第17話  男たちの反乱が始まる

但馬環たじまたまき

帝崩御の報が届いたからと言って、何かがすぐにでも激変するというわけでは無い。

すわ大きな戦が始まるのかと環は身構えたものの、世の中は表面上均衡を保っているように見えた。


この日、環は連綿と呼ばれる続け字の書法を練習していた。

開け放った戸からは名も知らぬ花を揺らした風が吹き込み、彼の頬を撫でる。麗らかな陽気に思わず出そうになる欠伸を、彼は筆を手にしたまま何とか嚙み殺す。


「こらぁ、お兄さん! ちゃんと集中してくださぁい」

その様子を見咎めて、ぷんすかと擬音がでそうな表情で頬を膨らませた少女は金春こんぱるである。環は隣に座る教師役に叱られてしまうのであった。


「ご、ごめん」

慌てて環は手を動かして、彼女に言われた内容を紙片に書きつける。その筆の動きは些か淀みがあるものの、しっかりとした墨の奇跡を描いてゆく。


金春は環の書を眺めながら、ほぅ、と息を漏らした。

「大分書けるようになりましたねぇ。当初の全く読めない書けないという状況と比べてみると全然違いますぅ。習得がすごく早くてびっくりですよぉ」


「金春のお蔭だよ、ありがとう」

彼は礼とともに少女の頭を撫でると、金春は〝えへぇへぇ~〟と嬉しそうな声を漏らす。


実のところ環の文字習得能力の速さには理由があった。

それは現代日本の教育力である。幼少期から始まる日本の学校教育を受けた環はもともと漢字自体を知っており、それを崩した平仮名と片仮名を自由自在に用いることが出来るのである。識字率自体が低く学問が普及していないこの世界において、それは環の強みとなっていたのである。


あとはどのように文字を崩して連綿と繋げていくかという法則を導き出せればよかったのであり、彼にとって読み書きは経験不足を補うことさえできれば習得は難しくないものであった。


そこで桔梗は環に和歌を書き写させたのであった。

この世界は和歌という要素なくして語ることはできない。

そもそも和歌とは五七のリズムで詠まれる詩であり、五七を何度も繰り返す長歌や百人一首でおなじみの五七五七七の短歌や、五七七を二回繰り返す旋頭歌などがあり、儀礼的な場での挨拶や、祭祀の際には詠まれて捧げられるものであった。


現代日本にあるような神社の祈祷やお寺の読経はこの地には無く、それに相当するものが神に捧げられる和歌という形に符合しているであった。


桔梗曰く、〝神に言の葉を捧げて神がそれに応えるという直接的な利益が文化的な背景となり、数々のものを置き換えている〟とのこと。つまりは和歌と神に捧げる詠唱というのはそれだけ似通っており、和歌が重要な位置を占めているというのも納得できる。現に神に捧げる詠唱は短歌や長歌の形式をとっているのである。


だが、藍ではそれを統べる白群自身が革新的であり、こういった格式だった儀礼的なものを特段重要視していない向きがあった。


それに加えて、長きにわたる鬼獣戦役の影響から、歌詠みが謳歌された時代に催されていた歌会なども減っていたのである。そのため、環にはまだ歌を詠むということが今一つ腑に落ちていなかった。そんな彼にとって和歌の手習いというのは確かに学ぶべきことが多かったのであった。


金春が読み上げた歌を何度も書いて練習していると、環はふと肩の重みに気づいて手を止めた。隣に目を向けると、少女が環の肩に頭を預けて寝息を立てているのであった。


さらりと風に靡く金春の髪が頬を撫でる。

(……寝るなって言ってた方が寝ちゃったよ)


少女のあどけない寝顔を間近で見てその吐息を肌で感じていると、彼は顔が熱くなるのであった。


肩を金春に貸した環はこのまま書き物をするわけにはいかず、大きく息を吐いた。そして、空気を吸うたびに感じる少女の仄かに甘い香がさらに環を動揺させる。結局、彼は文字の練習を諦めたのであった。






「——ねぇ、何なのそれ?」

足早に歩み寄ってきた舛花ますはなが、開口一番呆れた様子で質した。


「ええと、金春を起こすのも悪いと思って……」

困ったように頬を掻く環を見て、舛花が溜息を吐いた。


「それより、環。来て欲しい。金春も連れてついて来て」

「う、うん。ほら、金春起きて!」

金春の肩を揺するが、彼女は一向に起きる気配がない。そして遂には〝えへへぇ。桔梗ききょう様、まだ食べれますぅ〟と、欲に塗れた寝言で二人をげんなりさせる。


「あー……環、金春はなかなか起きないよ」

「うん、そうみたいだね」

実感した環は息を大きく吸ってお腹に力を込める。そして桔梗の声を真似て熟睡中の少女を叱咤したのであった。


「金春、いつまで寝こけているの! とっとと起きなさい!」

「ふぁいっ!」

泡を喰ったように金春は目を見開き、がばっと姿勢を正す。


「……あれぇ、桔梗様は?」

その様子に舛花と環は目を見合わせて、肩を竦めたのであった。








舛花と共に広い部屋を訪れた環は、物々しい空気にその身を強張らせる。

「ああ、環君。金春も来たわね」


こちらへ顔を向けた桔梗の眼も真剣みを帯びており、何かは分からないが切迫した事態であった。それは彼女の前で広げられた地図に関係するであろうと、環は見て取った。なぜなら同様に差し迫った表情の武官たちが地図を注視しているからである。


「一体どうしたんですか?」

「ちょっと、いやこれはかなりかな。良くないことが起こり始めているわね。舛花、説明を任せてもいいかしら?」

「うん」


一つ頷いて舛花が地図の前に進み、環に近寄るようにと手招きをする。

「こっちに」

応じて環は歩み寄り、机上に広げられた図面を覗き込んだ。


それはこの大陸の地図であった。

大まかな国の境界や町、村の位置に加え地形もある程度は判別がつくものの、測量技術が圧倒的に遅れているようで分解能が決して高いとは言えない。注目すべきは、大陸北側に位置する幾つかの国には木製の赤色の駒がいくつも置かれていることである。そして、藍に隣接する墨国にはそれが多数置かれていた。


「——なぁっ⁉」

傍らの金春から驚愕の声が上がる。


「あんたはこれを始めて見たよね」

そう言いながら、舛花の細い手が小さい赤い駒を摘まみ上げる。


「この赤色のものは敵軍、今回は反乱軍を示しているわ。駒の大きさは軍団規模を表していて小さいものが一千、大きいものが一万ね」


そう説いて、舛花は駒を元の位置に静かに置いた。意味さえ分かれば現状を理解できない環ではなかった。だからこそ、彼の表情も歪んでしまう。


地図上にはおよそ十万人近い人数での反乱が大陸内で起こり、しかもそれがいくつかの国に跨っているように見えた。そして、その反乱は既に藍国の近くまで波及しているのである。


「この情報は他国に放っている細作から先ほどもたらされたもの。でも、情報は伝わるまで時間がかかるから、今頃はもう少し拡大していると思う。最も近くのこの反乱軍は国境を超えて、既に藍の国内に入っていてもおかしくない」


舛花が端正な眉根を寄せながらも淡々と紡ぐ言葉を、環は茫然としながらも受け止めるしかなかった。そして、〝これはぁ、一体……〟と絞り出された金春の声が環の気持ちを代弁していたのである。

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