3. 言葉の重さ
中野先生はあれからも、至って普通だった。
なぜ体調が悪かったのか、何がどうなったのか、そのあたりのことは一切わからないけれど、いつも通り冷たい様子に、すこしだけ安堵したりして。
音楽室の扉を開けた瞬間、空気が変わるのを感じた。
放課後の旧校舎はすっかり日が傾いていて、長く伸びた影が廊下に揺れていた。
誰の声も届かない、ただ静かな場所。
そんな空間に差し込む夕陽だけが、世界に色を残していた。
その静けさの中心に、中野先生の姿があった。
いつものようにピアノの前に座り、無言のまま鍵盤に指を置いている。
先生が奏でる音が夕暮れの光と溶け合いながら、そっと空間に広がっていた。
——フランツ・リストの『愛の夢 第3番』
その旋律は、いつも同じように聴いてきたはずなのに、今日はどこか違って聞こえた。
優しいはずの音に、わずかな影が混じっていて、それが私の胸を強く締めつける。
「……」
私はそっと扉を閉め、足音を忍ばせながら近づいた。
音楽を遮らないように気配を殺して、でもほんとうは先生に気づいてほしいと思いながら。
曲の終わりが近づくと先生は指を鍵盤から離し、ゆっくりと肩を下ろした。
私が隣に立っていることには、とうに気づいていたのだろう。
静かに顔を上げて私を見た。
「……」
その瞳は思っていたよりも深くて、静かだった。
言葉をかけるのがもったいないくらい、綺麗な沈黙とさえ思えてしまう。
「先生の……体調、まだ本調子ではないですよね?」
「……」
先生は視線を逸らすでもなく、まっすぐ私を見ていた。
それが肯定なのか否定なのか、はっきりとはわからなかったけれど、無言がすべてを語っているように思える。
「無理しないでください。先生の〝大丈夫〟って、まったく大丈夫ではないと思うのです」
すこしだけ、目元が和らいだような気がした。
それでも何も返ってこない。
私はそっとピアノの椅子の端に腰を下ろす。
先生の隣に座るのが、こんなにも緊張するなんて思っていなかった。
鍵盤の蓋は半分ほど開いていて、まだほんのすこしだけ余韻が残っている。
沈黙が満ちる。
夕陽が窓の格子を通って、床に淡い影を落としていた。
その中で、私は再び口を開いた。
「……中野先生」
名前を呼ぶ声が震えそうになるのをこらえた。そして溢れる想いを、しっかりと言葉にする。
「私、中野先生のピアノが、ほんとうに、すごく好きです」
指先が、膝の上でぎゅっと固まる。
心臓が飛び出しそうなくらい大きな音を立て、呼吸が苦しくなる。
「いつも無表情なのに、ピアノを弾くときだけ……すこし、苦しそうで……でも、すごく優しくて。先生の全部が、そこにある気がして、胸が苦しくなります。その心に、触れてみたくなります」
「……」
先生は目を閉じたまま、静かに話を聞いていた。
表情は読めないけれど、しっかりと聞いてくれていることだけはわかる。
私は、小さく息を吐いた。
ここまで来たなら、もう元には戻れない。
「……とはいえ、ピアノなんて……今は私が先生に近づくための口実にすぎません」
言葉がこぼれ落ちた瞬間、空気がすこしだけ張り詰めた気がした。
それでも私は、まっすぐ前を向く。
今ここで、逃げたくなかった。
「……私、中野先生のことが、好きです」
その一言が、部屋の静けさに吸い込まれていく。
重力を持ったみたいに、ぽとりと音を立てて落ちる。
心臓の鼓動が早まって、自分の身体の中で反響しているのがわかる。
呼吸のしかたすら、忘れてしまいそうだった。
「……先生に、忘れられない人がいるのも、理解しています。私なんかが、踏み込んではいけない場所があるってことも……きちんと、わかっているつもりです」
喉の奥が、詰まる。
それでも言葉を止めたくなかった。
この気持ちだけは、しっかりと最後まで届けたかった。
「……でも、それでも……私は、先生のそばにいたいです」
「……」
「どんな形でもいいから……先生が奏でる旋律を、温かさの中に滲む悲しみを……苦しみを、そばで受け止めたい。先生のいちばん近くで、聴いていたいんです」
言葉を言い終えたあと、私はそっと視線を落とす。
瞼が熱くなって、涙が今にも溢れそうだった。
先生は何も言わなかった。
ただ静かに、鍵盤の上に手を置いたまま固まっている。
音楽室には、まるで時が止まったかのような静寂が満ちていた。
——やはり、答えなんてもらえないんだ。
そう思って、小さく肩をすくめたそのときだった。
ぽつりと、隣から消えそうな声が聞こえてくる。
「……〝誰かの代わり〟として、君を見ることはできません」
優しく、けれど揺るぎなく、まっすぐ届く声だった。
はっと顔を上げると、無表情の先生が視界に入る。それでも——その視線はしっかりと私の方を見ていた。
「今はそれだけを……伝えておきます」
目の奥が痛み、視界がぼやけ始める。
頬に涙が一筋、落ちていく。
こらえようとしたけれど、もう無理だった。
それでも、泣きながらでも——どうしても笑いたくて、頑張って口角を上げる。
「……」
それっきり黙り込んだ先生は、再び指を動かしてピアノを奏で始める。
またいつもと同じ、『愛の夢 第3番』。
その旋律に、私は静かに酔いしれる。
旧校舎の音楽室には、いつもと違う空気が流れていた。
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