第一章:潮騒のブックモービル

 それから私の奇妙な週に一度の習慣が始まった。


 火曜日の午後二時。


 オルゴールのチャイムが聞こえてくると、私は吸い寄せられるように縁側から立ち上がる。本は借りない。。けれど「うみねこ文庫」が店の前に停まっているその三十分ほどの時間、私はバスの中の折り畳み式の小さな椅子に座って、湊の仕事をする様子をただぼんやりと眺めているのが常になった。


 彼の手は本を扱う時とても丁寧だった。一冊一冊を大切に扱い、本の状態を確認し、適切な場所に戻していく。その姿を見ていると、私の心も少しずつ落ち着いてくるのがわかった。


 彼はそんな私を邪魔者扱いするでもなく、かといって過剰に気を遣うでもなく、ただそこにいることを自然に受け入れてくれているようだった。その距離感が今の私にはありがたかった。


 バスの中は小さな世界だった。


 外の喧騒から遮断された静かな空間で、本と人とのやり取りが繰り広げられる。私はその光景を見ているだけで、何か大切なものを思い出そうとしている感覚に陥った。


 ある日、常連の客が途切れたタイミングで湊が私に話しかけてきた。


「よかったら次の停留所まで乗っていきませんか?」


「……え?」


「この先の見晴台の公園。あそこが今日の最後のステーションなんです。きっと桜木さんも気に入ると思いますよ」


 桜木さん。

 彼は私のことをそう呼んだ。

 その少しかしこまった響きがむずがゆかった。


 断る理由も特になかった。

 私は彼の運転するマイクロバスの助手席に乗り込んだ。


 バスは海岸沿いの道をゆっくりと走る。車窓から見える、きらきらと光る海と潮風に揺れる黒松の林。遠くに見える島々が霞んで見える。東京にいた頃には決して見ることのできなかった風景。


 季節は初夏に向かっていた。海の色は日増しに深い青を増し、空には入道雲がもくもくと立ち上がっている。風は温かく、潮の香りに混じって花の匂いも運んでくる。


「すごいですね。町の人みんな、海野さんのこと名前で呼んでる」


「まあ小さな町ですから。それに僕が覚えているという方が正しいかもしれません」


 湊は少し照れくさそうに言った。


「さっきの鈴木さんは腰を痛めてから、好きな歴史小説も図書館まで借りに来れなくなった。だから僕が毎週新しい本を届けてる。みっちゃんのお孫さんは人見知りが激しいけど、僕の紙芝居だけはいつも一番前で見てくれるんです」


 彼は単に本を貸し出しているだけではなかったのだ。彼は本を通してこの町の人々の暮らしそのものに寄り添っていた。一人ひとりの事情を理解し、その人に必要な本を届ける。それは単なる仕事を超えた何かだった。


「本はただの紙の束じゃない。誰かの人生が詰まったタイムカプセルみたいなものだと思うんです。それを今必要としている人にちゃんと手渡す。それが僕の仕事で……僕がここにいる理由みたいなものですから」


 彼の言葉は静かだが、確かな信念に裏打ちされていた。それは編集者として「売れる本」を作ることばかりを考え、読者の顔さえ見えなくなっていた私にとって、あまりにも眩しい言葉だった。


 私の心の奥で何かが動いた。

 羨望と憧憬と、そして少しの嫉妬が入り混じった感情。

 彼のような純粋な想いを、私はいつ失ってしまったのだろう。


 見晴台の公園に着くと、そこには数人の母親とその子供たちがバスを待っていた。高台にある公園からは町全体が見渡せた。家々の屋根瓦が夕陽に照らされ、その向こうに青い海が広がっている。美しい風景だった。


 湊がバスのドアを開けると、子供たちが歓声を上げて駆け寄ってくる。


「うみねこ文庫だー!」


「うみのせんせー、こんにちは!」


 子供たちの無邪気な笑顔が、私の心を少しだけ温かくした。この子たちにとって湊は本を運んでくれる優しいお兄さんなのだ。


 湊はその中の一人、車椅子に乗った女の子の前にそっとしゃがみこんだ。


「こんにちは美咲ちゃん。今日はどんな本がいいかな?」


 美咲ちゃんは生まれつき足が不自由で、普段はあまり外で遊べないのだと後で聞いた。彼女にとって週に一度のこの移動図書館が、世界と繋がる大切な窓なのだという。


 湊は彼女に海の生き物の写真がたくさん載った大きな図鑑を手渡した。美咲ちゃんの目がきらきらと輝く。


「ありがとう!これ読みたかったの!」


 その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥がちくりと痛んだ。そうだ。私は忘れていた。本とは本来、こうやって誰かの心を照らすためのものだったはずだ。数字でも商品でもない。誰か一人のための小さな光。


 私が東京で編集者として働いていた頃、心から喜んでくれた読者の顔を思い出した。田中雄介さんの『街角の詩人』を読んだ読者から届いた手紙。「この本に救われました」という言葉。それこそが私の仕事の本当の価値だったのではないか。


 帰り道。夕陽が海をオレンジ色に染めていた。空は徐々に紫色に変わり、最初の星がちらほらと顔を出している。


「……あの、海野さん」


「はい」


「どうして……。どうして、そんなに誰かのために、一生懸命になれるんですか?」


 それは私の偽らざる問いだった。湊は少しだけ黙り込んだ後、ぽつりと答えた。


「……僕が誰かにそうしてもらったから、ですかね」


「え?」


「僕も昔、本に言葉に救われたことがあるんです。だからその恩返しをしているだけです。僕なりのやり方で」


 彼はそれ以上詳しくは語らなかった。だがその横顔には私が知らない深い物語が刻まれているのがわかった。きっと彼にも私と同じような挫折や苦悩があったのだろう。でも彼はそれを乗り越えて、今こうして誰かのために働いている。


 その夜、私は自分の人生を振り返った。編集者として働き始めた頃の純粋な気持ち。本当にいい本を作りたいという情熱。いつの間にかそれが数字や効率に押し流されてしまった。でもその根底にあったものは、湊と同じような想いだったのではないか。


 何か月か経った初夏の頃。梅雨が明け、空は高く澄み渡っていた。海の青さも一段と深くなり、港には夏の漁の準備をする船が忙しく行き交っている。


 私はまだ一冊も本を借りていなかった。自分の中に活字を受け入れる準備がまだできていなかった。文字を見ると東京での記憶が蘇り、心が苦しくなる。


 その日も私はいつものようにバスの中の椅子に座っていた。湊が私の前に一冊の何の変哲もない、少し古びた料理本をそっと差し出した。


「これよかったら」


 表紙には『汐見の海の、ハナごはん』と手書きのような温かいタイトルが書かれている。


「……なぜこれを?」


「この本、昔町の婦人会が自費出版で作った本なんです。今はもう絶版ですけど。……あなたのおばあさんが昔この本を見ながら、よくあなたにアジのなめろうを作ってくれたって嬉しそうに話してくれたので」


 私はその本を震える手で受け取った。ページをめくる。そこには祖母の見慣れた少し丸い字でたくさんの書き込みがあった。


『莉緒は生姜多めが好き』

『隠し味に味噌を少し』


 忘れていた。


 大好きだったハナおばあちゃんのなめろうの味。東京の洒落たレストランで食べるどんな高級な料理よりも、ずっとずっと美味しかった、あの味。祖母の温かい手で作られた家庭の味。幼い頃の私が嬉しそうに頬張っていた光景が蘇る。


 忘れていた温かい記憶が一気に蘇ってきた。祖母と一緒に台所に立ち、魚の臭いに顔をしかめながらも楽しそうに手伝っていた自分。あの頃の私は素直で屈託がなかった。


 その夜、私は生まれて初めて自分で魚を捌いた。台所をめちゃくちゃにしながら、そのレシピを見てなめろうを作った。不慣れな手つきで、祖母の書き込みを頼りに。そして一口食べた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。


 それは懐かしさの涙だった。

 そして同時に、湊の優しさに対する感謝の涙でもあった。

 彼は私の心の扉をそっと開く鍵を見つけてくれたのだ。


 それはただの料理本ではなかった。それは私のための、湊が時間をかけて選び抜いてくれた世界でたった一冊の「処方箋」だったのだ。彼がどれだけ私のことを考えて、この本を選んでくれたかと思うと、胸が熱くなった。


 次の週。私は湊に深々と頭を下げた。


「……ありがとうございました。……美味しかったです」


 湊はただ静かに優しく微笑んだ。その笑顔には押し付けがましさや同情はなかった。ただ純粋な喜びがあった。


 その日、私は初めて自分の意志で本棚に手を伸ばした。そして一冊の本を彼の前に差し出した。


「これ、借ります」


 それは湊が以前別の誰かに薦めていた、切ない恋愛詩集だった。

 詩なら短いから読めるかもしれない。

 まずは小さな一歩から。


 私が再び物語の世界へと一歩足を踏み入れた、小さな、しかし確かな瞬間だった。

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