第二章:活字にならなかった言葉たち

 その日を境に私の中で何かがゆっくりと動き始めた。まるで長年干上がっていた川に澄んだ水が少しずつ流れ込み始めたかのように。


 私は毎週一冊ずつ本を借りるようになった。


 湊が薦めてくれる本を素直に受け取ってみたり、時には全く興味のなかったジャンルの棚を探検してみたり。


ページをめくる速度はまだ遅々としていた。


 一行読んでは立ち止まり、その言葉の意味を噛み締める。けれど活字が以前のようなただの黒いインクの染みではなく、意味と色と匂いを持った生きた言葉として、再び私の心に届くようになっていた。


 詩集から始まり、短編小説、エッセイと少しずつ読む本の幅が広がっていく。


 文字が持つ力を少しずつ思い出していく過程は、リハビリに似ていた。筋肉を少しずつ動かして元の状態に戻していくような。


 そんな私の変化を湊は静かに、そして嬉しそうに見守ってくれていた。


 やがて私は彼の仕事に自然な形で興味を持つようになっていった。編集者としての血が騒ぐのを感じ始めていた。


「海野さん、その本すごい古いみたいだけど大丈夫なの?」


 彼が茶色く変色した和綴じの本を大切そうに扱っているのを見て私は尋ねた。


「ああ、これはこの辺りの名主だった庄屋さんの日記なんです。江戸時代の。町の郷土資料館が閉館する時に、うちの図書館が引き取ったもので」


「江戸時代の……!?」


「ええ。この町が昔どうやってクジラを捕っていたかとか。大飢饉の時に村人たちがどうやって助け合ったかとか。生々しい記録がたくさん残ってるんです。僕にとってはどんなベストセラーよりも価値のある宝物ですよ」


 彼の目は子供のようにきらきらと輝いていた。

 その輝きを見ているだけで、私の心も躍動感を取り戻していくのがわかった。


 私は編集者だった頃の血が少しだけ騒ぐのを感じた。こんな貴重な資料が誰にも読まれずに図書館の書庫に眠っているなんて。これはもったいない。もっと多くの人に知ってもらうべき価値がある。


「こういう資料って他にもたくさんあるの?」


「ええ。山ほど。でもほとんどが整理されていない状態で……。図書館も人手不足でなかなかそこまで手が回らないのが現状です」


 湊は少しだけ悔しそうな顔をした。そのとき初めて私は彼の中にある情熱の深さを垣間見た気がした。


「この町にはがまだたくさん眠っているんです。漁師たちの口伝えの唄とか。海女さんたちが海に潜る時に唱えていたおまじないの言葉とか。そういう名もなき人々のささやかな、でもかけがえのない物語を僕はどうにかして未来に残したい。それが僕の夢なんです」


 彼の夢を聞いた時、私の心は決まっていた。今の私にできることがあるかもしれない。いや、私だからこそできることがあるはずだ。編集者としてのスキルと経験を、この美しい夢のために使えるかもしれない。


「……


 私のその言葉に湊は驚いたように目を見開いた。


「え?」


「その活字にならなかった言葉たちを一冊の本にするお手伝い。私一応これでも本を作るプロだったから。あなたの夢、私に叶えさせてほしい」


 こうして私と湊の二人だけの小さな編集部が結成された。


 私たちの「取材」は移動図書館「うみねこ文庫」に乗って行われた。湊が町の古老たちを一人また一人と紹介してくれる。


「桜木さん、この人は平太さん。昔一本釣りのカツオ船に乗ってた、この町一番の漁師だったんだ」


 日焼けした深い皺の顔の平太じいさんは、最初はぶっきらぼうだったが湊が辛抱強く話を聞くうちに、少しずつ昔の話をしてくれるようになった。


「あん時の嵐はなあ、それはもう凄まじかった。波の高さが三十メートルはあったぞ。船がまるで木の葉みたいに翻弄されてな」


 平太じいさんの目は遠くを見つめていた。

 その瞳には若き日の記憶が蘇っているようだった。


 嵐の夜のこと、巨大なカジキと格闘したこと、仲間たちと船の上で酌み交わした酒の味。彼の言葉はどれも飾り気がなく力強かった。海と共に生きてきた男の言葉には重みがあった。


「こっちの千代さんは昔海女をやっててね。今じゃこの町で一番物知りなんだ」


 千代ばあさんは私の手を握りながら、少女のような笑顔で話してくれた。


「初めて海に潜った時はね、怖くて怖くて。でも海の中はまるで別世界だった。太陽の光が水を通して揺らめいて、まるで竜宮城にいるみたいでね」


 初めて冷たい海に潜った時の心臓の音。海の中で見た竜宮城のような景色。そして夫となる漁師の若者と浜辺で交わした初めての約束。


 私は彼らの言葉を一言も聞き漏らすまいと必死でノートに書き留めた。それは私が東京でやっていた流行作家のインタビューとは全く違うものだった。そこには見栄も嘘も計算もなかった。ただ生きてきたという紛れもない事実の重みだけがあった。


 本当の人生がそこにはあった。血の通った言葉がそこにはあった。私は久しぶりに編集者としての使命感を感じていた。


 取材のない日は二人で図書館の書庫に籠った。


 埃っぽいカビの匂いがする静かな場所。そこで私たちは江戸時代の古文書を解読しようと試みた。崩し字で書かれた文章は簡単には読めなかったが、二人でああでもないこうでもないと頭を突き合わせるのは不思議と楽しい時間だった。


 古い文献を読み解く作業は推理小説を読んでいるようだった。一つの手がかりから過去の出来事を想像し、パズルのピースを組み合わせていく。湊の博識さには驚かされることが多かった。地域の歴史に関する彼の知識は膨大で、私が見落としがちな細部まで丁寧に説明してくれた。


 私は編集者として培ったスキルを総動員した。集めた話や資料をどういう構成で見せるか。誰のどの言葉を切り取るか。写真や古地図をどう配置するか。私は久しぶりに創作の熱に浮かされていた。売れるかどうかなんてどうでもよかった。ただこの尊い物語たちを最高の形で残したい。その想いだけが私を突き動かしていた。


 夜遅くまで構成を練り、朝早くから文章を推敲する。東京にいた頃とは全く違う充実感があった。数字やノルマに追われるのではなく、自分が心から作りたいと思える本に向き合えること。これほど幸せなことはなかった。


 湊はそんな私の最高のパートナーだった。彼は私の意図を的確に汲み取り、必要な資料を的確に見つけ出してきてくれた。そして時々私の暴走を優しくいさめてくれた。


「桜木さん、その見出しは少し東京の匂いがしすぎます。もっとこの町の土の匂いがする言葉の方が、じいちゃんたちにはしっくりくるんじゃないかな」


 彼の指摘はいつも的確だった。私が東京で身につけた表現技法は、時としてこの町の素朴な物語には合わなかった。もっとシンプルで温かい言葉を選ぶ必要があった。


 私たちは最高のコンビだった。


 お互いの長所を活かし、短所を補い合える関係。この共同作業を通じて私は湊の静かな優しさ、誠実な人柄、そしてその内に秘めた熱い情熱に強く強く惹かれている自分に気づいていた。


 気がつけば私は彼を目で追うようになっていた。彼が他の誰かと楽しそうに話していると胸の奥が少しだけちりりと痛んだ。仕事に集中している彼の横顔をそっと見つめてしまう。彼の笑顔が見たくて、つい余計なことを言ってしまう。


 もしかして。

 もしかしてこれが恋というものなのか。

 物語を失った私がまさかこの海辺の町で新しい物語の主人公になろうとしているなんて。

 自分でも信じられなかった。


 でもその恋心はまだ言葉にならない。


 湊への感謝と尊敬の気持ちがあまりにも強くて、それが恋なのかどうかもはっきりしない。ただ彼と一緒にいると心が穏やかになり、彼の笑顔を見ると自分も幸せになる。それだけは確かだった。

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