第19話



第19章 届かない距離、伝えたい声


 校舎裏の薄暗い空気の中、夏希は携帯を握りしめていた。画面には「未送信メッセージ」がひとつ。そこには、たった一言——「ありがとう」とだけ書かれている。


 それを送るか否か、指が何度も宙をさまよった。送りたい。でも、今の自分が送るには、その言葉はあまりに軽すぎて、そして重すぎた。


「……やっぱ、無理だよね」


 ひとりごとのように呟くと、遠くから聞こえてきたのは、軽音部のドラムの音。あのリズムは、大和の叩き方だとすぐにわかった。迷いのない音。自分が足を止めた時間の分だけ、彼は前に進んでいる。


 その音に吸い寄せられるように、夏希は音楽室へと足を運んだ。ドアの前で立ち止まり、そっと耳を澄ませる。中では、バンドメンバーと大和がセッションをしていた。


 ——やっぱり、かっこいいな。


 そう思った自分が悔しかった。こんなにも気になって、こんなにも惹かれているのに、素直に近づけない。心の奥に張りついた「元アイドル」というレッテルと、過去の傷が、夏希の歩みを鈍らせていた。


「夏希?」


 不意に名前を呼ばれて、驚いて振り返ると、そこには大和が立っていた。どうやら、休憩で出てきたらしい。額には汗。けれど、目はまっすぐで、どこか嬉しそうだった。


「あ、ごめん、なんでもない。ちょっと通りがかっただけ」


 そう言いながら立ち去ろうとする夏希の腕を、大和がそっと掴んだ。


「待って。……少しだけ、話せない?」


 夏希は一瞬ためらったが、その手の温度に、心が少しほぐれるのを感じた。


「うん。……ちょっとだけね」


 二人は階段の踊り場に座った。放課後の光が窓から差し込み、少しだけ未来が明るく見える気がした。


「なあ、夏希。最近、避けてない?」


 大和の言葉に、夏希は息を飲む。


「……ううん、そんなことない。ただ、ちょっと、自分のことでいっぱいいっぱいで」


「俺さ。あのときステージで夏希が泣いてたの、見た。俺にできることなんて、何もなかったけど……心配だった」


「……見てたんだ」


「うん。あのときの夏希の涙、忘れられない」


 沈黙が降りた。でも、それは気まずいものではなく、互いの心が静かに交わるような時間だった。


 夏希はポケットから携帯を取り出し、未送信のメッセージをそっと見せた。


「これ……本当は、今日送ろうと思ってた。“ありがとう”って。でも、なんか怖くて」


「ありがとうって言われるようなこと、何もしてないよ」


「してるよ。……大和が、あのときも、今も、私を見てくれてるから。なんとか自分を保ててる」


 その言葉に、大和はゆっくり頷いた。そして、少しだけ前に身を乗り出して、夏希の手の上に、自分の手を重ねた。


「これからも、そばにいていい?」


 その言葉に、夏希の心が大きく揺れた。


 ステージの光の中で、誰にも見せなかった素顔を、大和だけには見せたくなった。


 ——きっと、それが「本当の自分」なんだ。


「……うん。いてほしい」


 かすかに震えながらも、夏希は頷いた。


 その瞬間、ふたりの心の距離が、そっと近づいた。



この続きもご希望があれば、第20章もすぐにご用意します。

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