第8章 静かな音
1. 知りたいこと
頭のどこかで、『知ってしまった』と、何度も繰り返していた。
驚きよりも先に、胸の奥にひやりとした重みが落ちていく。
結婚していた。
そしてその人は、もうこの世にいない。
ただの事実。
それだけのはずなのに——胸の奥で、何かが音を立てて崩れていくのがわかった。
あの無表情の奥に、そんな過去が眠っていたなんて。
音楽室でピアノを弾く先生の姿が、鮮やかに思い出される。
あの指先に、彼女との記憶が宿っていたのだろうか。
鍵盤をなぞるような、あの優しい音。
ときおり滲んでいた、苦しそうな、心を絞り出すような音。
もし、あの旋律が彼女に向けられていたものだったのだとしたら——私は、何を思えばよかったのだろう。
知らなければ、ただ『綺麗な音』として胸にしまっておけたのに。
今は、音のひとつひとつが、ずっしりと心にのしかかってくる。
——どうして、私はあんなに知りたがったのだろう。
距離の測り方がわからない。
先生と私の間にある線を、どこに引けばいいのかもわからない。
知ってはいけないところまで踏み込んでしまった気がする。
でも……それでももう、後戻りはできなかった。
窓の外では、夏の雲が、ゆっくりと形を変えて流れていく。
その雲みたいに、私の中にあった〝先生〟という存在も、すこしずつ形を変えていく。
もう、元には戻らない。
知りたくなかったわけではない。
むしろ——知ってしまったことで、ようやく先生という人の輪郭が、すこしだけ見えた気がした。
でもその輪郭は、触れたらすぐに壊れてしまいそうで、それがいちばん怖かった。
教室で見せる無表情。
旧校舎の音楽室でだけ漂う、柔らかな空気。
そして、その奥に静かに沈んでいた過去。
それらがひとつに繋がって、胸が痛くなる。
どれだけ見つめても、どれだけ耳を澄ませても、先生の中の〝その場所〟に、私が踏み込める日は来ないのかもしれない。
……それでも——思ってしまう。
どうしても、知りたい。
その奥にある音色を、笑顔を、言葉を。
私の知らない先生を。
奥さんと過ごした先生を。
そして、失ってしまったあとの先生を。
鍵盤の上を滑っていた、あの指先。
私はそれを、ただ見つめるしかできなかった。
今の私が泣きたくなるのは、悲しいからではない。
きっと、どうしようもなく——事実を知ったうえでも、先生に近づきたいと思ったからだ。
廊下を吹き抜けた風が、音楽室の隙間から忍び込んでくる。
古びたカーテンがかすかに揺れ、埃の匂いがふわりと漂った。
静けさの中で、先生の指先がそっと鍵盤に触れる。
「……もう一度……弾きますか?」
「えっ?」
先生は小さく息を吐いて、鍵盤の上で指を躍らせ始める。
いつもの、『愛の夢 第3番』。
それはまるで、記憶の底に沈んだ過去から、そっとすくい上げられたような音だった。
重たく、それでも優しい響き。
私の知らない日々。
まだ失われる前の時間が、その一音の中に詰まっている気がした。
胸が、熱くなる。
視界がじんわりと滲んでいく。
けれどその理由を、私はまだ正しく言葉にできない。
息をするのも忘れていた。
音が重なり、時間がゆっくりと流れていく。
この空間のすべてが、静かに呼吸しているような気がした。
——先生の背中は、やっぱり遠い。
でも。
その距離に、手を伸ばしてみたいと思ってしまった。
「……」
私はゆっくりと、左手を鍵盤に乗せる。
先生が奏でる音色に、私のつたない音色が重なった。
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