第11話 売れない声優は、成り代わる
【
差し込む陽光が、舞う微細な埃を照らしている。
物置と見紛うばかりに資料に埋め尽くされた詠官府、その主として座す桔梗の耳を奇怪な声が届くのだった。
「♪~~」
「♪~♬~」
それはこの世界には在らざる旋律。
現代日本にのみ存在する音、その名もボカロソング。この異世界においてボカロ曲の歌唱を聞き届け、彼女は顔を上げる。
「何ですかねぇ、あれ?」
傍らの金春も未知の調べに小首を傾げるのも無理からぬこと。
二人は現代日本のサブカルソングを熱唱する者達の存在を、部屋を出て認めたのであった。酷く違和感を覚えてしまうこの光景は、あちらとこちらの二つの世界を知るからこそであろう。
「あれは何をやってるんでしょうかぁ?」
「詠唱のための基礎訓練だそうよ」
眼鏡を押し上げながら応じた桔梗は、城内の官たちが奇異な目で彼らを眺めるのを見て、溜息を吐く。
その彼らとは、一人は狐面を着けた男の娘、
既存の祝詞を暗誦させる方が効率的なのではと疑う桔梗であったが、この練習法は環ががんとして譲らなかったものである。短期的に見れば桔梗の考えが正しいことを彼は認めた上で、中長期的には淡藤が自身の声を自在に扱う基礎力を高める方が重要と指摘したのであった。
声優の技術については、桔梗は当然のことながら分からないものの、学問や武道においてもまずは基礎の部分を重んずることはいつの時代も通底した考えである。その結果として、環は淡藤にボカロソングを歌わせ、異世界の城内で珍事が生まれているのだった。
そして実はボカロソングをひたすら歌うという指導方法は理に適っているのであった。なぜならば、ボーカロイドで作られる楽曲は、元を辿れば機械が歌唱するための物であり、人間が歌いやすいように作曲されていない。歌謡の中の速度変化や音程の振れ幅が際立って激しく、発声だけでなく音の高低の調整、滑舌や発音の速度の向上にとって格好の練習材料なのであった。
本来であればボカロソングに限る必要はないのだが、環がそれを選択したのは職業柄、サブカル方面の知識に尖っていたことに由来する。
二人が諳んじるおよそ歌謡とは思えないメロディーに耳を澄ます。
(——分からないわね)
聞き覚えの無いことから、桔梗は自身が日本にいた時分にはまだ無かったであろう曲と推察していた。
「あの旋律は何ですかぁ? なんか聞いてたらぁ、思わず体がうずうずしてきますぅ」
小さな体を拍に合わせて微かに揺らす金春に、ほぅと桔梗は感心する。
未だ管弦詩歌の異世界において、現代日本の生き急いでいるかのような曲調も斬新なものとして受け入れられる下地があると彼女は発見したのであった。
金春を
その奥からは墨を擦る音が聞こえ、桔梗は扉越しに声を掛けた。
「白群様、いるかしら?」
「おや、桔梗かい。お入り」
桔梗の訪問に気を留めつつも、さらさらと筆を紙上に走らせる白群。
「忙しそうね」
「まあね。帝の様態がいよいよ良くないらしい」
「……近いうちに崩御すると?」
白群は筆を置いて、挑戦的な眼差しを桔梗に向ける。
「……おそらくは」
二人の間にわずかな沈黙が生まれた。
崩御した後に誰が新しく帝位に就くか、つまりはどのように政権が交代されるのか。それはこれらはこの大陸にとって大きな意味を持っていた。
現在の帝が鬼獣戦役より勝ち得た比較的安穏とした治世が今終わろうとしている。現帝の御世における長大な城壁の築城、それは厄災のように迫る獣からの解放、外患の欠如を意味していた。
次いで起こるのは、桔梗が中国史から推察するように、限られた空間内での統合のための争い、群雄割拠の時代である。間違いなく次の帝足らんとする相容れない者同士の対立が世の中を戦乱の渦へと導くのであろう。いや、そもそも帝位を欲する者同士の争いは水面下で既に始まっているはずである。
展開が読めずに眉根を寄せている自身と異なり、眼前の人物は薄く不敵な笑みを浮かべていた。
待ち望んできた展開なのであろう。
白群は自身を磨き、優れた配下を集めることでその刃をずっと研ぎ続けてきた人物である。だが、その英傑の内心を推し量ることは桔梗にも出来なかった。
藤原白群は三国志で言うところの、
三国志——中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代の物語、その中の三国とは魏、
なんにせよ、白群の統治やこれまでのやり取りから、自身同様に彼女が合理的な思考の持ち主であることが分かっていた。
それと同時に人柄としては極めて不条理、悪戯っ子達の大将である。しかもそれが揺るぎない自信と誇りに裏打ちされている分、質が悪い。愉快な人物であろうが、まるで底が見えない。善悪で測れるような類ではなく、小人君主に収まる器でもない。桔梗は白群をそう見定めていた。そんな白群であるからこそ、その後ろに付き従い背を仰ぎたいと優秀な人材が集うのである。
桔梗は、戦乱の中で天下を手にするのが誰になるかは不明だが、それが白群であれば良いと率直に感じていた。
であればこそ、帝の死の機先を制するように動くことが必要なはずである。
だが、白群は悠長な構えを貫いていた。
「白群様、教えて頂戴。既に水面下で戦は始まっているはずよ、なのに何故あなたは動かないのかしら?」
「確かに君の言う通り。動き出すなら早いに越したことはない。だけど、僕は帝の葬儀とその後の弔いがひと段落つくまで動くつもりはないんだ」
「理由を聞いていいかしら?」
「個人的な理由だよ。彼女はまさに一つの時代を築いた希代の英傑だった。僕は英傑であった帝に敬意を表したいんだ。だからこそ、形式的かも知れないけど、彼女が在位している間に、その治世に泥を塗ることはしない」
強い眼差しで応じる白群に、桔梗は納得したように頷いた。
「そう、わかったわ。だとすれば、その時間であなたの望みを出来るだけ叶えなきゃいけないわね」
「ふふ、任せたよ」
桔梗が任されている歌術の蓄積と復元の研究は、白群を天下に押し上げるための大きな力である。彼女の貢献は個人芸となっている歌術の理を、究極的には集団スケールでの運用を意図するもので、次元レベルで戦に変化を与え得るものであった。
「そして環君と私がこの時点で出会ったことは、あなたにとって間違いなく幸運よ」
今度は桔梗が白群に眼鏡越しに挑戦的な目で返答するのだった。そして白群もそれを面白がるように笑みを浮かべる。
「やはり環は良い拾い物だったね」
「だけど術に特化した部隊はまだ先の話ね」
「でも桔梗に任せておけば、問題ないのだろう?」
桔梗がにやりと口の端を吊り上げる。
「まあ、何とかなると思うわ。あと、先日の襲撃事件の折に拾った女性、環君が彼女に直接指導したがっていたから、彼女のことはとりあえず彼に任せているわ」
「それは構わないよ。ふむ、どんな人物かな?」
「名は淡藤、男達に捕えられる前は浮民の女よ。環君によれば、彼女の声質は幅広い声が出せ、歌中の多くのものが扱える可能性が高いそうよ。あなたの目的にも沿うでしょう」
「なるほど、引き続き環の方で使ってくれて構わない」
「そう」
そこに外から浅葱の声が掛かった。
「白群様、浅葱でございます。軍予算関係の書類をお持ち致しました」
「ああ、浅葱かい。少し待っていてくれ」
立って伸びをした白群は桔梗に歩み寄り、何事かを耳打ちする。
「気分転換に街に出たい。君のところの環を借りていいかな。浅葱と舛花の目が存外厳しくてね。彼には正真正銘の影武者となってもらおう」
「ふふ、主思いの配下にも困ったものね。それにしても、環君の代役が味方に対してとは……」
「見方を騙せてこその影武者さ」
白郡の悪戯っぽい笑みに、桔梗は肩を竦めたのであった。
【
環は
中天から見下ろす太陽の光は足元の影を既に短くしており、改めて数時間が過ぎていたことに気づく。
「二人とも、お疲れ様。まあ飲んでおくれ」
額の汗を袖で拭う環たちに、白群が水の入った竹筒を放ってよこしたのだった。
それを慌てて受け取り、喉が渇いていた環は素直に栓を抜いて口をつける。心地よい涼気が喉の渇きを癒す。
「ありがとう、白群様」
「いいさ。それより、あの奇妙な声出しは何だい?」
「ああ、詠唱の基礎練習だよ。それで訓練を受けているのが、この淡藤。桔梗さんから聞いている?」
「ああ。君が淡藤か、よろしく」
「よろしくお願いいたしますわ、白群様」
淡藤は柔らかく微笑みながら、膝をつく。
白群は女の内に抱える歪みを感じ取って目を眇めるが、それを質すことはしなかった。
「淡藤、ちょっと環と話があるから、向こうで待っててくれるかい?」
淡藤は頷いて白群が指を差した方へ離れていき、大きな木の木陰でと竹筒を呷っている。
「なるほど、面白い人物に目を付けたじゃないか」
「でしょ、淡藤はなかなか筋がいいよ。それよりどうしたの? 急に」
「なに、ちょっと環に頼みたいことがあってね」
そう言って、白群がニヤリと口の端を吊り上げる。
(——どうしてこうなったんだ⁉)
白群の執務室で筆を握りながら、環は自問していた。
いつもの狐面は外し、白群が着るゆったりとした服をその身に纏う。外見上はどこからどう見ても藤原白群であり、本人から見ても唸るような完成度で白群を再現していたのだった。
——答えは明白なのである。
環は白群の身代わりとなって彼女の部屋にいるのである。
当然ながら環に君主の政務が務まるはずがない。そこで笑顔の白群から彼に与えられた指示は、〝やっている振りで切り抜けてくれ〟という単純かつ無茶なもの。
とはいえ書簡類に全く手を付けないというのも第三者から見ると違和感が拭えない。
幸いなことに、読み書きを進めていた環は、書簡類を読むことが出来るまで成長していた。そのため、話題を把握し、白群の考え方をトレースしてボロを出さないようするしかない、と自身に言い聞かせていたのである。
しかし、舛花や浅葱が決裁を仰ぎに来ることは間違いがなかった。
君主の側近に影武者であることを見破られないように、それをのらりくらりとかわさなければならないことに思い至り、彼は頭を抱えてしまう。
「白群様、浅葱でございます」
そして、彼の懸念通りに扉越しに浅葱の声が掛かったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます