第19話 山科千草は危機に陥る
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環たちは街道沿いに馬を休ませていた。
長距離の移動には馬は常歩で走らせないで移動させるものである。それが結果として馬自体にも最も負担が少なく、長く素早く移動できることに繋がるためであった。常歩は速歩や駆歩に比べてずっと負担こそ少ないが、それでも休憩は必要である。何よりも馬を駆る人間にとっても休憩が必要なのであった。
兵士たちは思い思いに装備の点検をしたり、体を解したりしている。
一方で環は草むらに座り込んでしまっていた。これが出陣後初めての休憩であるが、彼の体は既に音を上げてしまっていたのである。案の定、無駄に力み過ぎた結果である。
そんな彼を
「大丈夫なの?」
「うん、なんとか……」
「あ、そう。馬を下りて手綱を引きながら歩くこともできるから。戦場に着く前に倒れて役に立たないとか勘弁してよね。」
少女はそう言って鼻をならすが、そのつんけんとした態度も彼を慮ってのことであろう。余裕そうな足取りで離れていく後姿環は恨めし気に眺めてしまう。
それに引き換え、自身は短時間の乗馬で半ば痙攣しかかっている足を思うと閉口したくなるのであった。
(ダメだ、このまま馬に乗り続けていたら持たない。でも———)
やはり周囲の女の子たちも誰一人疲労の色を滲ませる者は見当たらない。自身の将という建前に加え、少女たちの中で男が一人だけ〝乗馬が苦手だから下ります〟、というのはあまりにも無様が過ぎる。
女性ものの衣服を身にまとっているが、やはり心根は男。彼のなけなし矜持が、それだけは許しがたいと囁くのである。
そんな中、環ははたとある和歌のことを思い出した。
「——睡眠は人生の無駄だ。これさえあれば眠る時間を少なくできて便利になる!」
目を蘭々と輝かせた
その桔梗の期待を一身に集めた術こそ、疲労を回復させる和歌であった。だが、それは〝女が唱えるには音が低すぎる〟という理由で、上司が渋面を作りながらも却下せざるを得なかったものである。
しかし、環の音域には十分入るものであり、彼自身は詠唱可能であった。
環は声を低く、そして太くして祝詞を呟いた。唱えた途端に体の強張りが解され、身がすっと軽くなったような感覚に包まれる。
城内での実験の際はあまり認識できなかったが、疲労が溜まっている分その効果が実感されたのであった。
(うわぁ、これはすごい!)
先ほどまでのような切羽詰まった感覚が薄れ、まだ馬に乗れそうだと思えるのだった。結果的に彼の自尊心は桔梗の探求心によって守られたのであった。
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(——これは一体⁉)
環や舛花たちより先行して会敵した千草は、目の前の光景に驚愕していた。
一万を集めただけの烏合の衆とふんでいた反乱軍は三万は下らない。加えてその陣容も精兵のものではないことは確かだが、決して烏合の衆と評するには値しないものである。
地をどよもす男たちの鬨の声は、萌葱の右腕とされる千草をして驚愕せざる得ないものであった。
しかし、自陣の兵たちは神の御業たる歌術を行使する術師。兵数の多寡が戦力の大小を決めるわけではない。
「鋒矢の陣を敷いてください!」
「「はっ!」」
小さな将の号令で、藍国軍の騎兵たちは突撃陣形に流れるように移行した。
千草は一気呵成に攻める判断をとったのであった。
術式で為した盾を前面に纏いつつ馬の機動力に任せて突進を仕掛ける——突破力を有する突撃は歌術師で構成される兵団にとっては定石。強引に陣を切り開くことが出来れば敵軍団の中枢を粉砕することも容易であろう。
それも歌術でこちらに対抗する術を持たない男たちなら尚更である。
(でも、何かおかしいです……)
直後、千草は胡乱な感覚から突撃を躊躇していた。
「どうしたのですか? 千草様」
「い、いえ」
「このまま前進されるとやっかいです。さっさと中央を抜いて、敵軍を無力化してしまいましょう」
「え、ええ。そうですね。総員抜刀、突撃!」
「「おう!」」
不吉な予感を振り払って下した命令に、女たちが応じて吼える。
少女は追随する兵たちの哮りを背に受けながら、風のように敵陣へと駆けていく。
「盾を!」
小さな将もまた昂ぶる熱量から、大声で指示を放った。
敵陣から飛ぶ無数の矢を神威の障壁で無力化しながら疾駆する。
目前の敵兵まで迫っていた千草たち。
後は術の力と騎馬の運動量の総計を叩きつけるだけ。
だが——またも彼女の直感が警告した。
(やはり変です……なぜ墨国から侵攻してきたのにこれほどの戦力があるんでしょうか。全く打ち減らされているように思えません……そうか、これが違和感の正体!)
通常、ここまで反乱軍の勢力が拡大することはない。
今回はそもそも母集団が多い男が参戦したというのも理由であるが、それにしてもこの規模になるまでに他国の軍に見過ごされるというのはおかしな話である。
つまり、それは逆説的に国軍と相対しても切り抜けてきたということであった。
千草が失策に気づいた時には既に遅すぎた。
男達を蹴り飛ばしながら敵陣に分け入いっていた藍国の騎馬隊が途端に大きく揺らぐ。急に感じる浮遊感に千草は自身が勢いよく宙に投げ出されたことを悟り、受け身をとろうと体を丸めた。
直後、凄まじい衝撃に束の間意識が濁る。
痛みによろよろと起き上がった千草。
少女はあり得ないものを目にして凍り付く。
それは大地に鮮血の花を咲かせる女たちの骸。何が起こったのか分からないが、人型を保たず原型をとどめていないものも多い。
僅かに生き残った配下の兵たちは周囲を十重二十重と取り囲む男達の槍衾に応戦していた。
そう、千草が率いた精兵は僅かの間に壊滅させられ、少女もまたその死地に捕らえられていたのである。
あまりのことに茫然と動けない千草を一人が庇った。
「千草様、危ない⁉」
「——くっ」
槍が千草を庇った術師の胸を貫いて鮮やか血と共に命を散らす。
限りなく殲滅状態に近い自軍。
包囲の中で辛うじて踏みとどまる生存者たち。
まだ十全に動く自身の体。
理解が及ばないながらも少女は全てを飲み下し、転がっていた刀に手を伸ばしたのであった。
【
必殺を期した布陣から抜け出す藍国の女達を
「ふむ、少し残りましたね」
「あそこから抜け出すとは藍兵はなかなか優秀だ。だが、あの寡兵。どのみち退くしかあるまい。こちらは追いながら矢を射かけていればよい」
それは反乱軍の陣中深く、馬上で言葉を交わす男が二人。
彼らは千草率いる歌術師たちを打ちのめした男天道の指揮官であった。
民衆を主体とする反乱軍にもそれを率い統率する者があることは不思議なことではない。反乱軍といえども組織であるため、上意下達の構造を為しているのである。通常は規模が大きくなったために自然発生的に機能分化が起こるが、男天道が扇動した大反乱には合理的な判断を下す中枢があった。
それは男天道の導師たちのことでは決してない。
神を称え、人に道を説き、世の蒙を一心に啓こうする者たちには強い意志はあれど、戦略眼も無ければ、戦術的な補給や軍の差配など出来ようはずがない。
それらを一手に引き受けて、ここまでの急速な拡大を成し遂げた推進力は偏に
そして今回藍に差し向けられた部隊の軍師に任命された青年は
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