2. 気になる姿
クラスマッチが終わる頃には午後の日差しも和らいで、風にすこしだけ夕暮れの匂いが混じっていた。
生徒たちはぞろぞろと帰り支度を始め、体育館も校庭も、喧騒がすこしずつ収まっていく。
私は生徒会室に戻って、競技ごとの記録表を机に広げていた。
なんとなく水を一口飲んで、椅子に背中を預ける。
そして両手で顔をこすると、ようやく〝終わった〟と実感が追いついてきた。
楽しかった。
それは嘘ではない。
でも、心のどこかに引っかかっているものがある。
それがなんなのかをうまく言葉にできないまま、私はぼんやりと指先でボールペンを転がした。
——最近、あの人のことばかり思い出している。
ネクタイを外す仕草。腕まくりをするときの無駄のない動き。
何よりも、無表情のままネットを揺らしたあの一投。
歓声に反応することもなく、静かに歩いていた背中。
……なんだったんだろう、あれは。
目に焼き付いて、頭から離れなくて、どうしようもないくらい……心が惹かれてしまう。
ピアノだけではない、何か。
それを認めるのは怖いけれど、もう私自身も、気づかぬふりができなくなっているような気がした。
「——藤里さん、お疲れ」
ふいに聞こえた声に、心臓が一瞬だけ跳ねた。
顔を上げると、生徒会担当の深川先生がプリントの束を抱えて立っていた。
「ドッジボール、大変だっただろ? この暑さで、ぐったりなるよな」
その言葉に、すこしだけ笑ってみせる。
「はい……でも、楽しかったです」
深川先生は優しく笑い返してから、プリントを机の端に置いた。
珍しいジャージ姿は、どことなくいつもと違う雰囲気を醸し出している。
「それにしても——」
おどけたように目を見開き、すこし芝居がかった口調で続ける。
「中野先生があんなふうに参加するなんて、ちょっとレアすぎてびっくりした」
「……そうですね」
なるべく平静を装って答えたけれど、言葉が喉に引っかかった。
胸の奥が、きゅっとなる。
話題にされると余計に、なんでもないふうに振る舞うのが難しくなる。
まるで奥に隠していたものを、急に白日のもとに晒されたみたいな。そんな感じがして、胸が苦しい。
「俺、あの人が運動するところ初めて見たかも。てっきり文化部系かと思ってたのに……しかも、なんか上手かったし!」
「……無表情のままでしたけどね」
「それよ!」
深川先生は、笑い声と一緒に軽く手を叩いた。
「うちのクラスの子が『あれはAIだ』って言ってて、笑ってしまったんだけどな。中野先生は、もっと感情出してみたらいいのに」
冗談めいた調子。でも、妙に的を射ている。
私は目の前の紙に視線を落として、笑うタイミングを探した。
「でも、今日の中野先生……なんかちょっと違ったよな。雰囲気というか、立ち姿というか。うーん、気のせいかな」
深川先生は独り言のように言って、それから手元の資料を整えた。
「てか、スーツのまま参加するのもどうかと思わない? 先生たち全員ジャージなのに、ひとりだけスーツ。もはやミステリアス通り越して、ちょっと浮いてたよね」
「……たしかに」
乾いた声でそう返すのが精一杯だった。
ほんとは、笑いたいのに。
言葉にすれば、何かが漏れてしまいそうで。思うように言葉を出すことができなかった。
——そんな私の挙動に気づいたのか。
深川先生はふと視線をこちらに向けて、目を細めた。
意味ありげな眼差しで見つめられ、つい目線を逸らしそうになる。
「……なんかさ、藤里さんって、時々、中野先生のこと気にしてるよね」
「……」
心臓が跳ねた。
視線が宙を泳ぐ。動揺のあまり、思わず手元のボールペンを落としそうになる。
「え、い、いえ、そんな……!」
「そう?」
先生はにやりと笑う。だけどそれ以上、追及することはなかった。
「……」
深川先生は、静かに生徒会室を後にする。
ひとり残された私はさっきからずっと、中野先生の姿を頭の中で思い浮かべていた。
腕をまくる指先。
ネクタイを外す横顔。
無表情のまま、ボールをリングに沈める動作。
喜びも、照れも、何も浮かべなかったその顔を、私はどうしてこんなにも、覚えているのだろうか。
胸のあたりが、またざわついた。
あのとき感じた痛みのようなものが、再び身体の奥で疼きはじめる。
ただの先生なのに。
他の誰よりも、近寄りがたいはずの人なのに。
私の中に芽生えたこの感情を、なんと呼べばいいのかがわからない。
気づけば、手のひらに汗をかいていた。
指先がすこしだけ震えている。
私はそれを自覚したくなくて、そっと手を握りしめた。
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