2. 変わっていく距離


 黒板にチョークが走る音だけが、教室に響いていた。

 中野先生の声はいつも通り冷静だった。感情の起伏は一切なく、ただ必要なことだけを、淡々と伝えていく。

「この公式は試験によく出ます。各自、必ず理解しておくようにしてください」

 なんとなく手を動かし、板書をノートに書き写す。私は先生の声に意識を傾けていた。

 まっすぐな背筋。淡々と文字を書く音。

 たまに漏れる小さなため息。

 すべてが静かに、滑らかに進行していく。

「……出席番号31番。吉川柊人。この問題、解いてください」

 当てられた男子生徒が、小さく「はい」と返事をして立ち上がる。

 その瞬間私は思わず、先生の表情を盗み見た。

 変わらない。

 やはり何も変わらない。

 前と同じように、冷たく、静かで、一定の距離を保ったままだった。

 ——けれど私は知っている。

 この無表情の奥に、誰よりも深い傷を抱えていることを。

 だから、見てしまう。

 むしろ、その姿を見ずにはいられなかった。



 授業終了のチャイムが鳴ると、中野先生はいつも通り教卓に手を付きながら口を開いた。

「来週は確認テストを行います。範囲は今日までの内容ですので、しっかりと勉強をしておいてください。では、以上です」

 そう言って日直に号令を促し、軽く一礼をする。

 そしてノートと教科書を脇に抱えて、先生は颯爽と教室を出ていった。

 足音は静かで、いつものように無駄がない——はずだった。


 ガタンッと、聞き慣れない音が廊下から聞こえてくる。

 教室の外で先生がよろけて、窓にぶつかるのが見えた。

 ほんの一瞬だけ壁に手をついたあと、その場で膝をつき、肩を揺らすようにしてうずくまる。

「……!」

 考えるよりも先に、身体が動いた。

 私は勢いよく立ち上がり、教室を飛び出す。

「先生、大丈夫ですか!?」

 肩に手を添えると、中野先生はゆっくりと顔を上げる。その表情は苦痛で歪んでおり、かすかに眉を寄せていた。

「……大丈夫です」

 声はかすれていて、無理をしているのが明らかだった。

 立ち上がろうとして、また足元がふらつく。再び、壁にもたれかかるようにして、しゃがみ込む。

「先生……持ちます。保健室、行きましょう」

 そう言って私は、思わず先生の教科書を受け取っていた。

 けれど先生は、ほんのすこし目を伏せて、小さく首を振る。

「……保健室は結構です。ですがそれらは、職員室まで持ってきていただけると……助かります」

 息遣いが乱れていて、それでも先生は気丈に立ち上がろうとしていた。

 それを私は、そっと支える。

 無理しないでください。

 そう言いかけて、今は飲み込んだ。


 先生の腕をそっと支えると、その身体は思っていたよりも軽くて、頼りなかった。

 この人は自分が思っている以上に、無理をして立っている。ふいにそう思った。

 歩幅を合わせながら、廊下をゆっくりと進む。

 いつも涼しげに歩いている先生が、今は肩で息をしていて、額にうっすらと汗が滲んでいる。

 何か言葉をかけたくても、うまく声が出てこない。

 下手な気遣いは、先生にはかえって負担になるかもしれない。

 それでも何も言わずにはいられなくて、私は思いきって声を絞り出した。

「……無理、しすぎだと思います」

 中野先生は一瞬だけこちらを見た。

 それから、ほんのわずかに口元をゆるめる。

「……いつも、無理をしてるように見えますか?」

「……見えます」

 即答だった。

 自分でも驚くほど、迷いなく言えた。


 沈黙が落ちる。

 その沈黙がなんだか思っていたよりも優しく感じられたのは、きっと先生の歩調が、私に合わせてくれていたからだと思った。



 職員室の前にたどり着いたとき、先生はそっと私の手から教科書を受け取る。

 柱に手をやり身体を支え、軽く頭を下げた。

「……ありがとうございました。ここからは、もう大丈夫です」

 やはり、声はすこし掠れていた。

 けれど先生の背筋は、無理やり伸ばされている。

「ほんとうに、大丈夫ですか……?」

 そう問いかけたけれど、先生はもう正面を向いていて、私の目を見ようとはしなかった。

「……すこし休めば、平気です」

 その言葉がほんとうなのかはわからない。

 でも、それ以上何も言えなかった。

 先生の強さが、もどかしい。

 先生の弱さを、私だけが知ってしまったことが、怖い。

 けれど——それでも、やはり思ってしまう。

 もっと知りたい。

 もっと、先生のそばにいたい。

 先生が職員室の扉を開けて、中に消えていく。

 その背中を、私はしばらく見つめていた。



 夕方の生徒会室には、まだ日が差していた。

 グラウンドからは部活中であろう生徒たちの喧騒が聞こえてくるけれど、部屋の中は静かで、すこしだけ冷たい空気が漂っていた。

 生徒会室でひとり書類を整えていた私の前に、そっと影が落ちる。

「……今日、見てたよ」

 突然の言葉に顔を上げると、そこには司波が立っていた。

 窓の光を背にしていて表情がよく見えないけれど、その声はどこか暗いように思う。

「……何を?」

 とぼけるように言うと、彼はゆっくりと口元を歪めて、かすかに笑った。

 でもそれはどこか寂しげな、揶揄にも似た笑いだった。

「3限目のあと。中野先生がよろけたとき。あれ、偶然だったけど俺、見てたんだ」

「……」

 言葉が喉に引っかかる。

 どうして、そんなところにいたんだろう。

 いや、それより——どこまで見られていたのか。

 何も言い返せないでいると、司波はすこしだけ声のトーンを落として言った。

「支えてたろ? 先生のこと」

「……」

 返せなかった。

 うまく言葉が出てこなかった。

 司波は机の縁に手をついて、じっと私を見下ろす。

 その視線がやけに痛い。

「……心配だったから、って言えば、聞こえはいいよね」

「……別に、そういうつもりでは」

「わかってるよ」

 遮ろうとした私の言葉に、彼はすぐまた言葉をかぶせる。

 そしてほんのすこしだけ笑って、視線を逸らした。

「でもさ。莉乃って、誰にでもあんなふうにする?」

 その言葉は優しさに包まれていたけれど、鋭く刺さる。

 司波の声色はすこし不安だった。

「あれって、中野先生だから、だよね」

「……」

 頷けなかった。

 でも、否定もできなかった。

 胸が苦しい。

 言葉が詰まって、視線を落としたまま、机の書類に手を置く。

 指先が震えていた。

 そんな私を、司波くんはしばらく見つめて——やがて、大きく息を吐いて言葉を続ける。

「……ああいう顔、するんだなって思ったんだ。中野先生」

「……え?」

「頼った、っていうか……誰かに甘えるような顔。初めて見た」

 その言葉が、ずしりと胸に落ちてくる。

 司波くんが何を思って、何を感じているのか、痛いほど伝わってくるから……すこし調子が狂う。

「……俺、ずっと莉乃を見てるからさ」

「えっ……?」

「だからこういうときだけ……嫌ってほど気づく」

 静かな声。

 でもその奥には、いろんな想いが詰まっている気がする。

「……いや、ごめん。変なこと言った。生徒会の書類、あとで整理しておくから」

 そう言って、司波は私の横をすっと通り過ぎていく。

 その背中はどこか、ひどく遠かった。


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