多くの学者は桔梗を個人として扱っていた。唯一彼女の手とされたのは和歌のすき間や裏に意味を図りかねる書き物であり、それら通称『桔梗落書ききょうらくしょ 』と呼ばれていた。


「ええ。実は近年我々が新たに生み出した技術ですが、類似したものが桔梗落書の中から見い出せたのです」

言葉の意味が分からずカナリーはシアンに問うた。

「どういうことですか? あれは意味を成さない、ただの思い付きを書きつづっただけとされていたはずですが——」


「そうなんです、歴史屋が読めばそうなります。ですが技術屋の視点からすると、あれは意味を持つのです。それがこの系統樹というわけです。人の歴史や生命史のように、技術の開発や発展にも流れや道筋のようなものがあるのです。その枝のところどころに果実のように新たな技術が生み出されていくのです。だが、その大樹の枝のあちこちにすでに桔梗によって実が結ばれていたとしたら……」


カナリーはその系統樹を食い入るように見つめる。

「すでに多くの技術が桔梗により考えられていたということですか?」

「その通りですが、もっと言うと重要な技術のほぼ全てといっていいのですが」

「そんなことがあり得るのですか!? 今でも新しい技術が生まれ続けているのです。いかに桔梗が多くを考えようと……」


「そういう数の多寡の問題ではないのです。技術が道筋である以上は、次のいくつもの技術が生み出されるためには必ず通る分岐点となる場所が存在します。僕が抱く大きな疑問は、桔梗落書にある内容はそのポイントとなる発想が多いのです。しかもその枝に至る技術すら無いはるかに前の時代なのです。だから僕たちは未だに桔梗のアイデアを後追いしている状態なのです」

同僚の説明にカナリーは絶句してしまった。


「だから思ってしまうのです。桔梗の思う技術体系はあべこべだったんじゃないかと」

「……あべこべ?」

シアンが蛍光色で色付けしている部分は、系統樹の上部から中ほどでそれにしても上部ばかりが目立っている。

この意味するところは——


「そう。この系統樹のようにふつうは技術は下から伸びていき、上にどんどん分岐していく樹木に例えられます。でも桔梗の場合は逆なのです。上から降りていき、その時代の水準に合わせていったように感じられる。だからこそ技術の断絶が起こり、その時代に不適だと、彼女が判断した技術は系統樹の上部だけに存在する。そう考えれば、この桔梗落書の色分けにも納得できます」


——なるほど、確かにシアンの言う通りかもしれない。しかし、カナリーはそうでないものも知っていた。


「ですが歌学領域ではそうなっていないと思います。和歌に桔梗は音の再現性という視点を持ち込んでいますが、そこで止まっています。むしろ彼女より後に和歌を方程式として数学的にとらえることによって、歌学が大きく花開いたと言っても過言ではありません。こと歌学に関していえば、そのような系統樹の高い位置に桔梗の影があるとは思えませんけど……」


「そうなんですよ、だからこそあべこべで謎めいているのです。武征時代は明らかに科学技術よりも歌術が大きな力を持っていた時代です。なのに歌学よりも科学の圧倒的な知識が彼女にはあった……そんなことが果たして考えられるのか?」


そういって二人の研究者は顔を見合わせたのであった。

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