第4章 初めての一面

1. クラスマッチ


 朝から、学校はすこしだけざわついていた。

 今日はクラスマッチ。運動が得意でも苦手でも、とりあえず全員が体育館や校庭に引っ張り出される、年に2回、夏と冬の恒例行事だ。

 廊下の空気もどこか弾んでいて、体操着のまま走り回る男子、テンション高めの女子たちの笑い声が飛び交っていた。

 私は体育館の隅で水を一口飲み、すこしだけ溜息をつく。

「……暑い」

 生徒会は運営や得点計算など、やることがたくさんある。

 そんななか、私はドッジボールの審判となっていた。

 スポーツカウンターの横で試合を眺めながら、頭ではなんとなく違うことを考える。


「——莉乃、大丈夫か?」

「え?」

 背後から声をかけてきたのは、同じくドッヂボールの審判を任されている、司波だった。

 司波は手に持っていたうちわをあおいで、私に向かって風を起こす。その涼しさに、つい口角が上がってしまった。

「ありがと、司波。ちょっと暑いけど、平気だよ」

 そう言って笑ってみせると、彼は心配そうに視線を逸らし、手元の記録用紙に何かを書き込んだ。

 ふと、私の視線が泳ぐ。

 気づけば無意識のうちに、誰かを探している自分がいた。

 ——いた。

 体育館の奥、バスケットボールの試合を見守る教員たちの列。そのなかに、ひとりだけジャージではない人影がある。

 中野先生だった。

 黒のスーツ。しっかりとネクタイを締めて、ジャケットまで羽織った姿のまま。腕を組み、体育館の壁にもたれかかっていた。

 この熱気のなかで汗もかかず、どこか異物のように立っているその姿に、目が離せなくなる。

 どうしてあの人だけは、ああしていられるのだろう。

 そんなことを思いながら、私は再び、喉の渇きに気づいて水を飲んだ。



 次のバスケットボールの試合は、中野先生のクラスの男子が出るらしい。

 ただ欠席がいるようで、規定の人数に足りないとか。

 そんな理由で、隣のコートはやたら盛り上がっていた。

「——中野せんせーい! あとひとり足りないんですってば!」

「担任なんだから、助けてくださいよ!!」

 バスケットコートの中央で、男子生徒が元気いっぱいに手を振っていた。

 みんなの視線の先には、あの黒いスーツ姿。

 そう、中野先生だった。

「えっ、中野先生!? 出るの?」

「マジ? 中野先生がバスケ? 動けんの!?」

「やば、あの人走るんかな……スーツのままで?」

 騒ぎ立てる生徒たちの声が、あっという間に体育館のあちこちに飛び火していく。

 気づけば私も、胸の奥がざわついていた。

 あの中野先生が行事に参加するなんて——想像すらできない。

 先生はと言えば、やはり断っているようだった。

 頭を軽く下げ、生徒に向かって何かを告げている。

 けれど、生徒たちは引き下がらない。

 他の教師たちも、楽しそうな表情で中野先生の方を見つめていた。

「先生〜! 1回だけ! 1回でいいから!」

「先生が出たら、絶対盛り上がりますって! お願いします〜!」

 あの中野先生に、軽く声をかける先生のクラスの生徒。物怖じしない様子に感心しつつ、動向を見守る。

 にこやかに肩を叩かれた先生は、一瞬だけ視線を伏せた。

 そして、ほんのわずかに口元を引き結ぶと、深く、静かに頷いた。

 ——その瞬間。

「うおぉぉぉー!!」

「中野先生、かっこいい〜!!」

 歓声が一気に弾け、体育館の空気がぱっと明るくなる。

 生徒たちが跳ねるように喜び、誰もがその場を騒ぎ立てる。

 中野先生は、やはり無表情で無言だった。

 でも、ジャケットのボタンを外し、丁寧に袖を抜いて床に置く。ネクタイの結び目に手をかけると——ゆっくりと、それも緩めて外した。

 その仕草に、なぜだか息が詰まる。

 白いシャツの第1ボタンを外して腕をまくった姿は、見たことのない人みたいだった。

 そんな先生の姿がどこか新鮮で、誰もがその顔に視線を向ける。

 まるで、いつもの仮面をほんのすこしだけ下ろしたような、そんな印象。なのに顔つきは相変わらず無表情で、静かなままだった。


 コートに入った先生は、言葉も発さず、仲間の生徒からボールを受け取る。

 軽くドリブルを試しながら、審判の生徒会メンバーにボールをパスした。

 そして、試合開始の笛が鳴ると同時に——ゆっくりと動き出す。

 日頃の様子からは想像もできない動きに、誰もが息をのんだ。

 ——え、ちょっと待って、うまい……?

 その瞬間、周囲がまたざわめいた。

 先生の動きはぎこちなくもなく、むしろ滑らかで上手だった。

 生徒からパスを受け取り、ドリブルで一歩抜けて走り出し、そのままジャンプをする——ボールは綺麗な放物線を描き、あっという間にネットを揺らした。

「決めた!!」

「え、中野先生やばい!!」

「無表情のままとか、逆に笑えるって!」

 笑いと歓声と拍手が、一気に体育館を包み込む。

 けれど中野先生はほんの一瞬だけ、眉をピクリと動かしただけで、特に感情は見せなかった。

 喜ぶチームメンバーがハイタッチを求める中、先生は適当に応じて、そのまま静かに歩いていく。

 ……なぜだろう。

 胸が、締めつけられるように痛む。

 みんなが盛り上がっているこの空間で、私だけが何か別の感情を抱いている気がした。

 あの人が、また新しい一面を見せた——それが、嬉しいような、苦しいような、そんな感じがした。

「……莉乃、目の前の試合見てる?」

 隣から、司波の声がした。

 すこし不機嫌そうな声色に、勢いよく顔を動かす。

「え……?」

「……さっきから、中野先生の方ばっかり見てる。莉乃は、ドッヂボール担当だよ」

「わ、わかってるよ……ただ、ちょっと、珍しいなって思って……」

 慌てて取り繕う私に、司波はほんのすこしだけ目を細めた。

 けれど、それ以上は何も言わなかった。

 試合の経過を記録する手元が、微かに震えていたような気がした。


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